>> 慰め
こんばんは、お邪魔しています。
長丁場の仕事を終え、終電に滑り込み久しぶりの我が家へ戻れば、誰もいないと思っていた部屋からそんな声がした。
「……ニノマエくん、か」
すっかり人がいないものだと決めつけ、ただいまも言わずドアを開け、彼の声を聞いてから、宇藤はゆるゆる思い出す。
そういえば修羅場に入る直前、ネカフェ生活に息詰まっていたニノマエに 「自分がいない間なら、好きに部屋をつかっていい」 と言いつけて出ていったのだっけ。宇藤は頭を掻きながら、修羅場にはいる前の記憶を何とかたぐり寄せた。
「はい……えーと、3日ぶり、ですか? お仕事お疲れさまです。……帰るって言ってくれれば、料理くらい準備したのに……」
「いや……別に気にしなくていいよ。気を遣われるのも悪いからさ」
そもそも、ニノマエがいる事自体を忘れていた。言いつけておくのもどだい無理だというものだ。
……その位、今回の仕事はハードだったのだ。
「そうですか? ……あ、夕飯は」
「ん? そういえば食べてない……かな」
「だったら、今簡単なものだけ作っちゃうんで……先にお風呂入っていてくださいよ。それまでに、何かつくっておきますから」
平然とそういうニノマエを、宇藤は訝しげに見つめる。
普段のニノマエが、ネカフェを渡り歩きそこで食べられるジャンクフードや飲み放題のドリンク、スープなどで繋いでいるのを知っているからだ。
「……出来るのかい?」
「あはは…………宇藤さんよりはうまいですよ、たぶん」
ニノマエがどこまで本気で言ってるのかはわからなかったが、何か付くっておいてくれるなら有り難い。
「じゃ、頼むよ」
「はいはーい」
ニノマエの明るい声に押され、宇藤は浴室へ向かった。
……普段は布が被せられている鏡が、宇藤の身体を映し出す。その上ににじみ出すように空想のヒーローたちが動き回る世界が展開していった。
じっと見ていれば取り込まれてしまいそうな魅惑的な世界だ。
だが、仕事を終えたばかりの今はそんな空想に身をゆだねていたくはない。
「邪魔だ……」
宇藤はワイシャツを脱ぎ捨てると、それをそのまま鏡の上へと被せた。
「生憎、今は現実(リアル)を楽しむ時間だからね……」
そして一つため息をつくと、暖かな湯へと身をゆだねた。
外が随分と寒かったからか、シャワーの湯が心地よい。
だが、湯が集まり小さいながらも水たまりができれば、その世界が歪みまた鏡の世界でヒーローたちが思い思いの活躍をし始めた。
「……っ、くそっ」
アリス症候群。
鏡の中に幻覚が現れてしまうという奇妙な病気が、宇藤を蝕んでいた。
宇藤は舌打ちをするとすぐにそれを踏みつぶし、消し去る。
「言ってるだろう、今は現実(リアル)なんだ、お前たちの出る幕じゃない。お前たちの……お前たちの…………」
…………彼は、こうい世界を描く立場に、いたかった。
だが現実の彼は脇役。描く立場ではなく、描くものの傍らに立つ……。
英雄ではく従者にすぎないのだ。
……今日の仕事はそれを痛感せざるを得ないものだった。
故に、普段は楽しんで没頭していた 「鏡の世界の英雄談」 にふれるのも苦痛だったのだ。
最も、鏡の世界にあるそれは彼が望もうと望むまいと、現れてしまうのだが。
「…………宇藤さん? 宇藤さん、大丈夫ですか?」
浴室の扉ごしに、ニノマエの声が聞こえる。
……自分の異常に気づいたのか、その声はどこか不安そうだった。
(駄目だな……冷静にならないと。こんなんじゃ……)
宇藤は二度、三度深呼吸をすると、なるべく穏やかな自分を偽った。
「あぁ、大丈夫。いま……出る」
その声に促されるように宇藤はシャワーをとめる。
そして、鏡を見ないまま被せたワイシャツを洗濯機に放り込んだ。
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「大したモノじゃないんですけど、どうぞ」
そう言われテーブルに並んだ料理は、ニノマエの言う通りさしたるモノではなかった。
野菜を加えて炒めるだけで出来るレトルトの八宝菜に、残った野菜を刻んでぶち込んだスープ。ごはんなどは、レンジでチンしただけのものだ。
それでも、他人の手料理というのは実家で食べた以来だ。
友達と呼べる友達もなく、殆ど仕事漬けの日々にこのようなもてなしは素直に嬉しく思う。暖かい料理ならなおさらだ。
「早く食べないと冷めちゃいますよ、ほら」
ニノマエはそういいながら、グラスにコーラをたっぷりと注ぐ。
ビールじゃないのがニノマエらしい。
「あぁ、ありがとう」
宇藤は少し笑うと注がれたコーラを一気に飲み干した。
そうして、改めて自分の部屋を見渡す。
ニノマエに部屋を貸したのは一度や二度ではないが、いつだって汚した事はない。
今日も机一つにスケッチブックやノートが堆くつまれている他、部屋は綺麗なものだった。
だがその片隅には、随分ニノマエのものが増えてきた気がする。
……元々、宇藤は仕事ばかりの人間でこの部屋にも眠りにくるだけが殆どだった。
漫画以外のモノはなく殺風景だったこの場所の一画だけが、ニノマエの色に染まっている。
置いてあるのは、映画のDVDか何かだろう……。
ニノマエが、友人から譲り受けたというゲーム機(DVDで映画などもみれるものだ)で見ているらしい。
生憎、宇藤はほとんど終日漫画ばかり読んで過ごしているので、映画はさっぱりだが有名なものなのだろう。宇藤は知らないが、ニノマエの漫画では映画をモチーフに描いたシーンも多いのだと聞く。
「……映画、見てたのかい?」
ニノマエが作ったレトルト料理をつつきながら、宇藤は何げなくそう言った。
「あ、はい。久しぶりに見たいなぁ、と思って……レンタルで」
「そう……好きだね、そういうの」
「えぇ……演出とか構図とか世界観とか、やっぱり勉強になりますから……って、宇藤さんあんまり映画好きじゃないんですよね」
「……そんな事言ったっけ?」
「いいえ。でも、宇藤さんから漫画の話意外聞きませんから」
確かに宇藤は、漫画以外の媒体に興味が薄い。
その点では世間にも疎いといっていいだろう。
職業柄、話題になっている映画のタイトルくらいは耳にするが、映画館なんて小さい頃つれられていったか、仲間内につきあっていくくらい。
自発的にいった事は皆無だろう。
「……そうだなぁ、確かにあんまり好きじゃないかな」
「ですよねぇ」
ニノマエは表情を曇らせる。
……彼の創作意欲、その多くは映画から来ているのだろう。
「でも……ニノマエくんの事は好きかな」
「えっ?」
「君の作品はいつも面白い……それと、君もね。こんな俺にわざわざ気を遣ってくれるなんて……感謝するよ」
「や、やめてくださいよ! 宇藤さんがそんな事言うなんて……おかしいですって」
「? そうかな」
「おかしいですよ……宇藤さん、らしくない」
「……そうか」
冷めはじめたスープをすすりながら、宇藤は漫然と考えていた。
……鬼編集を首にしろ。若造が何を考えている。新人の癖に。
悪態という悪態はつかれ、多く苦言も受けてきた。だが全て漫画のため、仕事のためと思えば何の事はなかった。だが……。
……さすがに、今日は疲れた。
「これ」だと認め、育てていこうと思っていた存在のはずなのに……相手の内なる世界を見過ごして、知らない間に壊してしまった。
これから育てていこうと思っていた大事な作品を。
まだ見ない「あの作家の漫画」を、自分が永久に摘んでしまったのだ。
……漫画のために仕事をしていたはずなのに。
夢を追いかけきれなかった自分が、追いかけ続けた誰かの心を摘んでしまうなんて……。
……最低だ、本当に。
停滞していた思考が渦巻いていく。自分はどうしてこんな風にうじうじ生きているのだろう。どうして……。
「宇藤さん」
その時、自分の名を呼ぶ声のあと柔らかな感触が唇に触れる。
ニノマエだ。自分を慰めように彼の唇が重なっているのだ。
「っ! ちょ、ニノマエく……」
驚き離れる宇藤を前に、ニノマエもまた照れたように笑った。
「…………俺も、好きですよ」
「えっ?」
「どんな事をいっても、何をしても……宇藤さんが漫画の事、真剣に考えてるのわかってます。俺、そんな宇藤さんが好きですから」
彼はそれ以上何も言わなかったし、宇藤もそれ以上何も聞かなかった。
だが。
「そっか……………ありがとう、ね」
無意識に感謝の言葉が漏れる。
自分なんて、夢から逃げ出し英雄にはなれず誰かの脇でただ道化を演じているだけの存在だと思っていたのだが……。
夢を追いかけ真剣にそれに向かって描き続ける英雄が、ちゃんと自分を見ていてくれる。
今の彼は、ただそれだけが嬉しかった。