>> 異なる音と紡ぐ曲
その日は星の瞬く音までも聞こえそうな程に静かな夜だった。
「いい、夜だな……」
ヤマムラは窓を開けると、月明かりに照らされるヤーナムを宿の二階から見下ろす。
レンガ造りの壁も床も全て青白く染まったヤーナムは、全てが紅に彩られる黄昏時とはまた違ったどこか幻想的な風景を映していた。
こんなにも美しい街が、こんなにも醜い病に蝕まれているのだ。
ヤマムラはふとそんな事を考えながら肘を突いて思慮に老ける。
獣の病とは、一体何なのだろう。
輸血液、あまりにも万能すぎるあの治療は果たしてどうやって生まれたのだろうか。
医療教会とは、ビルゲンワースとは。
そして、連盟の追いかける「蟲」とは一体何なのか……。
こたえを出すにしてはあまりにピースの足りないパズルを前に、グルグルと巡る考えを断ったのはアルフレートの明るい言葉だった。
「ヤマムラさん! 何してるんですかそんな所で? 窓辺は寒いですよ、テーブルのほう来てくださいよ。私、ヤマムラさんと話したい事があるんです」
アルフレートは笑顔のままそう告げ、ヤマムラの手をひくと部屋の中央にある簡素な椅子へと座らせた。
「すぐに紅茶も入れますからね」
食堂からもってきたポット片手に、慣れた調子で紅茶を入れる。
今日のアルフレートはやけに上機嫌だ。何かいい事があったか、これからいい事を提案するのだろう。
前者なら、どんないい事があったのは聞くのが楽しみだ。
後者であれば、これから二人で楽しい時間を過ごせるなら楽しみだ。
椅子に腰掛け笑うヤマムラの前に紅茶が差し出され、二人で暫くその香りを楽しんだ後、アルフレートは「よし」と覚悟を決めたように顔を上げた。
「ヤマムラさん、日本語教えてくださいよ! ニホンゴ! ヤマムラさんの、祖国の言葉なんでしょう?」
その突然の提案にヤマムラは暫く目を瞬かせ、そして一度眼鏡を外し、それを袖で吹きながら。
「どういう風の吹き回しだい? 俺の……祖国の言葉を知りたいなんて」
そう問いかけ、また眼鏡をかけなおした。
その仕草を見つめながら、アルフレートは顎に手をやり僅かに宙を見る。
「うーん、これといって理由はないんですけどね。もし、私がヤマムラさんの言葉をすこしでも話せたら、二人で秘密の会話とかそういうのできるじゃないですか。誰かに聞かれたくない話をするとき、便利かな、と思って」
「そういうがな……俺の祖国の言葉は、こっちの言葉と文脈なんかが違うから、すこし覚えにくいと思うぞ? 暗号や秘密のやりとりなら、英語をアレンジして二人にしか通じない言葉やジェスチャーを使った方が簡単だと思うがな」
ヤマムラはそう言いながら、久しく話していない祖国の言葉を思い出していた。
ヤマムラの故郷で使う言葉は、文法や活用法などは比較的簡単なほうだろう。
男女で使う言葉の差異もそれほどない。言葉の流れを覚えれば、簡単な日常会話までこぎ着けるのはそう難しくない部類の言語だ。
だが極めるとなると、その言語数は膨大になる。
とりわけ書き文字となると、基本となるひらがなでも50音だ。
それだけでアルファベットの倍あるというのに、漢字やカタカナの存在、同音異義語、類語、丁寧語、謙譲語とアレンジしなければいけない言葉は多岐にわたる。
習得は優しく、極めるには難しい、というのが彼の祖国の言葉だった。
「……やるのはいいが、キミが覚えきれるかな」
「もー、ヤマムラさん私のこと、バカだと思ってます?」
「いや、そうは思ってないが……難しいんだ、俺の国の言葉は。細かい所が面倒なんだよ。読み書きも単純じゃない」
「私だって最初から日常会話ができるほどは求めてませんよ。そう、簡単な挨拶とかから……おはようとか、おやすみなさいとか、ありがとう……そのくらい、あなたの言葉で言ってみたいな……って思っただけですから」
最初の提案からして 「日常会話の読み書きまでできるレベル」 を求めているのかと思ったら、どうやらすこしヤマムラと同じ言葉を話してみたい。動機はただそれだけのようだ。
普通に話せるようになるには難しいだろうが、挨拶程度の言葉をすこし覚えたいというのなら聡いアルフレートならさして難しくないはずだ。
何より、カタコトで挨拶をするアルフレートはきっと可愛いに違いない。
その姿を見てみたい、というのもヤマムラの本音であった。
「まぁ、そうだな……そういう事なら、簡単な挨拶くらいは教えてもいいだろう」
ヤマムラはそう呟くと、テーブルにあるペンと紙を取り出し、久しぶりに祖国の言葉を書いてみた。
(……ひらがなでも、こうして祖国の言葉を書くのは何年ぶりだろうな)
ありがとう、こんにちは、さようなら、いただきます。
思い当たる挨拶の言葉をひらがなで書き連ね、その下にアルフレートでも読めるよう、アルファベットを書きだし、さらにその意味をも書きだしていけばアルフレートはすぐそれを手に取り、なるほどと心得た顔になる。
「へぇ……thank youは、ARIGATOU、ですか? ALLIGATORみたいですね……えーと、ヤマムラさん、いつも私に優しくしてくれて、アリガットウ!」
アルフレートは受け取ったメモをとると、早速それを読むあげる。
辿々しく、どこかぎこちないアルフレートの 「ありがとう」 はいかにも言葉を覚えたての子供のように愛らしく、ヤマムラに得も言えぬ感情を沸き立たせた。
(いかんいかん……俺はどうもアルフレートに庇護欲のようなものをかき立てられる性質のようだからな……)
アルフレートは続けて、辿々しい言葉で 「オハヨウ」「コンニチハ」「オヤスミナサイ」 と言う。
アルファベットに忠実に読むからだろう、「HA」をそのまま「は」と発音しているのに気付き、ヤマムラはその文字だけ「WA」と書き換えた。
「日本語では、HAがWAの発音になる事があるんだ……この場合はこっちだな、こんにちは、だ」
「んー、コンニチワ」
「そうだな、その発音の方が近い」
「あの、この……イタダァキマス、というのは……?」
「食事の前にする挨拶だ、えぇと……そうだな、この国で、キミは食事の前に祈りを捧げるが、俺たちはいただきます、と言う。これは【命を頂きます】という意味で……人は命を頂き生きている、自分のために犠牲になった命を弔い感謝するような言葉だ……と聞いた。受け売りだから本当かどうかはわからないけどな」
「へぇ……だったら、祈りの代わりにイタダキマァス。なんですかね。そういえば、ヤマムラさんいつも手をあわせて食事してますもんね……」
アルフレートの、どこかカタコトで舌っ足らずに感じる言葉はヤマムラに普段と違う雰囲気とある種の情欲のようなものをかき立てていた。
だがそれは、アルフレートも同様のようだった。
「……不思議ですね。あの……私の知らない言葉を話すヤマムラさん。祖国の言葉だからかな? 普段と違って……何だろう、カッコイイというか……いえ! ヤマムラさんはいつもカッコイイんだけど……色っぽい? というんですかね……」
すこし頬を赤らめて、ヤマムラの袖を握りもじもじ指遊びをする。
かと思うと。
「そうだ、ヤマムラさん! 今日、この部屋で二人でいるときは全部、祖国の言葉で話してみてくださいよ」
急にそんな事を言い出すのだった。
「はぁ、何いって……そんなの、キミに通じないだろ」
「通じなくても雰囲気で理解しますから、はい、今からこっちの言葉は禁止。1,2,3,はい、はじめ! 今からもう禁止、罰ゲームは車輪ですからね!」
勝手に始められてしまったが、軽率に告げられた「罰ゲームの車輪」があまりに得体が知れなくて恐ろしい。
(しかたないな……全く、こういう所は実に子供っぽい)
ヤマムラはやれやれ、と頭を掻いてやむなく、祖国の言葉を使う事にした。
『そうだな……そう言われても困る。今はとくにする事もないし……』
独り言を呟けば、アルフレートはただにこにことそれを見つめている。
よく考えれば、言葉は通じないのだ。何を言ってもいいのだろう。
ヤマムラはアルフレートと向き合って、その髪を撫でてやった。
『初めて見た時から思っていたけど、キミはその金糸のような巻き毛が月の下でもよく輝いて、とっても美しいな。俺は自分が痩せ犬のように衰えた身体をしているから、豊満な肉体をもつキミの身体を自由にしている時、何とも言えない罪悪感を覚えてしまうんだ。あぁ、こんな綺麗な青年を、俺の自由にしていいのか。キミの処刑隊という貴重な時間を、俺のために費やしていいのか……時々それが、酷く不安になる。愛情という鎖でキミを束縛しているのではないか、なんて……』
撫でる指先が頬へと滑り、唇に触れた時、意味のわからぬ言葉が愛の囁きである事に気付いたのだろうか。
「えっ、あっ。ヤマムラさん、なっ……にを、言ってるんですか?」
アルフレートは頬を赤らめて、そう問いかける。
だがヤマムラはそれを聞こえないふりをして、さらに自分の言葉を続けた。
『だけどそうやってキミを縛り付けているとわかっていてもなお、この時間が1秒でも長く続けばいいと思ってしまう俺を許してくれ。そして……できればこの痩せぎすの老いた男がキミの若々しく、花弁のように鮮やかな唇に触れる事を許してくれ……俺がそう願ったら、キミは、それを許してくれるかい?』
ヤマムラはアルフレートの頬に手を添えたまま、ゆっくり顔を近づけて囁く。
言葉が通じなくても 「キスを求められているのだ」 というのを、アルフレートが察する事ができたのは、その目がいつも口づけをするヤマムラの優しい視線と同じである事に気付いたからだろう。
「……あぁ、どうしよう。言葉がわからないのが、こんなにもどかしいなんて……私、あなたに愛されていますか?」
『あぁ、俺はキミを愛している。その髪も、目も、唇も指先も……そしてその心も全て包み込むように愛を注いであげたい……そう、願っている』
「……愛されていますよね。ふふ、わかります。言葉が、わからなくても。あなたの仕草が、あなたの温もりが……不思議ですね、ヤマムラさん。 I love You は何というんですか?」
「……『愛してる』だな」
「えぇ、だったら……アイシテル……アイシテル、です。ヤマムラさん、だから……」
二人の唇は自然と重なり、その身体はベッドに深く沈む。
「……ヤマムラさん」
『愛してる、キミが愛しい……心にある愛の言葉全てを与えても物足りないほど、キミが……だけど恥ずかしいから、今日はこのまま俺の祖国の言葉だけで伝えよう』
「もう、ずるい……何いってるかわからないじゃないですか……でも、アイシテル。ふふ、それだけはわかります。アイシテル、ヤマムラさん……」
伸ばした手は重なって、二人は幾度も唇を交わす。
重なる影に、異なる言葉は交わり一つの思いで結ばれていくのだった。