>> 籠庭の供物


「供物」





 どうしてこんな事を願うようになってしまったのだろう。
 知らぬうちに胸の内からドス黒い感情が溢れるように零れだしたヤマムラの器は、もうその願望を超越した欲望で一杯になっていた。

 おそらくあの夢から……狩人の悪夢より戻ってから。
 正しく言うのであれば、あの夢で見た、あるいは出会った「淀みの本質」に触れてから、ヤマムラはすこしおかしくなってしまったのだろう。
 いや、「おかしくなった」というのは正しくないのかもしれない。より正しく言うのなら、「押さえつけてい本性が目を覚ました」というべきだろう。

 元よりヤマムラは、善人ではなかったが悪人でもないつもりでいた。
 だがそれはただ単純に悪に落ちると後々面倒事が増えるから避けていたというだけで、心の底にはこびり付くような衝動をひた隠しにしていたのだ。

 思う存分、暴力に酔いしれたい……。
 誰かを傷つけ、束縛し、支配したい……。

 ……頭の中にずっと鉛のように重く黒い染みがこびり付いているようだった。
 その染みは少しずつ広がり、ヤマムラの中の理性を……守ろうとしていた倫理を少しずつ犯し、かわりに欲望を膨らませていく。

 逃したくない、離したくない。
 愛しいものに、もう何処にも行ってほしくはない……。


「ヤマムラさん、大丈夫ですか」


 ヤマムラの様子を見て、具合が悪いとでも思ったのだろう。
  アルフレートは心配そうに顔をのぞき込んでから、ぼんやりとベッドに寝転ぶヤマムラの隣で紅茶をいれた。


「ハーブティですよ、えぇっと、レモングラスって言ったかな。ハーブティは気持ちを落ち着けるのにいいと聞いたので……普段の紅茶と違って美味しくはないかもしれないけど、どうぞ」


 アルフレートは穏やかに笑うと、ほのかに柑橘類のかおりがするティーカップを差し出す。
 その笑顔は、アルフレートの年齢からするとすこし幼くあどけなくも見えただろう。

 アルフレートは、決して恵まれた環境で育ってはいなかった。
 家族があり、兄弟たちと育ち、たしなみ程度に剣をたしなみ……人並みに愛されて育ったヤマムラと比べれば明らかに不遇な少年時代を過ごしていたと言えるだろう。

 頼れる存在もなく、ただ孤独で、まるで真夜中の海を漂う木片のように沈んでは浮かび、浮かべばまた沈まされる……そんな運命を当然のように受け入れて歩んでいたのだ。

 だからだろう。
 子供の頃に笑った事があまりにも少ないから、笑った時にはまるで少年のような表情に戻ってしまうのだ。

 それは彼が幼い頃から笑う事すら許されなかった悲惨な境遇を示す事を意味していたが、それでもヤマムラは彼のその幼くあどけない、誰にも汚されていない笑顔を見るのが好きだった。


「あぁ、ありがとう……頂くよ」


 ベッドから起き上がりカップをとってハーブティをすする姿を、アルフレートは不安そうに眺めている。
 それはヤマムラの一挙手一投足が気になっているといった様子だった。

 今のアルフレートが、深くヤマムラを愛しているのは明白だった。
 どうやら「心から人を愛した」という事はアルフレートにとって初めての体験で、それ故にヤマムラに嫌われる事、ヤマムラを失う事を過剰なまでに恐れていたのだ。

 アルフレートの失われた少年時代はあまりにも大きく、その過去も血も身体も精神も蝕まれたと。
 そう言っても過言ではないだろう。

 誰にも優しくされた事などなく、大人たちは困難を強いて彼を抑制し道具、あるいは玩具として弄ぶだけの存在でしかなかった。
 屈折した愛情しか知らずに育ったアルフレートは、美しい外見と物腰柔らかな外面だけを整えて、その心は歪に歪み、最早取り返しのつかない程に捻れながら壊れていた。

 あるいは、もっと早く「ローゲリウス師の言葉」そして「処刑隊」の存在と出会っていなければ、アルフレートは完全に壊れた玩具として一生涯、娼館から出ず快楽の傀儡として歓喜に狂うか、理論の円環から外れた殺人鬼として野に降り立ち数多の死体を積み上げるか、そんな末路を送っていただろう。


「おいしいよ、アルフレート……ありがとう。心が落ち着く、良い香りだ。カップのセンスもいいね。ふふ、アルフレート、キミはいつでも俺のしたい事をしてくれて、嬉しいよ」


 ハーブティを飲み干して、穏やかに笑ってそう告げればアルフレートは輝くような笑顔を向ける。


「よかったぁ、ヤマムラさんの口にあって……実は、ヤマムラさんが飲んで感想を言うまですっごく不安だったんですよ」


 そしてぽつりとそんな事を呟くのだった。

 ヤマムラが感想を言うまで不安だったのは、本当だろう。
 処刑隊というより所を得た後、アルフレートはそれから暫く後にヤマムラと出会う事になる。

 切っ掛けはそう、ヤマムラの得物である「千景」と呼ばれるこの剣が「血族」の使う武器であり、その武器を扱う俺を血族の関係者だと思って付け狙われていた……いわば「仇敵と勘違いされていた」のがアルフレートとの出会う発端であり、その経緯から最初は斬り合いから始まった仲だったが、誤解がとけてから元より人懐っこいアルフレートはすぐにヤマムラと顔なじみになり、気付いた時には隣にいる相棒となり、その気持ちは自然と恋慕のものへと変っていた。

 ヤマムラは……処刑隊の亡霊にしがみつかなければ自我すら保てないこの青年を哀れに思ったし、同情もした。
 そして、そんな事をしなくても……自らを犠牲にしなくとも人は「幸せ」になれるのだと、誰でも幸せになっていいのだと教えたかった。
 そう、以前のヤマムラは純粋な好意で彼に接して……その中から愛が芽生え、彼を傍らに置くようになったのだ。

 あの頃のヤマムラは、アルフレートのあるがままを受け入れて、たとえそれが一時の慰めにしかすぎなくとも幸福にしたいと、幸せを味会わせたいと思っていた。

 だが、今は違う。
 この青年を、誰にも渡したくないと心の底からそう願っていたし、生涯アルフレートを自分の傍らにおいて愛でる事こそ本当の愛情で幸せなのではないかと、本心からそう思っていた。

 そう思えば思うほど、以前の自分との価値観の差に気付く。
 だが価値観の差が出たのではない、元々ヤマムラはそう思っていたが、それを抑制していたのだ。
 アルフレートのため、そのほうが彼の本意である。そんな言い訳を枷に、アルフレートをみすみす死地へと追いやろうとしていたのだ。

 ……何という愚かな事だ。
 そして何て自分に対して嘘つきだったのだろう。

 アルフレートはヤマムラのものであるべきだ。
 自分の恋人であり、自分の所有物であり、自分の供物だ。
 その目も肌も体温も、爪の一欠片から髪の毛一本に至るまでヤマムラのものであり、ヤマムラが自由にするべきだ。

 ……処刑隊などに、奪われてたまるか。

 元よりアルフレートは玩具、あるいは傀儡。
 その自我を他人に委ねる弱い弱い人間だ……それなら、その自我を自分が……ヤマムラが決定してもいいだろう。

 処刑隊にその身を委ねれば、処刑隊は皆ローゲリウスの傀儡。
 カインハーストへ赴き、一人だって帰ってこなかったのは今でも伝わっている。

 アルフレートも同じ轍を踏み、ローゲリウスの言葉に忠実であり続けるのなら、きっと処刑隊として殉じる事だろう。

 ……何て無駄な事だろう。
 これからアルフレートには1年後、3年後、5年後、10年後の未来がある。いくらだってあるはずだ。

 だがもし処刑隊でありつづけるのなら、その未来はまもなく「死」という名の終演を迎えるのだろう。
 彼が処刑隊である限り、血族、カインハースト、そのいずれかに囚われてある先は死なのだろうから。

 あぁ、許せない。許せない許せない許せない。
 こんな優しい青年が、その心に毒を浴び、今や虚無の供物として捧げられようとしている。

 自分の供物ではない。
 自分のものになればもっと幸せになれるじゃないか。
 自分ならもっと幸せにできるじゃないか。
 大切にしてやれるじゃないか……。

 ……そう、愛しているのだから。


「ヤマムラさん」


 気付けばヤマムラの隣に座るアルフレートを抱き寄せ、その耳元で囁く。


「アル」
「なんです……ふふ、くすぐったい……」
「キミはいずれ処刑隊として、行ってしまうんだろうな。俺をおいて」


 普段は触れない処刑隊の話をされ、アルフレートはやや驚いたように目を見開いた。


「な、んです急に。私は……」
「……俺も行っちゃダメか。俺も、キミと……処刑隊として」
「ダメです。ヤマムラさんに、背負わせる訳にはいきませんから」


 ヤマムラの提案を、アルフレートは頑なに突っぱねる。
 ……自分が背負ってはいけないものを、どうしてキミが背負わなきゃいけないんだ。
 ヤマムラは内心そう思い、舌打ちをしていた。


「……俺の事、嫌いか?」
「な、何言ってるんですか! ……好きです。好きに決まってるじゃないですか。愛してます……あなたは、初めて私に愛を教えてくれた人だから……」


 愛しているなら、どうして行ってしまおうとするんだ。


「……俺は、ずっとキミを愛している」
「私もです……」
「手放したくない、キミをどこにもやるものか。例えそれが運命でも、キミを……手放してなんてやるものか……」


 愛しているなら自分の供物になってくれ。
 ずっと傍において、生涯可愛がってやる。
 ずっと愛して……大切に、してやるから。
 一生涯与えられる愛を全て、キミに捧げるから……。


「ヤマムラさ……っ」


 ヤマムラは強引にアルフレートを押し倒すと彼の上に馬乗りになり、その首を絞める。
 アルフレートは驚きこそしたが、不思議な事に抵抗はしなかった。

 あるいはアルフレート自身が、ヤマムラになら殺されていいと思ってくれていたのかもしれない。
 もしそうなら、それは喜ばしい事だろう。
 ヤマムラもまた、アルフレートになら殺されていいとそう思っているのだから。


「ヤマムラさん……」


 アルフレートは小さく言葉を盛らし、やがて手足が脱力する。
 ヤマムラはぐったりと項垂れるアルフレートを抱きかかえると、俺は夜の街へと消えた。

 まだ、殺してはいない。
 一時的な酸欠で意識を失っているだけだろう。すこし休めばすぐに意識も戻るだろう。

 あぁ、そうだ、すこし休めば意識は戻ってしまう。
 そのうちに、誰の手も届かない所にいかなければならない。

 自分とアルフレートが二人だけで静かに過ごせる場所を、見つけなければいけないのだ。


 「アルフレート、さぁどこに行こうか……静かな所がいいな。誰にも縛られない俺たちだけの世界へ……」


 ヤマムラは僅かな荷物をもち、ヤーナムの闇に消える。
 そして人形のように動かなくなったアルフレートをかかえ、月の悪夢もとどかぬもっと深い闇へと足を踏み入れていった。

 もう、彼らを探せるものは誰もいないのだろう。




「楽園の鳥籠(エデンズケージ)」





 窓から差し込む光の向こうで、鳥の囁きが聞こえる。
 きっとここは空気の良い、自然のある森の中なんだろうと、アルフレートは感じていた。。

 彼は朝食のパン屑を窓辺に近いテーブルまで手を伸ばしてまけば、白と黒という地味な色ながら綺麗な音色で鳴く小鳥がつがいでやってくる。


「おいしいかい。おいしいだろう。ふふ、ヤマムラさんがくれる食事はいつでも美味しいですからね」


 アルフレートがそう言えば、小鳥たちは嬉しそうに鳴いてみせる。
 黒く丸いヒトミをもち餌をついばむ姿は、時々首をかしげているようにも見えた。

 そんな私の部屋に今日も、あの人が。
 ヤマムラさんがやってくる。


「アルフレート、調子はどうだ?」


 穏やかに笑いながら、片手にはいくつかの本が抱えられていた。
 この部屋は、決して広くはないけど何でも揃っている。
 海で拾った貝殻。不思議な世界の物語を紡いだ本。水煙草。柔らかい臭いのする香炉。やけに曲がったナイフ。

 あちこちで集められた珍しい品は全て何かしらの物語をもっていて、ヤマムラは辿々しいながらその「いわく」を話してくれる、
 その時間がアルフレートは何より好きだった。


「アル、今日は本を買ってきた。動物が出てくる本だ、キミには幼いかもしれないが……」
「どんな本でも、貴方が読んでくれれば私は幸せですよ」
「そうか?」
「えぇ、でも今は……そうですね、髪を先に整えてくれませんか。暫く切ってないですから、随分と伸びてしまって……」


 アルフレートは、すこし長くなった癖毛を指先で弄る。
 ヤマムラはきっとこのくらいの長さでも好きだと言ってくれるだろう。だけど、アルフレートは髪を伸ばすのはあまり好きではなかった。
 女のように装って夜の街に立っていた頃を、どうしても思い出してしまうからだ。


「すこし長くてもキミは可愛いけどな」


 やはりそう言うヤマムラに、彼は含むように笑う。


「ふふ、でも私は短い方が楽なんです……お願いします」


 そしてそう言いながら、ベッドの横にある椅子へ腕だけで移動した。

 ……足は、ない。
 この部屋につれてこられてすぐ、ヤマムラに切り落とされたからだ。

 だからアルフレートは、もう自分の力では何処にもいけない。
 そもそもこの部屋が何処なのかも知らないし、ヤマムラは外から鍵をかけ閂までつけて彼を閉じ込めてしまっているから、出ようものにも出られないのだ。

 でも、それでいいんだと思っている。

 ヤマムラはその狂気で、彼の狂気を断ってくれたのだから。
 二度と歩けなくなれば自分をしばる処刑隊の呪縛が緩む事を知って。
 何処とも知れない場所へと連れ去られれば、歩けない身体では己の使命を「あきらめざるを得ない」事を知って。
 閉じ込めて逃げられないようにしてしまえば、ここに留まるしかない事を知って。

 全て、アルフレートがヤマムラを愛している事を知って……その愛を信じてしてくれたからしたことだ。

 ……すべてを知って、自分が狂気を孕む事で全ての狂気を飲み込んで、この小さな鳥かごで二人、生きる事を望んでくれたのだ。
 ヤマムラはその一生を、アルフレートにささげる道を選んでくれたのだ。

 なんという幸福な事だろうと、改めて思う。
 今彼の髪に降れる指先も、向けられる笑顔も全てアルフレートのものなのだ。

 切りそろえられた髪の仕上げにと、ヤマムラさんは貝殻に入れられたルージュを私の唇にひく。


「やはり綺麗だなキミは、何をしてもよく似合う」
「ふふ……当たり前ですよ。あなたの……あなたの愛しいアルフレートは、いつだって貴方の美しいアルフレートです」


 アルフレートが笑うと、ヤマムラもまた笑う。
 そして自然と唇が重なり、静かなキスが続いた。

 あぁ、そうだわかっている、これは狂った児戯だ。
 いつまでこんなままごとのような箱庭が、存在できるはずがないのだ。

 ヤマムラが、あるいはアルフレートが死ねば簡単に崩壊してしまうだろう。

 だがそれでもいい。
 ままごとでも、茶番でも、今、二人で静かに生活できる、この世界があるのなら足などくれてやる。

 なんて安い対価だ。なんて安い対価での幸福なのだ。
 二人は自然と互い、強く抱きしめる。


「ヤマムラさん、ヤマムラさん……愛してます、愛してます……貴方だけを、ずっと、これからも……」
「あぁ、アルフレート……俺もキミを……愛してる。キミを俺だけのものに……俺だけの……」
「はい、貴方だけのアフルレートです。貴方だけのアルフレートですから……貴方も、私だけのヤマムラさんでいてくださいね……」


 互いにキスを幾度も幾度も繰り返す。
 この世界に、二人を咎めるものも、留めるものもいない。

 ここは楽園なのだ。
 いずれ朽ちたたとしても、ここが二人の平穏であり、この平穏こそ永遠なのだ……。


「あぁ、私は本当に幸せです……」


 ベッドに横たわり、夢見心地で呟く。
 窓辺には小鳥たちが相変わらず美しい声で囀っていた。






 <でぐちこちら。>