>> 虚無への慟哭
ヘンリックの「世界」は目覚めと同時に変貌していた。
喉が焼けるように痛み、うずく。
ぼんやりした頭のまま起き上がれば、ベッドの端を枕にし、突っ伏すように眠っていたガスコインが椅子が倒れる勢いで起き上がった。
「起きたのか! ヘンリック、おいっ、大丈夫か? 身体は……おい、何とか言えよヘンリック!」
そのあまりの剣幕に、ヘンリックは自分に「よほどの事」が起きたのを知る。
そして漠然と、意識を失う前の出来事を思い出していた。
犬というには、あまりに巨躯で獰猛な影のような存在……。
目と口とがまるで石炭でも焚いたように輝いているそれは、犬や狼という枠に到底おさまる事のない化け物だった。
影のような女が……今思えばあれが女狩人だったのかも定かではない。
ヤーナムには時々、闇の使者とも言うべき「亡霊」が現れるからだ……。
その、影のような女は、二匹の子牛と見まごう程の犬、あるいは狼をつれていた。
狼は目も口も赤く、人目でそれは「この世のものではない」あるいは「この世にあってはならない存在」だと気付いた。
だが、いかなる相手でも「狩人」のやる事は一つだ。
敵は「獣」をつれている、獣の罹患者であろうがなかろうが、狩るには充分な理由だった。
ヘンリックはいつも通り、犬と飼い主を分断して一匹ずつおびき寄せるよう提案し、ガスコインもそのように動いた。
しかしそこでミスが一つあった。
意図せず巨躯の犬が、ヘンリックの方に二匹集まって来てしまったのだ。
いかに腕に自信がある狩人でも、一度に群れのような獣と戦うのは危険である。
ましてやこのように、一体が子牛ほどある巨躯だが俊敏な獣なら尚更だ。
「ヘンリック!? まってろ、今行く」
そういい斧をもち駆け寄ろうとしたガスコインの前には、影のような女が立ちはだかる。
あの亡霊を倒さない限り、ガスコインの支援は望めない……いや、あの得体の知れない影がガスコインより強い可能性もある。すこしでも早く獣を片付けて駆けつけなければいけない。
「……邪魔だ、そこをどけ」
慣れた手付きで獣の視覚に入ると、ノコギリ鉈を大ぶりにし思いっきりたたきつけてひるませる。
本来なら手数により相手に致命傷を与えるのがノコギリ鉈の扱い方だが、その時はとにかく相手をひるませ、時間を稼ぐ必用があった。
ヘンリックの考えは正しかった。
ひるんだ獣の動きは鈍り、今までの獲物とは違う「狩人・ヘンリック」を警戒しているようだった。
だがヘンリックの誤算は一つ。
その獣たちが、ヘンリックの思っている以上に「死」を恐れない亡霊だった事……。
斃れた獣の死体を前に、ヘンリックは跪く。
喉、深くに噛みつかれた獣の吐息と舌とがやけに生暖かかったのは、あれは本当に獣の舌の感触だったのだろうか。それとも流れる血液の感触だったのだろうか。
首だけになった獣は、首だけになってもなおヘンリックを殺そうと、そののど笛に噛みついた。
ヘンリックはその獣の頭を、手持ちのナイフで貫いて脳髄をかき回す。
これで獣は死んでいるはずだが、自分ももはや輸血液を入れるほどの余裕はない。
……これは、しくじったか。相打ちでは困るのだが。
倒れるヘンリックが最後に見たのは、こちらに駆け寄るガスコインの姿だった。
……そうだ、自分は獣に喉を食いちぎられたのだ。
それでも生きているという事は、ガスコインが輸血液を入れてくれたからだろう。
あたりを見れば、そこはどうやらヨセフカの診療所のようだった。
そばには冷めた眼をした、だが美しい顔立ちの女医……ヨセフカが立っている。
「ヘンリック、おい、どうした。……まだ具合が悪いのか?」
心配そうに声をかけるガスコインに手を伸ばし 「大丈夫だ」 と言おうとするが、どうしたんだろう。
声が、出ない。
喋ろうとすると喉の奥からひゅうひゅうと風の音が鳴るだけで、言葉が口から出てこないのだ。
心配ない、大丈夫だ。ただ一言が言えず戸惑っていると、冷めた女医は悲しみの目をこちらに向けた。
「……ガスコイン、よく聞いて。そして狼狽えたり暴れたり怒鳴ったりしないでね。……ヘンリックは、喉を食い破られていたの。喉は呼吸をするための器官で、呼吸は脳を、脳は心臓を動かすために大事な装置よ。その器官を失っても生きていたのは、アナタの応急処置と輸血液のおかげ……とはいえ、輸血液は命を長らえさせる力はあっても、全てを復元するような能力はないの。手がちぎれたらそれをはやす事はできない……わかるわね?」
「何だよ、もったい付けるじゃねぇか……どういう事なんだよ、ハッキリ言ってくれ」
「……ヘンリックはもう、喋る事はできないわ。声帯があまりに深く傷ついて……」
それから女医が何を言ったのかはよく覚えていない。
ただヘンリックはもう「喋る事のできない狩人なのだ」という事実だけは残った。
いかに抗おうとも、治療できない傷を治す事はできない。
「悪かったヘンリック……」
「俺がもっと早くここにたどり着いていればこんな事にはならなかったんだよなァ」
「あの時俺が、獣の方を相手しれいれば……」
「あの女の亡霊に手こずってなければ」
「ヘンリック、悪い、俺は……」
ガスコインは何度も謝罪の言葉を口にする。
彼は大柄であるが故に大ざっぱな粗忽者だと思われがちだし、実際そういう所はあるのだが、これでいてナイーブな一面もある。
とりわけこのような、「自分の前で傷ついた」という状況では、想像以上に考え込み落ち込んでしまうのだ。
だが、ヘンリックは「命あってのものだ」と思って居た。
狩人を続けるのは難しいかもしれないが、これからの人生がおくれる事に対する感謝しかないのは事実だったから、ガスコインの銀色に輝く髪に降れ、その頭を優しく撫でてやる。
あぁ、でも言葉がないと伝わらない。
ガスコインは目が見えず、筆談もできないだろう。口の動きを読んで言葉を読む事も、彼にはできない。
どうするかと考えた末、ヘンリックはガスコインの手をとるとその掌に文字を書いた。
ゆっくりと、それが文字だと分かるように……。
『大丈夫だ、おまえのせいじゃない。ありがとう』
「……ありがとうだなんて。相棒だろ、当然のことをしたまでだ。むしろ、俺は何もできなかった、何も……」
『気にするな、お前がいなければ死んでた』
「……殺させるもんか、誰にもお前を殺させるもんかよ」
『だが、この身体だとお前と組むのは難しい……俺も潮時だろう。治ったら狩人をやめるつもりだ。おまえは一人で、これからの事を考えろ』
指先で伝えた文字で、ガスコインは困ったような顔を向ける。
「辞めるのか? ……まだ俺と組んでくれないか?」
『無理だ、声がない俺が、目の見えないお前のサポートをできる訳がない』
「声がなくとも……」
ガスコインは、ヘンリックの手を強く握る。
「声がなくとも、俺はお前の考えてる事とか、そういうの……仕草やジェスチャーで何となくわかるぜ? 細かい作戦はこうしてお前が手や背中をなぞってくれれば覚えるし、とにかく、俺……俺、頑張るからよォ……」
強く握った手は、微かに震えている。
それは狩人・ヘンリックを失うのを恐れての言葉だったのだろう。
ガスコインは、ヤーナムに来た当初仕掛け武器ではなく木樵の使うような鉄製の斧で獣とやりあい、輸血液の使い方すらままならない新米狩人だった。
そんなただの荒くれ者に、ヤーナムの狩人そのイロハを教え、獣の戦い方を教え、戦略、戦術、その他もろもろの指示を与えていたのがヘンリックだ。
……狩人として一人前に育ててきたつもりだったが、ヘンリックの指示がなければ困惑するほど依存していたのか。
そう思うと同時に、そのように縋られる事で優越感を覚えているヘンリックも確かにいた。
ガスコインが自分を必用としている……。
その事実が、ヘンリックは確かに嬉しかったのだ。喜ばしく、光栄に思えたのだ。
だから声を失った後も、彼らはコンビで行動した。
事前の行動は概ね「指先」で伝えていたし、急な事案に出くわした時もジェスチャーで充分動けるようにしていた。
ガスコインはまるでヘンリックの心を見通しているかのように動き、ヘンリックもまたガスコインの考え、やろうとしている事はその仕草で、その言葉で、その体温で、察する事ができていた。
そうして気付いた頃には「勇猛なガスコインと寡黙なヘンリック」の狩人コンビとして、ヤーナムでも有名な狩人となっていた。
だが「寡黙なヘンリック」の真実が「声をもたないヘンリック」であったという事を知る狩人は、殆どいなかっただろう。
彼らの連携はそれほど良く出来ていたし、その頃はヘンリックもガスコインの僅かな動きの差で呼吸をあわせる事ができるようになっていた。
ヘンリックは「失う事」でより深くガスコインを理解する事ができたのだ。
あるいはそれは視力を「失っている」ガスコインに近づいたからできた事なのかもしれない。
ヘンリックは日に日にガスコインを理解し、ガスコインもまた声のないヘンリックの動きをよく見て、その指先から出される指示によく注意を向けた。
良き友で、良き相棒。
そしてヘンリックにとっては、言葉を交わさずとも全てを理解してくれる、友や相棒という言葉を超越した、特別な存在であったのに違いなかった。
……知らない間に、大切な存在になっていた。
いや、気付いてないだけで元々、大切な存在だったのだろう。
思えば声を失う切っ掛けになった時も、無意識に危険な犬を引き寄せていたのはガスコインに何かあってはいけないと、とっさにそう思っていたからに違いない。
頭のどこかに、あったのだ。
自分がもし骸となり物言わず朽ちていったとしても、ガスコインが生きている世界があるのなら、それでいい……と。
大切な存在だった。
ガスコインにとってもそうだと、ヘンリックはどこかで確信していた。
ずっと相棒として二人、過ごしていくのだと心のどこかで思っていた。
だからその日、やけに浮ついた様子でガスコインが椅子にこしかけた時、ヘンリックはその仕草だけで彼に「好きな女(ひと)ができたのだ」という事を知った。
「ヘンリック、お前に一番に伝えたい事があって……」
そう切り出してから先は、よく覚えていない。
よく覚えていない、というよりも「正しくヘンリックの予想通りにすぎなかった」と思うべきなのかもしれない。
彼は好きな女性ができた事を告げ、彼女とうまくいってる事を告げた。
きっと近い将来、結婚も考えているのだろう。
ガスコインはそうとは言わなかったが、ヘンリックにはそれが理解できた。
そして、結婚したらもう以前のような危険な狩りはしないし、させられない。
『いかないでくれ』 留めたいと思った。
『俺を一人にしないでくれ』 まだ、二人でいたいと思った。
『声のない狩人がどうして一人で戦える?』 そう告げて追いすがればガスコインは無碍にしない事もわかっていた。
だが、それらはすべて束縛だ。
……自分のこの歪んだ愛情を、聖職であったガスコインが受け入れる事はないだろう。
それならば、秘めたままでいよう。
『おめでとう、幸せにな』
ガスコインの手にそう書けば、彼は照れたように笑う。
その笑顔が、ヘンリックにとって唯一この世にいる理由だった。
その笑顔が。
それだけが、理由だった。
理由だったのだが……。
(どうしてこうなってしまったんだろうな……)
ガスコインは自然と危険な仕事から離れていった。
家庭を持ち、墓守の仕事をし、子供を愛する父親になって……。
……ヘンリックはそのまま狩人でいた。
寡黙である、というイメージがついていたので喋らずとも皆心得ているといった様子でそれを受け入れていたし、怪我をした若造を一人、育てるのに没頭しガスコインと過ごした熱情の日々を、ただぼんやりとした熱気だけを残したまま努めて忘れる事にした。
離れる事で、ガスコインの世界は平穏で……自分はいずれ、獣の爪や牙にかかり露と消えるのだろうなんて、どこかそんな未来を思い描いていたが……。
「獣に落ちるとは……情けない事ですね」
高台から墓地を眺める年若い青年は、処刑隊の服を着ていた。
彼はヘンリックの方を見つめると 『行かないんですか?』 そう言いたげな視線をおくる。
『お前はどうなんだ?』
手を逆さにし指さしながら冷めた眼で見れば、男は処刑隊のマントを翻してみせた。
「私は、血族狩りですから。狩人狩りは性分じゃない……でも、あなたは違うでしょう? 勇猛なるガスコイン神父の相棒……ヘンリックさん」
男はどうやら、こちらを知っているようだった。
有名人というのは楽じゃない。
ただ黙っているヘンリックの沈黙をどう捉えたのか。
「何にせよ、私の獲物じゃありませんし……正直、私の手に負えるかもわかりませんから。ここは狩人狩り、本業の方にお任せしますよ」
男はそう告げると、聖堂街の奥へと消える。
本業……とは、きっとアイリーンの事だろう。
そう、狂気に墜ち。あるいは獣に落ちた狩人を、アイリーンは狩る。
狩人狩りとして、アイリーンは強い女だ……ガスコインと戦っても討ち果たす事ができるだろう。
遅かれ早かれ、獣に落ちたガスコインを誰かが狩る。
……そしてそれは、本来は自分の役目なのだろう。
だが……。
『俺はただ、この世界のどこかでガスコインが生きていてくれる事だけが幸福だった。それだけだった……』
声にならない声が月の光に消える。
彼の慟哭を「理解」できる唯一の人間は、すでにこの世界に存在せず、慟哭はただ月の光に飲まれ、溶けていくばかりであった。