>> 氷った唇






 浴場で湯を貰った後、司書や菊池寛など他の文豪たちに誘われ談話室にてウイスキーを引っかけながら他愛も無い話題で盛り上がりつつ将棋などを指していたら、気付いた時にはすっかり遅くなっていた。
 正確な時刻はわからないが、すでに夜半過ぎとなっているのは間違いない。


 「楽しい盛りで悪いが、俺は先に抜けさせてもらうよ。おやすみ」


 佐藤春夫はほろ酔いのまま、次は麻雀をやろう、メンツは揃えるからと熱く語る菊池寛の姿を眺めながら一足先に別れを告げ、自分の寝室へと戻っていく。

 間もなく本格的な冬が始まろうとしていた。
 時には深い雪もつもるこの街は寒さが厳しく、他の文豪たちがすでに眠っているであろう長い廊下の床を這うように寒さが忍び寄る。

 底冷えというのはこういう寒さをいうのだろう。
 湯と酒で暖まっていたはずの身体も末端より冷え始めた頃、佐藤春夫はようやく自室へと戻ってきた。

 風呂にははいった。
 ほどよく酒もきいている。
 あとはこの良い気分のままベッドに潜り込み、蒲団の冷えに耐えながらゆっくり微睡みに落ちて行くだけだ。
 そんな事を考えていた春夫は、そこで奇妙な事に気が付いた。

 ドアが開いているのである。
 僅かだが確かに開いたドアの隙間からはひんやりとした空気が流れこんでいた。

 この広い図書館は文豪たちが寝泊まりできるよう寄宿舎のようになっているフロアがある。
 管理しているのは館長と特務司書、住んでいる連中も気心しれた文豪たちだ。
 泥棒なんて入らないだろうと思って居た春夫に、部屋に鍵をかけるという習慣はなかった。

 だから何時でも誰が入ってきてもおかしくはないのだが、部屋が暗いままなのは少し気になった。

 誰かがいるのなら、灯りの一つでもつけていればいい。
 誰かが入り帰ったのなら、扉はきちんとしめて欲しいものだ。

 そんな事を思いながら春夫が部屋の前に立てば、そこには確かに人の気配がした。
 この寒い中窓を開けているのだろうか、春夫の部屋から凍えるような冷気が吹き付けてきたので、春夫は浴衣の衿を寄せ中の様子を伺った。


 「おい、誰か来てるのか?」


 部屋の中に声をかれば、微かに返事があったような気がしたが、その声が届く事はない。
 門弟3000人を抱え、変わり者も多く面倒を見てきた春夫であったが夜中にこうしてじっと待たれるというのはあまりいい心地はしない。

 談話室で酒を煽りながら饒舌に怪談を話して笑っている小泉八雲の顔が一瞬脳裏に過ぎる。
 あの時は皆の中で、他愛もない地方のよくある怪談だといって聞かされた雪女の怪談が冬の寒さと夜の暗さもあり今は妙に生々しく思えた。


 「誰か来てるのか、おい。返事をしろ……入るぞ」


 春夫は部屋に入るとドアのすぐ傍にある電灯のスイッチを入れた。
 ガス灯やらランプ、カンテラやら様々な照明器具を見てきたが、今はこの「電気」という照明がこの街の主流なのだといい、ボタン一つで灯りでも暖房でも何でも出来るようになったというのだから便利な時代になったと思う。
 だが、この部屋に入り忍ぶモノはその便利さを楽しむ余裕さえ無いようだったが。

 灯りをつければ、開いた窓に腰を下ろして外を見る一人の男の姿があった。
 赤毛を器用にピンでまとめたその横顔は遠くから見ても太宰のものだと分かる。


 「何だ、太宰か……どうした、こんな夜更けに。というか、こんな寒いのに窓なんて開けてたら風邪をひくぞ」


 そこに太宰が居た事を認めた春夫の心にあったのは、侵入していたのが泥棒や強盗の類いではなかったという安堵が半分で、もう半分は 【こういう時の太宰は極めて扱いが難しい】 という緊張感だった。

 この世界に顕在化した「太宰治」という人格は、極めて快活な自信家だ。
 通りにいる人々が全て自分の著作を読んでいる、心からそう信じてなければ到底出ないような言葉を連発し、かつての盟友、織田作之助や坂口安吾を多いに喜ばせている。


 『今の太宰くんは、何かこう吹っ切れたような感じがあって前より付き合いやすくなった気がしますわ』


 とは、無頼派三羽がらすの一人と言われた織田作之助、通称オダサクの言葉だった。


 『前の太宰くんはこう、アカンもんに取り憑かれたみたいに没頭して……結局こう、自分からダメになってしもたやないですか……ねぇ、先生……』


 オダサクの言う通り、以前の太宰は……以前から気分屋で自信家で、その割には臆病で。一つの事に執着すると周囲が見えなくなるような妄信的な態度に春夫もオダサクも随分と振り回されたものだが、この世界にいる太宰はそういう部分が随分と「薄く」なっているように思えた。

 それは、この世界にも顕在化した「芥川龍之介」が存在し、彼と実際に煙草を吸いながら談笑する機会を得た事もあるだろうし、この世界に「芥川賞」なんてしがらみがないのもあるだろう。
 だがそれでもこの世界には、自分たちが生きていた時代と明らかに違う摂理として存在する「侵食」という奇妙な現象があった。

 それは時に本に巣くい、文字に綴られた思い出を喰らい、ほの暗い記憶を呼び起こしてそしてその書物に携わった「作家」そのものを食いつぶしていく「魔物」だ。
 あの浸食という名の魔物に当てられた時、太宰は酷く不安定になっていた。
 いや、本来不安定だったものが、この街にある不可思議な世界に当てられて収まっているように見えただけで、実際の太宰はいつでも「死」のにおいと共にある不安定な男なのだろう。

 あの時は浸食に飲まれる事もなく、太宰は自分の元に返ってきてくれたが……。
 また何時その心が揺らぐのかは、春夫にも、おそらく太宰本人にもわからないのだろう。

 あるいはこの図書館に井伏鱒二がいてくれたら、自分とはまた違ったアプローチで太宰の心を開いてくれたいたのだろうが……
 そんな事も思うが、生憎ここには井伏はいない。
 今の太宰を支えるのは、門弟として彼を迎えた自分の仕事であり、太宰の文学を失わせないのが自分の使命だろう……と、春夫は漠然と考えていた。

 虚ろな目で外を見る太宰の視線が先には、雪がちらついている。
 やけに寒いと思ったら、外では雪が降っていたらし。
 室内には雪の夜特有の芯まで冷える寒さと静寂とに満ちていた。

 太宰はそれをずっとこうして窓を開け、窓辺に座って目で追いかけていたのだろうか。
 浴衣姿の洗い髪はすでに氷っているように見えた。


 「……太宰、身体が冷えるぞ。ほら」


 春夫は以前谷崎から貰った厚手のガウンを引っ張り出して、それを太宰の肩にかけると窓を閉め物言わぬ太宰をベッドへと座らせた。


 「俺が来るまで待ってたのか? ……随分待たせただろう? 今、何か暖かいものでも煎れてやろうか?」


 春夫の言葉に返事はなく、時々蚊の羽ばたくような声で何かを訴えるのだがそれは春夫の耳に届かない。
 「何か言ったか?」 そう聞き直しても太宰はもう何もいわずただ俯くばかりであった。

 とにかく、暖かいものを勧めよう。
 腹が減っている時、やたらと寒い時、睡眠が足りない時、人はろくな事を考えない……とは、うちの特務司書が良く言う言葉だが、確かにその通り、寒さは気持ちを暗くさせがちだ。
 その寒さに意識が闇へと墜ちないうちに何とか暖めてやらなければ。

 そんな思いを込め、春夫はミルクを温めたホットココアを入れた。
 ブランデーを少し落したのは、出来ればこのまま太宰が眠ってくれれば僥倖だと、そう思ったからだ。

 ……夜は悪い事を考えがちだが、日の光を浴びれば幾分か元気になるだろう。
 そんな淡い期待を寄せてホットココアを差し出せば、太宰は僅かに頭を下げカップを受け取りちびちびとココアをすすりだした。


 「……それで、どうした太宰? こんな遅くまで俺を待っていたなんて、理由があるんだろう?」


 太宰の隣に腰掛けて、すっかり冷え切った彼の身体を抱き寄せるようにして暖める。
 厚手のガウンの上からもはっきりとわかるほど、太宰の身体は冷え切っていた。

 しかし生憎この部屋には、火鉢一つも置いていない。
 普段は談話室や食堂といった広い場所にいる事が多く、部屋にいる時はしっかり厚着をする癖がついていたから、火鉢を出すのはもう少し後でいいとそう思って居たからだ。

 それでもココアは幾分か身体を温めたのだろう。
 ふぅふぅ言いながらカップを空にした後、太宰はふいに顔をあげ怯えたように春夫を見た。


 「春夫先生、聞きたい事があるんですけど、いいですか?」
 「ん、何だ?」

 「……俺が死ぬ時に、一緒に死んでくれますか?」


 太宰は声を震わせて、怯えた顔で春夫を見る。

 あぁ、そうだった。太宰はそういう男だ。
 一人で死ぬのは寂しいからと、誰かを道連れにしてしまうのだ。
 そうして何度も何度も繰り返し、やっと成し遂げるまで、とうとう自分の元へは戻ってこなかったのだが……。


 「そうだな」


 春夫は太宰の空になったカップを受け取りそれをひとまず自分のテーブルに置くと、微笑みながら振り返った。


 「……悪くないかもしれない。一人で死ぬのは寂しいんだろう? そうなら俺が、一緒に死んでやろう」


 そして太宰の冷えた手を両手で包み込むと、太宰の手を自らの首へと触れさせる。
 まるで首を絞めろというように、その手を包み込むと。


 「一人で死ぬのも寂しいだろうが……残されるのも寂しかったぜ、太宰」


 そういって、笑う。
 春夫の顔があまりにも穏やかで、優しく笑っていたからだろうか。


 「っ、あ……あぁあ……ああぁああ……はる、はるお……はるお、せんせぇっ……」


 太宰はまるで子供のように泣き出して、春夫の胸に縋り付く。
 春夫はそんな太宰をきつく抱きしめると。


 「あぁ……わかってる……俺は、おまえの父親のようになれない……おまえの師匠のように助けてやれない……井伏のように傍にいてやれない、けど……それくらいは、してやれるさ」


 その耳に優しく囁いて、 「もう、何も怖くないから」 と繰り返し語り口づけをする。
 酷く凍えた唇には、僅かだが温もりが戻ろうとしていた。





 <でぐちこちら。>