>> あまえじょうず
あの時私が恐れていたのは、果たして何だったのだろう。
あの人に嫌われる事だろうか?
それとも、あの人から私への興味が失われる事?
あぁ、それらはどちらも「愛されない事」というのではないか。
だとすれば、あの時の私は、「嫌われる」のが怖かったのだろう。
肌を重ね欲望に身を溶かす方法を先に知り、それが本来愛を確かめる為に行うものだと知らなかった私だから、初めて人を愛した今、ただその人に嫌われ、愛想をつかされ捨てられる事が怖かったのだ。
愛し合って仲むつまじいようなカップルでも、突然別れてしまう事がある。
どんなに尽くしている相手でも、突然ボロ雑巾のように安っぽく捨てられてしまう事があるのも知っている。
そういう姿は娼館などで沢山見てきたから、私は愛だの恋だのその手の言葉をいくら語らっても、心からそれを信頼する事ができないままでいたのだ。
あぁ、だからあの頃の私は、とにかくただあの人に……。
ヤマムラさんに心配かけまいと、普段の自分ができない事でも何とかやろうと努力をした。
血族を狩る私は山歩きが苦手だったけれども、ヤマムラさんが山狩りをすると言えば 「いいですよ、付き合いましょう」 慣れないとか怖いとかそういう事はおくびにも出さず、穏やかな笑顔で了承した。
息の上がるような山登りになっても、私はただ黙って黙ってヤマムラさんについていった。
その夜泊まった山小屋では足が肉刺だらけになり痛くて眠れず、翌朝は早めにおきて包帯を巻いて誤魔化しつつ山歩きに付き合ったが、街に戻った時には足の皮はズルズルにむけており、靴もすっかり血にまみれ処分してしまった事がある。
ヤマムラさんはわりと平気で獣道でも歩いていってしまう人だけれども、私は森はともかく虫の類いは酷く苦手で、蜘蛛の巣を手で払う時などは内心悲鳴をあげそうになっていた。
そうやって、無理をして……できない事も、ガマンをして。
ただヤマムラさんに嫌われたくないと、そんな事もできないのかと思われたりするのが怖くて、怖くて、私は何も文句は言わず、ただ笑顔を浮かべて彼の後をついていった。
それが正しいと、最善の行動だと、そう信じていたからだ。
ヤマムラさんに何か聞かれた時は、大概は 『楽しいです』 と、いつも笑いながら言っていた。
ヤマムラさんの足は速く移動距離はいつもえらく長い。遠い東方の地からきたのは伊達じゃなく、健脚といっていいだろう。
その後を私は教会の石槌を抱えてふうふういいながら、一生懸命ついていった。大変なのは確かだが、楽しかったのは嘘じゃない。
ヤマムラさんと一緒にいられる時間は、今まで私の体験した事がない喜びに満ちていて……嘘偽りなく 「楽しい時間」 だったから、私はいつも笑っていた。
だがその笑顔が心からなのかと言われれば、今考えると疑問に思う。
笑ってなければいけない、丁重に接していなければ嫌われてしまう……そんな不安な気持ちが大きくて、かなり無理をしていたのは本当の所だった。
それでも嫌われたくない。
ただずっと、私の事を好きなままでいてほしい……そう願っていた私にとって。
『アルフレート、もっとキミは俺を頼ってくれてもいいんだよ』
ヤマムラさんにそう言われた時、まさに虚を突かれたような思いだった。
それは、それまで私の周囲にいた大人たちが 「何でも自分一人でできるようになれ」 と迫っていたからかもしれないし、 「自分が何かやれないと誰もやってくれなかった」 そんな環境に長くいたからかもしれない。
とにかく頼っていいと、そう言われたのが初めてだったものだから急にそう言われた時は酷く困惑したのを私はよく覚えている。
頼るというのは、どうすればいいんだろう?
何かを人にしてもらうのが、頼るという事なのだろうがそれは相手を困らせるのではないか?
自分でできる事は自分でやらなければいけない、それが当たり前の事ではないか。あぁ、でもそれをすこしばかり、頼っていいと言ってるのだろうか。
頭では漠然とわかっている。
だが、もし頼りすぎてしまったら嫌われてしまうかもしれないし、私にとってそれは一等に恐ろしい事だったから、そうして暫く黙っていると、ヤマムラさんはふとこっちを向いて。
『……すまんがアルフレート、靴紐がほどけてしまって……結んでくれないか?』
そんな事を頼んできた。
私はそう言われた時、とにかく嬉しくて…… 「ヤマムラさんに尽くす事ができる」 という喜びで胸が一杯になって、すぐに 「はい、わかりました!」 そういって跪くと、ほどけた紐を丁重に結びなおしてあげたのだ。
『どうです、綺麗になっているでしょう?』
『あぁ、上手だ。キミに頼んだ甲斐があった……ふふ、俺はこうやっていつも遠慮なくキミに頼み事をするのに、キミは何も俺に望まないから……すこし不安になってしまうんだよ』
そこで、ヤマムラさんは私の顔をのぞき込む。
『俺は頼りないか? ……愛されていないのか、とか……考えてしまうんだよね。はは、小さい男だろう? ……でも、年下のキミに頼られないというのはすこし寂しいもんだ。キミはまだ若いんだからできない事もあるだろう? そういう時は年の功、俺の力を借りてもいいんだよ?』
そう言われ、私はすっかり困惑する。
ヤマムラさんに嫌われまいと、迷惑をかけまいと何でも一人でやってきたが、ヤマムラさんにとってそれは「寂しい事」だったのだ。「愛されてない」と不安になるほど、大きな事だったのだ。
だがそれでも私は迷っていた。
……頼っていいとはどの程度だろう。それが全く分からなかったからだ。
『だからもっと甘えてくれ。俺はキミと随分歳が離れているから、頼られるのは嬉しいもんだ』
ヤマムラさんは「甘える」のがさも当然という風に笑うが、私はほとんど泣きそうになってあの人の手を握る。
『そんな事いわれても……わたし、今まで甘えた事なんてなくて……何でも一人でやってきましたから、その……甘えるのなんて……』
するとヤマムラさんは私の手を握り返して、また穏やかに笑うのだった。
『そうだな……まず、先に言うが……自分のできない事を、手伝ってもらうのは甘えじゃない。これは協力だ……そして、自分が辛い時に助けてもらうのも、甘えとは違う。だからそういうのは、遠慮なく頼ってくれ』
『そう言われても……』
『虫が苦手なら、蜘蛛の巣くらい俺が払ってやるから遠慮しなくていいんだぞ』
そう言われ、私はかぁっと赤くなる。
ヤマムラさんにはバレないように棒などで払っていたが、どうやら見抜かれていたらしい。
都会育ちの私はどうも、蜘蛛のように足の多い生き物は嫌悪感が先立つのだ。それが獣の病や何かしらの怪異で生まれたバケモノなら、まだガマンして倒せるのだが……。
『そう、そういう時は頼ってくれ。苦手なものは誰だってある、そういうモノを代わりにできる人間がやるのは、普通の事だ……お互いガマンをしていると、愛情は驚くほど早く冷めてしまうものだぞ』
ヤマムラさんにそう言われ、私はなんだか恐ろしくなる。
愛情が冷めるという、その感覚は今初めて「恋」をしている私にはよくわからなかったが、ヤマムラさんに嫌われるのはただひたすらに恐ろしかった。
『わ、わかりました。もうガマンしません……あの、辛い時とかすぐに言いますから』
『……あぁ、そうしてくれ。俺も一人のペースで戦ってきたから、キミのペースがどの程度なのかわからず、知らずに無理をさせる事もある……そういう行き違いでキミを失いたくないからな……わかるだろう? 失いたくないという気持ちは、たぶん俺もキミも一緒なんだと思う』
ヤマムラさんの言葉は、優しくて柔らかくて……これまで出会ったどんな男たちとも違っていて。本当に、私の全てを受け入れてくれているんだと嬉しく思う反面。
『でも、甘える、かぁ……』
その注文には困惑が隠しきれない。
誰かに頼った事すらないのに、甘えるなんてどうしたらいいのか全然わからなかったのだ。
『さっき、靴紐を結んでくれただろう』
『は、はい』
『甘えるというのは……そうだな、本当は自分でできる事を頼んでみるという事だ。俺だって忙しい時もあるから、たまには断る事もあるかもしれないけれども……キミを愛している限り、キミの要望には応えていこうと思うからね』
『でも……そんな事して、嫌いになりませんか?』
自分でもできる事を頼んでみるなんて……そんな事をして「自分でやれ」と一蹴され嫌われるのではないか。実際私は今までそうだったのだから。
その恐れを素直に口にした時。
『キミは俺の靴紐を結ぶ時、イヤイヤながらやったのか?』
そう言われ、はっと気付いた。
そう、あの時は嫌な気持ちなんてない。ただヤマムラさんに頼まれたのが嬉しくて、いつもより丁寧に靴紐を結んだくらいだ。
『いやじゃなかったです……あの、嬉しかった……』
『そういうのが頼られて嬉しいというもので……そうだな、愛情が枯渇していなければ、そういった自分でできる事を頼まれてもそれほどいやな気持ちじゃないんだ。甘えてくるキミが可愛いとも思えるしな……さぁ、わかったらすこし慣れていこうか?』
『慣れて……?』
『自分でもできる事を、俺に頼んでみるといい』
私はそう言われすこし考えてから。
『じゃ、じゃああのっ……袖口のボタンをとめてください』
そう言いながらシャツの袖口を差し出す。
さっきからボタンが外れて気になっていたが、自分でなおすのが億劫に思えていた所だ。
ヤマムラさんは 『あぁ、喜んで』 そうやって呟くと、その太い指先で私の小さなボタンを止めてくれた。
『これで、いいだろ?』
『あっ、ありがとう……ございます!』
『……アル、キミの手は白くて柔らかく、美しいな……俺の自慢だよ』
そうして、ヤマムラさんに撫でてもらえた時、あぁ、この人になら甘えていいんだ……と。
この人には、そういう事をしても許してもらえる。受け入れてもらえるんだ……と。
そんな気持ちが溢れてきて、何だかすごく嬉しくて、泣き出しそうになったのは今でも鮮明に覚えている。
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あれから、いくらかの月日が流れた。
私の隣にはヤマムラさんがいて、ヤマムラさんの隣には今も私がいる。
「アルフレート、疲れてるのか? テーブルに突っ伏してうたた寝か?」
やや薄暗くなった室内で、私はどうやらうたた寝をしていたらしい。
春の日差しが暖かく、それに誘われ眠っていたようだ。
「ん……そうみたいです……」
「まだ眠そうだな」
「んぅ……すこし、眠ろうかな? ヤマムラさん、靴を脱がせて……靴を脱がせてください。それから、ベッドへ……」
ヤマムラさんは呆れたように笑うと、自分のマントをハンガーに吊して私の靴を脱がせるとそのまま抱き上げベッドへと運ぶ。
「やれ、甘えてみろといったがとんだ甘えん坊になったもんだな」
そんな風に口では言うが、別段嫌った様子もない。
ヤマムラさんも私を抱いてベッドまで運ぶのがそんなにいやではないようだった。
「ふふ、貴方が私をこんな風にしたんですよ。いーっぱい甘えさせてくれたから……これからも、いーっぱい甘えさせてくださいね」
ベッドに運び横になる私に、ヤマムラさんは唇を重ねる。
それは互いに心を預けていられる相手がいられる事を確かめるような、自然で幸せなキスだった。