>> チケットの行方






 少し片付けたらどうだ。
 僅かながら怒気を孕んだ司書の声に気付いた太宰治が振り返ると、そこには地図や時刻表などを床いっぱいに並べて寝そべる田山花袋の姿があった。


 「いーだろ、司書さん。最近ばけもの討伐で疲れてるし、藤村でも誘って温泉旅行を計画しようって思ってる所なんだから」


 花袋はさして悪びれる様子もなくそう言うと、また新しい雑誌を床へと広げる。
 すでに部屋には旅行代理店の広告だの、赤ペンが入った時刻表だの、付箋紙だらけのガイドブックなどが所狭しと並んでいる。
 これを片付けろというのはもう、無理だ諦めたのだろう。

 司書はやれやれと頭を掻き、深く大きなため息をつく。


 「わかったわかった、旅行の企画をたてるのは好きにしていいが、せめてテーブルの上で見てくれよな。床はこれから、俺と露伴で掃除機をかけるつもりなんだ……館長はまだしも、ネコの奴は掃除が行き届いてないとうるさいぞ。それまでに片付けておいてくれよ」


 そして花袋が広げた地図を折りたたむと、広めのテーブルへ移すのだった。

 司書と花袋。
 そんな二人のやりとろを見て太宰が思ったのは、「掃除が大変そうだから手伝おう」という殊勝な事ではない。


 (はるお先生と一緒に湯治に行けたら、楽しいだろうな)


 そんな小さな欲求だった。

 太宰にとって佐藤春夫という男は尊敬する恩師である。
 だが、それと同時に生前多大な苦労と迷惑とをかけた相手でもあった。

 いや……正確に言うなら、太宰は春夫に迷惑をかけたという記憶はない。
 彼の中にある師への思いは今も変わらず、募るのは敬愛ばかりだ。

 だが恩師である春夫にとって、太宰の印象はよほど悪かったのだろう。
 この世界に顕在化してから二人は「先生」と「門弟」の間柄でありながら会話はおろか目を合わせる事すら無い程に交流が薄くなっていたのだ。

 太宰も少しは反省し、師匠である春夫に謝罪できれば良いと。
 出来る事なら和解して、膝をつき合わせ話せるような仲に戻れれば良いものだと、そう思っていたのだが、生前に巻紙で十メートルにもわたる執着の塊を幾度もたたきつけたのは春夫にとってよほどトラウマだったのだろう。

 現在まで、尊敬する恩師は未だ視線すら合わせないまま、日々を過ごしていたのだった。


 (今ははるお先生目も合わせてくれないけど、温泉でゆっくり湯につかって、差し向かいで飯でも食べれば少しは距離が縮まるかもしれないよな)


 普通であれば 「目すらあわせてもらえない相手と旅行しようとする酔狂な人間はいない」 と、そう考えるべき所だろう。
 だがその点でいえば、太宰はえらく人の気持に鈍感な性質(たち)の男であった。

 また、太宰は 「そうだ」 と思ったら 「そうすべきだ」 と思う性質でもある。

 一緒に旅行すれば仲良くなれるだろう。
 わだかまりもとけて以前同様、父のように兄のように接してくれるはずだ。

 そう思った彼は早速、佐藤春夫を湯に誘うべくその自室へ赴いた。


 階段を駆け下り、長い廊下を抜けた先にある個室が佐藤春夫の部屋になる。


 「先生! はるお先生!」


 ノックに対する返事も待ちきれず、太宰は部屋のドアを開ける。
 元より門弟の来訪が多い佐藤春夫だ。かつての習慣から、ドアに鍵はかけていないようだった。

 開かれた扉の先には、積み上げられた本の匂いとともに微かだがコーヒーの香りが漂う。


 「誰だ?」


 佐藤春夫は突然の来訪者に驚いて見せたが、それがかつての門弟だと気付くと。


 「……何だ、太宰か」


 急に興味を無くしたような表情になると、机におかれた紙の束へと目を落とした。
 どうやら誰かが書いてきた新作小説を読んでいる途中だったらしい。
 あいかわらず、太宰治には興味がないようだ。

 だが、それもしかたないと太宰治は思っていた。
 生前迷惑かけたのだ、今の自分はゼロからのスタート、あるいはマイナスからのスタートだ。多少無碍に扱われたとして文句が言える立場ではない。


 「せんせ! はるおせんせ! ……俺、最近肩も痛いし、腰も痛いし、眼精疲労もあるし、ストレスで精神の摩耗もすごいし、よく眠れないしでいい事ないんですよー! ……温泉みたいな所、行きたいですよねー!」


 まだ自分が直接温泉に誘っても、すぐに了解される立場ではない。
 そう思い、回りくどく誘う作戦をとってみたが。


 「そうか、行けばいいだろ」


 春夫は太宰を見る事もなく、間髪入れずそう答える。
 眼前にある新作小説のデキには興味があっても、太宰の言葉には何ら興味を抱かないらしい。


 「でも、俺一人だと心細いんで! ……あ〜、誰かと一緒に行けたらいいんだけどな〜」


 目を合わせてもらえなくてもいい。
 せめて自分は春夫の姿を見ていたい。

 そんな思いを胸に秘め、太宰は熱い視線を注ぐ。


 「ん、そうか……俺の門弟に、声をかけてやろうか? ……谷崎なら一緒してくれると思うぞ」


 しかしその熱い視線にも、佐藤春夫はきわめて鈍感で無頓着であった。
 あるいはそう、あえて鈍感に振る舞って彼の言葉を受け流そうとしているのかもしれない。


 「あ、そ、そうっすね……あ、でも、谷崎さんに迷惑かけるのも嫌なんで……今は、いいかな……あは。あはははは……はぁ……」


 今、太宰が温泉に行きたいのは恩師であり旧友ではない。
 結局太宰はとうとう春夫を誘う事も出来ず、一人寂しく部屋を後にするのであった。


 ・

 ・

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 「あ〜! も〜! あの人ダメだぁぁぁぁ〜。この俺様が熱視線を送ってるのに、全然気付かねぇんだもん、何だよあれ〜!」


 リビングと呼んでも差し支えのない図書室の広いホールで、太宰は一人転がりながら怨嗟の声をあげる。
 そんな太宰をまたぎながら、司書は部屋の片付けをしていた。


 「そう言うな……佐藤春夫は衆道に対してひどく無頓着だからな。お前の気持ちなんてぇのも、気付かないんだろうさ」


 太宰の姿を見ないまま、司書は手早く本棚を整理し彼なりのアドバイスをする。
 浸食者退治の筆頭として多くの文豪を束ねる司書は、一応文豪の「生前の人となり」を記憶していた。

 そういった生前の「記憶」がなければ現世への顕在化が上手くいかないから、多少の知識は必要なのだという。
 とはいえ「生前の記憶」はあくまで指標であり、今この場に顕在化した文豪たちの外見はもちろん、気質や性格、過去の記憶などもかなり曖昧に作られてしまうという話だが。


 「そんなのわかってるけど〜! でも、せっかく会えたんだぜ。俺だって先生がノンケなのは知ってるから、別にその……何をとやかくねじ込むつもりはないんだ」
 「何をとやかくねじ込む、ねぇ……ねじこむ側なんだ?」

 「先生みたいなデッカイ男に襲われたら痛いだろ? 俺、死ぬのは平気でも痛いのはゴメンだからな!」
 「でも、無いんだろ?」
 「それは、まぁ……ちょっとしかないんだよ! ……でも、こうもスルーされると、身なりを気にする伊達男としてもすっごい自尊心が傷ついちゃう訳」


 そう言いながら、太宰は髪を整える。
 赤みをおびた短髪から前髪が一束、後方へと跳ね上がっているのが見えた。

 寝癖のようにも見えるが、あれが本人流の「伊達で鯔背なオシャレ」なのだそうだ。


 「……ホント、俺に興味ないのはまだ許せるけどさ。目ぇあわせてくれないの悲しいって」
 「それはわかるが、一緒に旅行とかいきなりハードルあげすぎじゃないか? 生前ならまだしも、ここでは初対面みたいなもんだし。しかもおまえは春夫にトラウマを植え付けてる」

 「それは悪いと思ってるって……旅行は無理だとしても、二人で飯くらい行きたいよなぁ」


 机の上で肘をつき、乙女のように嘆息をつく太宰を横目に、司書は肩をふるわせて笑う。
 太宰という男は、自信家かと思えば卑屈で、愛想がよいと思えば高慢で子供のように奔放な性格だがどこか人を引きつける所があった。

 司書である彼もまた、太宰のそんな危うさに魅せられた一人でもある。
 彼は 「そうだと思って」 と前置きし、懐から薄っぺらい紙を二つ取り出して見せた。


 「……そんなにお前が悩んでるというのなら、特別にこいつをお前に譲ろう」
 「えっ? ……何だよそれ。切符か?」

 「これは、今街を騒がせてるアニメーション映画のチケットさ! ……新美南吉くんを誘っていこうと思ったら、俺が近づいた瞬間に防犯ブザーを押されてね! 必死に逃げたが江戸川乱歩に確保され、高村光太郎にマジギレされ、しばらく新美南吉くんの半径3km以内に近づいたらいけない事になったからね!」
 「何それ、司書さんマジ犯罪者みたいなんだね」


 太宰が冷たい視線を向ける。
 この司書は、普段から冷静で雑事も何なくこなし、敵との陣頭指揮から救護まで事もなげにこなす男なのだが、「年端も行かぬ少年を何より美しいものとして信望する」というフェチズムをもつ男だった。

 太宰には到底理解できない性癖だが、それでも司書として有能なのだからこちらがとやかく言うべきでもあるまい。


 「とにかく、そんな訳で俺は使えなくなったから、お前にやるよ。二枚ある。……これで二人で映画でも見て仲直り……出来ないまでも、少しでも仲良くなれって」
 「やった! 司書さん太っ腹!」

 「俺としても、チームに仲違いしている奴がいると仕事しづらいからな。ホント、仲直りするんだぜ」


 司書はそう言うと、チケットを手渡す。
 司書の性癖はともかく、その心遣いは嬉しかった。


 「ありがとな、司書さん! ……今度は回りくどい事せず、ストレートに誘ってみるぜ!」


 太宰は椅子の上から転がるように飛び出すとその勢いのまま恩師の部屋へと向かう。
 司書はその背中に 「がんばれよ」 と、唇だけ動かして小さく応援するのだった。



 「せんせい! はるおせんせい!」

 太宰が部屋を訪れた時、佐藤春夫はちょうど来客の最中であった。
 広めのテーブルが向いには高村光太郎が座っており、ノックもせず入ってきた太宰の姿を訝しげに眺めている。


 「……そんなに急いでどうしたんだい、太宰くん。息が上がってるけど」


 先に太宰へ声をかけたのは恩師の佐藤ではなく、高村だった。
 彼は太宰の横に跪くと、心配そうな顔をしてその細い手をさしのべる。

 しかし太宰はそんな事も気にせずチケットを精一杯、佐藤春夫へと伸ばすのだった。


 「先生! はるおせんせい! ……映画のチケット、評判のアニメーションキネマのチケットです。ちょうど、2枚あるんで、これよかったら先生に……どうぞ!」


 屈託ない笑顔をむけ、太宰は懸命に手を伸ばす。
 それを見た春夫は穏やかな笑みを浮かべながら 「そうか」 と小さくつぶやくと。


 「それじゃぁ、遠慮なくもらっていくぞ」


 そう言うが早いか、太宰の手にある二枚のチケット。その両方を奪い取ってしまうのだった。


 「え!? あ、ちょ、はるお……はるおせんせ!?」


 突然の事で何も言えない太宰を横に、春夫は涼しい顔をし高村の肩へと手を置いた。


 「あ、ちょうど2枚ある……そういえば、これから食事に行く約束をしてましたね、高村先生。この映画、一緒にどうですか?」
 「え? ……僕がかい? でも」
 「俺一人でアニメ映画はちょっと恥ずかしいんで、お願いします。先生とつもる話もありますし」


 高村は済まなそうな視線を太宰に向けるが、佐藤春夫の目に太宰の姿は映ってないようだった。
 彼の語り口からは、高村と映画を楽しんだ後、文壇の話に花を咲かせるのを楽しみにしている様子がにじみ出ている。

 このチケットは、すでに佐藤春夫のものだ。
 自分が身を引かなければいかないのだろう。


 「……は、るおせんせ……楽しんできてください……!」


 太宰は力なくそう告げ、佐藤春夫の部屋から出ると。


 「ちくしょぉぉぉぉ! はるおのばかやろー!」


 ドアを閉めるより先にそう叫び、自分の部屋へと走って戻るのだった。


 「……やれ、本当によかったのかな、春夫くん」


 佐藤春夫と二人になって、高村は呆れたような顔を見せる。


 「今日、別に君と話をする予定はぼくには無かったよ? それなのに……太宰くん、このチケット……君と映画を見たくてもってきたんだと思うけど、どうかな」
 「そうでしょうね、あいつ、こっちに来てからずっと俺に見てほしくて必死みたいですから」

 「それだったら、どうして行ってあげないんだい? ……確かに君は、太宰くんに苦労させられただろう。彼に対して複雑な思いがあるのはわかってるよ。でも、今の太宰くんはもっと純粋に、君の事を尊敬している……そう、思うけど」
 「わかってますって、でもね」


 そこで佐藤春夫は視線を泳がせ、わずかに笑みを浮かべる。


 「……でも、会わないでいる方がいいんですよ。あいつは、あぁいう性格ですから。会わないでいればそれだけ、俺に執着する。俺の事しか考えられなくなる。俺は、その方がいいんです」
 「何だ……そういう理由か」


 高村光太郎はため息をつく。
 その色には呆れ以上に諦めが宿っていた。


 「ぼくは、君がたまに恐ろしくなるよ。純粋だと思っているけど、ぞっとするほど残酷な事もあるんだね」
 「……俺だってくせ者揃いの門弟を抱えていた身ですからね。素直な顔だけしてたら、やっていけませんよ。最も、太宰の場合は……」


 と、そこで佐藤春夫は視線を僅かに宙へ泳がせて唇を舌で湿らせる。


 「太宰の場合はそう、俺と会っても 『芥川賞』『芥川賞』 って話ばっかりするもんでね。……そういうのも、ちょっと面倒なもんで」
 「そうか……結局、君も少しは妬いてるって事かな」


 高村の言葉に、佐藤春夫は曖昧に笑う。


 「それじゃ、せっかくチケットもらったんで行きましょうか、映画」
 「そうだね、この時代のキネマがどんなものだか、ぼくも興味がある」


 佐藤春夫に促され、高村光太郎も歩き出す。
 ランプに照らされた二人の影は微かに揺らめいているように見えた。






 <でぐちこちら。>