>> 嵐の中の静寂
その日は正午すぎから降り始めた雨は、夕方には強風と豪雨へ変貌していた。
激しい豪雨に打たれ軋むほどに揺れる看板を目に、宿の主は扉を閉めようとする。
今日はもう誰も客など来ないだろう……そう踏んでの事だ。
そんな酒場の主が手を、ヤマムラは慌てて留めた。
「すまん、主。扉はもう少し開けておいてくれないか? ……俺のツレが帰ってきてないんだ」
ヤマムラに声をかけられ、宿の主はやや困ったような視線を向ける。
外は嵐で、客は来ない。鍵を開けておけば雨風が吹き込み、掃除をするのも大変だ。
そんな事を考えているんだろう。
「だったらもう30分だけ開けておいてくれないか? ……今から少しツレを探してくる。もし30分たっても俺が戻ってこないようだったら、扉を閉めていいからな」
ヤマムラはそう告げると、「あまりにも豪雨だ、やめておけ」そう止める宿の主が声を聞かぬまま雨のヤーナムへと飛び出していった。
ヤマムラが「ツレ」と呼ぶアルフレートが外に出たのは、雨が強くなり始めた夕刻頃だったろうか。
『ちょっと用事があるんで出かけてきます……』
アルフレ−トはそう告げると、処刑隊の灰色のマントを羽織り止める間もなく出かけていった。
明らかに雨脚は強くなり、またその背中に思い詰めたものを感じたが、ただ止めてもきっとアルフレートは納得しないだろう。そう思いせめて 「早く帰ってこい、雨が強くなるはずだからな」 そう声をかけたのは、ずぶ濡れになる前に戻ってきてほしいというヤマムラの希望もあったあろう。
(あいつは、たまに俺の考えも及ばない事をするからな……)
石畳の上を走るヤマムラのブーツに水が入り、温い感覚が伝わる。
傘ももたずに出て行ったアルフレートは今頃きっとずぶ濡れだろう。
(何処にいるんだ……何処に……)
この雨では教会の連中も見回りなどしないのだろう。
普段は階段を我が物顔で歩く医療教会の信徒たちも今日はその姿がない。
路上で座る酔っぱらいも今日はどこか塒に戻っているらしい。
街の灯は殆ど消え人の気配がない中、広場で一人、鉛色の空を見据える青年の姿があった。
灰色の装束に金色の髪が鈍色の雨に濡らされる。
間違い無い、アルフレートだ。
「アル……」
ヤマムラが彼に近づこうとした時、強い雨音に混じり微かに笑い声を聞いた。
雨に身体を濡らし、髪にも頬にも雨粒が滴る中、彼は声をあげて笑っていたのだ。
「降り注ぐ、雨よ。どうかこの罪も洗い流してくれ……そうして、私を善きものに……そうじゃなければ、私は……」
過去や罪や咎などが雨に流され消えるはずはない。
だがそれでもアルフレートは自らを罰するよう、冷たい雨にうたれて続けていた。
あるいはそうする事で自分そのものが消えてなくなればいいのにと、そんな願望すらあったのかもしれない。
「アル!」
ヤマムラが声をかけると、アルフレートは半ば夢見るような視線を彼に送り……それが現実のヤマムラである事を確認すると、寂しそうな笑顔を向けた。
「ヤマムラさん……」
何か語ろうと口を開くが、その口は何の言葉も紡ぐ事なくただ僅かに開くだけだった。
そんなアルフレートを前に、ヤマムラは手をさしのべる。
「……帰ろう。俺といっしょに」
雨にうたれて濡れた手をアルフレートはしばらく黙って見ていたがやがて諦めたようにため息をつくと。
「……はい、行きましょう」
震える指先で、ヤマムラの手を握りしめた。
かなり長い時間雨にうたれていたのだろう。その指先も手も、芯まで冷え切っている。
ヤマムラはそんなアルフレートの手を強くひくと自分の方へ彼を抱き寄せ、肩を抱いたまま歩き始めた。
自分たちの宿へと戻り、この冷たい雨を忘れてしまうために。
宿に戻れば主人が渇いたタオルを投げてよこした。
「そんな濡れた服で入られたら困るからな……濡れたマントはそこで脱いで、着替えはお前等の部屋から適当に見繕ってきたぞ。とっとと着替えろ……今ホットワインを準備してやるからな」
ヤマムラが出てから30分はとっくに過ぎていたが、それでも扉を開けてまっていてくれたのだろう。
強面だが決して悪い男ではない。
ヤマムラはアルフレートの髪を拭きながら「ありがとう」と店主に礼を言った。
一方のアルフレートはどこか虚ろな目をしたまま、相変わらず生気がない。
「……行こう、アルフレート。店主が暖かいものを準備してくれてるからな」
ヤマムラは引きずるようにアルフレートを座らせると、店主が準備したホットワインをすすめた。
シナモンと檸檬の香りが漂うホットワインは、雨風うたれて冷えた身体を温めてくれる。
だがアルフレートはカップを手に取ろうとせず、相変わらず視点の定まらぬ様子で周囲を伺っていた。
「……アル、少し暖かいものを飲んで落ち着いた方がいい」」
肩を抱き寄せそう囁けば、アルフレートはただうわごとのように呟く。
「……穢れは……私の、内側からにじみ出るようにあふれて……雨にうたれ流れていくかと思っても……私の臓腑の奥から。あるいはこの脳髄の奥から……穢れが、罪が、にじみ出るように溢れて、私は……」
アルフレートは、表向き人当たりがよく、人なつっこい性格にすら思える。
だがその真面目で人当たりのよい仮面に一度ヒビが入ると、心の奥底に封印していたヘドロのような感情を抑制出来ずただ吐きだし傷つける……そんな「けもの」を飼っているのだ。
そしてその「けもの」はしばしばアルフレートの理性を食い殺し、こうして表に出てきてはアルフレートの心と体を蹂躙し肥え太るのだ。
「アル……今はキミの過去も……穢れも関係ない。少なくても俺は気にしてないよ」
「……わかってます、ヤマムラさん優しいですから。でも」
愛されているのは分かっている。それでも、自分の中で全てを受け入れる事は出来ないのだろう。
歪に育てられたアルフレートに今更「普通のこと」を与える事そのものが、彼にとって重荷であり、苦痛なのかもしれない。そう思う事もあった。
それでも……。
「アル」
ヤマムラは優しく彼の名前を呼ぶと、顔を向けるアルフレートとそっと口づけをした。
ヤマムラの口に含んだホットワインが、アルフレートの口へと注がれ……まろやかなワインの味と温もりが、幾分か彼の心を癒す。
「……どうだ、暖かいものを飲めば……少しは落ち着くだろう」
「えっ。あっ、は、はい……」
悪戯っぽく笑うヤマムラを前に、アルフレートは頬が赤くなっていくのに気付いた。
きっとこれは、ワインで酔ったからではないだろう。
アルフレートは東洋人のヤマムラからするとスキンシップに積極的かつ情熱的で、キスにしても夜の情事にしても激しく淫らに求めるような所があったが、時々不意に口づけすると今のようにまるでキスを知らない初心な少年のような顔をする事があり、ヤマムラはアルフレートのそんな所もまた溜まらなく愛おしかった。
アルフレートはその唇に誘われるように、ホットワインに口をつける。
多少温くはなったがそのワインは甘く、暖かく……。
「……おいしい」
アルフレートを僅かに笑顔にする。
その隣でヤマムラは、アルフレートと指先を重ねた。
「小さい事でいい……美味しいとか、楽しいとか……そういうのを、少しずつ二人で重ねていこう。そういう事を喜べるように……アル、今は難しいかもしれない。けど……出来るようになるさ。それまで、俺が傍にいるから……」
「はい……ヤマムラさん……」
二人は自然に寄り添い肌を重ねる。
強い風と雨の中でも、二人の心は優しい静寂に満ちていた。