>> 追憶の友






 あなた、もう遅いですよ。
 ヴィオラの柔らかな声で、ガスコインは随分長く窓を開け夜空を眺めている自分に気付いた。

 盲目のガスコインに、月の美しさは写らない。
 だが夜の冷たく心地よい風と、空の匂いとをガスコインに伝え、それはガスコインの記憶にある青ざめた月夜を思い出していた。

 こうして夜の匂いを嗅ぐとガスコインは決まって思い出すのだ。
 かつて獣狩りの相棒として背中を護り、今はもう隣にいない相棒、ヘンリックの事と、獣狩りの日々を。


 ヘンリックは、ガスコインより二回りほど小さい狩人だった。
 初めて並んだ時は「小柄な狩人だな」と思ったものだが、実際自分がかなり大柄なだけで、ヘンリックくらいの背丈が普通だったのだろう。
 だが、ヘンリックは獣を前に事前に油壷の仕掛けを施したり、スローイングナイフで相手を威嚇したりと何かと「小技」を好んで使う性分もあったものだから、「罠は踏んで壊していけ」というように体力に自信があり、あの頃は若く気力も充実していたガスコインにとってどうにも「小手先の技術に長けた狡猾な狩人」と印象が抜けず、それが記憶にあるヘンリックをやけに小柄にしていた。

 だが彼は小柄だが、非常に洒落者だったのも覚えている。
 「獣の匂いが嫌いだから」 と、いつも流行りの香水をつけていたのは今でもはっきりと覚えている。
 あるいはあれは、盲目のガスコインに自分の居場所を伝えるための彼なりの気遣いだったのかもしれないが、それにしたって匂いに鋭敏な獣たちの中、香水をつけても普通に立ち回る事が出来たのだから彼は優れた狩人だったのだろう。

 ……隣にいなくなって思い出しはじめて、自分の相棒は「腕の良い狩人だったのだ」という事をガスコインは知った。

 同時に、彼は非常に伊達男だったという事も覚えている。
 狩人の集まる酒場というのは大体ゴロツキや荒くれ者の集まりとなるが、中には女だてらに仕掛け武器を振るい狩りに興じるモノもいる。
 そんなだからだろう、女狩人とみればからかいや茶化しを入れる無粋な奴らが多かった。

 そんな中、誰より先に彼女たちを「狩人」と認め、また一人の「女性」であると認めその手をとって席に案内し一輪の花を差し出す……。
 ヘンリックはいつもそんな気障な事をまるで身についた礼法のように行う男だった。

 後にアイリーンは 「気障な奴だなと思ったね」 と吐き捨てるように言ったが、それでも 「存外悪い気はしなかったよ」 と笑っていた。
 狩人なんてやっていれば「女らしく扱われる」なんて久しくしていなかったし、「女を捨ててきた」という側面もあったから、あのように優しく男と言葉を交わすなんて久しくなかったものだから 「懐かしいような気がしてね」 仮面の下のアイリーンがどんな顔をしていたかは解らなかったが、多分笑っていたのだろうな、とガスコインは思って居た。

 ……だからそう、ヘンリックという狩人を知るものは大体思って居るのだろう。
 彼は腕の良い狩人で、洒落者の伊達男。女とみれば軽くくどき落とし、獣とみれば軽く狩って見せる、そんな狩人なのだと。

 だが、彼の相棒を長く務めていたガスコインはまた違った印象をもっていた。
 彼は……ヘンリックは、もっと……壊れやすい人形のような……そういう思いが、あったからだ。

 いつかの話をしよう。
 あれは狩が夜に迫り、そろそろ野営を張るか、一端街へ戻るかそんな相談をしていた時だった。


 「少し考える時間をくれ、2分だけでいい」


 その頃ガスコインは、作戦や行動をはじめとした「考える作業」を殆どヘンリックに丸投げしていた。
 ヘンリックが考え、ガスコインが暴れる……コンビの中でそんな役割がすっかりできあがっていたからだ。

 今考えればヘンリックに酷い負担を強いていた気がするが、あの頃のヘンリックがそれに文句を言ったような記憶はない。
 ガスコインよりいくらか年上だったし、元より考え人に指示するというのをあまり億劫がらないのがヘンリックの性分だったからだろう。
 そんな彼の気質にすっかり甘えていたガスコインはその頃頭脳労働はもちろん、街に戻るか森に留まるかなんて一人で狩りをしていた時には当たり前に自分でしていた判断まで、ヘンリックに任せるようになっていたのだ。

 ヘンリックは持参した水筒を開けると、温くなった紅茶をすすり思慮を巡らせていた。
 紅茶からはやたらと甘い匂いがして……。
 普段、紅茶に砂糖や蜂蜜をいれるのは「邪道だ」と語るヘンリックが、その日はたっぷりの蜂蜜を溶かした紅茶をもっているのに気付いた。

 今考えればそう……狩りだけではなく作戦まで任され、肉体だけでなく頭脳労働もしていたヘンリックが疲れを感じないワケがないのだ。甘いものを求めるのは自然の摂理だったろう。
 だがガスコインは、密かにヘンリックが「甘いものを飲んでいる」というのを茶化してからかってやりたくて、ヘンリックが一口飲んだ水筒をひったくると。


 「美味そうなもん飲んでンじゃ無ぇかよ、頂きッ」


 軽い調子で水筒を奪い、それを一気に飲み干した。
 舌には甘い蜂蜜の味が紅茶の渋みと絡み、しばらく森を歩いていた疲れを幾分か癒してくれる。


 「うめぇーっ! 今日の紅茶は蜂蜜が入ってるんだな、紅茶には砂糖なんか入れない主義じゃぁなかったっけ、お前」


 からかうつもりでヘンリックの方を向けば、ヘンリックはただ呆然と立ち尽くし取り上げた水筒を飲み干すガスコインを見つめていた。

 ……ガスコインは目が見えない。
 だがその時の僅かな熱で、その場の雰囲気をかぎ取る事には長けていた。

 ヘンリックの姿は見えないが、きっと彼はあの時、初心な乙女のような顔でガスコインの姿を捉えていた事だろう。
 無造作に、無遠慮に人から水筒を奪っていきそれを飲み干す事で間接的に唇を交わす……そんな些細なふれ合いにも心を乱すような……そんな少女のような所が、ヘンリックにはあった。
確かにあったのだ。

 ヘンリックは赤面している自分を悟られてないと思ったのか、マスクを着け直すとやや慌てたように言う。


 「……今日はこれ以上狩っても成果はないだろう、変えるぞ、まだ日が高いうちにな」


 ヘンリックは手堅い作戦を口にしたつもりだろう。
 だが微かに乱れた呼吸と熱を帯びた身体が、野営を拒んでいる理由をガスコインに告げた。

 ……ヘンリックは自分に対して、まるで乙女のように振る舞う事があった。
 確かにあったのだ。

 だから……。


 「さぁ、もう眠りましょうあなた。娘ももう眠ってしまったわ」


 ヴィオラの優しい声で、ガスコインはまた現実に戻る。


 「あぁ……今いく」


 その声に誘われガスコインは窓を閉める。
 ……今は隣にヴィオラがいて、娘がいて、きっと自分は「人並みの幸福」の中にいるのだろう。

 だが、時々思う事があるのだ。
 あの時微かに感じたヘンリックの体温、微かに聞こえた高鳴る鼓動。
 その意味にわざと鈍感に振る舞わず、自分の気持ちに正直に生きていたとしたら……。

 自分はまだ狩人で、ヘンリックの相棒として隣で戦う事が出来ていたのだろうか、と。
 そしてそれもまた幸福だったのではなかったのだろうかと。

 ……全て終った事だ、空想の話でそれ以上の事はない。
 だけど、それでも……。

 思わずにはいられないのだ。
 何故か二度とあの親友と、隣で戦う事が出来ないと、そんな気がするのだから。






 <でぐちこちら。>