>> 檻のない牢獄
彼らを支配する審神者という男は、いつも窓辺に腰を下ろし頬杖をついて日がな一日外を眺めているという、おおよそ無害そうな男であった。
顔立ちは美しく、時々悪戯っぽく笑う様など艶めかしくて同じ男であっても心が惑わされる事もあるだろう。
しかしその男はその美しき外見とは裏腹に、中身はすこぶる醜悪であった。
とはいえ、虚勢をはって大声をあげるとか、力任せに相手を殴るとか、そういった類は一切ない。
人を殺めるとか、誰かのものをかすめ取るとか、そういった事のみが悪人のする事だというのなら彼はそう、何の罪もない善人なのだろう。
だが実際、彼を善人と思えるものはいないだろう。
男の言葉はそれほどに、悪意という名の毒に染まっていたのだ。
さて、審神者にはいつも片腕のように控えている青年がいた。
名は加州清光といい、審神者が最初に側へと使えさせた「刀剣」である。
いつも綺麗に髪をくしけずり、爪を紅に染め、西洋風の軍服をきっちりと着こなして主である男の衣食住全てにおいて世話をしていた。
「ありがとう、加州清光」
食事の準備が時間通りに出来ていれば、大概の場合審神者は機嫌がよかった。
いつも同じ食事のメニューで、いつもと同じように皿を並べ、いつもと同じ場所にナプキンを置き、いつもと同じコーヒーを飲む。彼は自分の日常を潔癖なまでに変えようとせず、その時間が少しでも乱れるのを嫌った。
そしてその「少し」の基準は、加州清光が使えるにつれ少しずつだが厳しくなっていたのである。
「……食事の準備をしてくれたのは、とても嬉しいよ。加州清光。君がいつもと同じ香水で出迎えてくれたのも最高の目覚めだ」
でもね、と審神者は自分の唇を濡らす。
「でも、今日のパンは頂けないね。ボクは、焼きたてのベーカリーじゃないと食べないっていつも言ってるだろう? ……これは、昨日の作り置き。冷めて、堅くなって、食べられたものじゃない。犬の餌にも劣るじゃないか。それを、ボクに食べさせようっていうのかい。ねぇ、加州清光」
その言葉に、加州清光の肩はびくりと震える。
そして、暫く視線を彷徨わせた後。
「ご、ごめんなさい、主……今朝は昨晩の夜戦部隊が遅くに帰ってきて、その治療をしていたから……早く起きる事が、出来なくて」
震える声で昨晩の、噎せ返るような惨状を必死になって報告する。
審神者はどんな時だって決まった時間に眠り決まった時間に目覚めるようきつく、加州清光に言い聞かせていたからきっと夜の事など知らなかったのだろう。
「そう」
特に気のない様子でぽつり、漏れるように呟くとピッチャーから一杯、牛乳を注いで。
「……だから、食事の準備も出来ないのか。あぁ、加州清光はぼくの事なんて 『その程度のあるじ』 だって思っているんだろうねぇ。悲しいな……とても、とても悲しいよ。このままだと、ぼくは……君のこと、嫌いになってしまうかもね?」
穏やかに笑うと、そういう風に言うのだった。
「……っ、ごめん! 主、あと15分まってくれれば、パンなら焼けるんだ、だから」
「いいよ、もう……だって加州清光はぼくの事、その程度なんだろ。だから別にいいって、ぼくも……そう思うだけだしね?」
「……すぐ焼けるから!」
加州清光は目に涙をいっぱい浮かべると、震えた足取りで食堂を出る。
一人残された審神者は、すっかり堅くなったパンを少しだけ千切りながら 「あぁ、不味いなぁ。本当に不味い」 誰に聞かせる訳でもなく、そんな事を呟くのだった。
加州清光が焼きたてのパンを運んだ時に、すでに審神者の姿はなく食器だけが置かれていた。
パンに数口手をつけられているだけで、他の食事は減っていない。
いつも「美味しい」と言いながら飲んでくれるコーヒーも全く手がつかないまま、今は温いだけの水となっていた。
「あるじ……」
謝らなければいけない。
そう思い、審神者の姿を求めれば安楽椅子に揺られながら窓辺より外を眺める探し人の姿があった。
何と言うべきか、どう謝るべきか、考えてもまとまらず言葉がうまく紡げない。
そんな加州清光より先に審神者はぽつりと言った。
「爪、先が欠けているんじゃないかな」
「えっ……あぁ」
昨日の夜戦で傷ついた仲間たちを介抱するうちに欠けてしまったのだろう。
気付かないでいたからそのままで、普段は紅にそまった指先が今日は一部だけうっすら白い。
「ごめん……昨日の治療で……」
「かわいくないよね」
審神者は加州清光を見る事もなく、外を見たまま言うのだった。
「……髪もぼさぼさだし、顔も疲れてるし。全然かわいくない。あぁ……ぼくの知ってる加州清光はもっとかわいくて、やさしくて、とってもいい奴なんだけど……今日は気付いてくれないし、可愛くするのも忘れてるし……本当、嫌いになりそうだよ」
言葉はまるで凪ぎ風のように穏やかで、怪我をした子供に危ない事をするなと言い聞かせるような優しささえ感じる。
だがそれとは裏腹にその言葉は、氷のような冷たさと近寄れない程の隔たりを加州清光に感じさせるのだった。
「ちがっ……主、おれ」
「言い訳するのかな」
「違う、言い訳じゃ……」
「……言い訳をするような事、今までなかったのに。どうしたんだろうね? ……やっぱり、ぼくの事もう嫌いになった? あーあ、加州清光に嫌われちゃったなぁ……どうしようかな? ……加州清光に嫌われたら、ぼくもとても悲しいよ……傷ついちゃうかもね」
「…………っ、ごめ、ごめん、あるじ」
「いいよ、べつにもう……だってもう、取り返しのつかない事加州清光はしちゃったんだもんね?」
それから、審神者は野良猫でも追い払うような仕草をする。
その視線に耐えきれず、加州清光は声をこらえてその場を後にするのだった。
もっと可愛くなければいけない。
もっと審神者のために尽くして、審神者の好きなものを研究して、審神者のために戦って……そうしないと、審神者が嫌いになってしまう。
鏡の前で加州清光は懸命に爪を磨いて、髪を梳かす。
嫌われたくない、嫌われるのが怖い。
審神者に捨てられてしまっては、自分は本当に価値のない存在になってしまうのだ……そんな恐怖にかき立てられて、加州清光はただひたすら自分の世界へ逃げ込んでいった。
逃げ込もうと、した。
「加州」
そんな彼の名を、誰かが呼ぶ。
振り返れば艶やかな黒髪の男が……にっかり青江が、心配そうにこちらを眺める姿があった。
「加州、どうしたんだ……昨日、夜戦の仲間たちを治療して全然寝てないんだろう? 少し休んだらいい」
「でも……」
審神者は決まった時間に暖かい紅茶を飲む週間がある。
その紅茶を出し、作りたてのスコーンやクッキーを並べて、白いテーブルクロスをかけ……お茶の準備のためにやるべき事があるのだ。やらなければいけない。自分だけしか出来ない。
やらないと、審神者に嫌われてしまう。
「やらないといけないんだ。主が俺の事、嫌いになっちゃうから、だから……」
震える足取りで立ち上がる加州清光を、青江が留めた。
「どうして」
加州清光の耳に、か細い声が絡む。
「どうして、そんなにあいつがいいんだい? ……ぼくじゃ、ダメなのかな。加州……ぼくじゃ」
「……青江」
「ぼくじゃ、君を愛してあげられないのかな……」
そう言いながら加州清光を包む青江の言葉は、暖かい。
加州清光を縛る事もなく、加州清光に突き刺さる事もない優しくて軽い言葉だ。
「青江……?」
青江の言葉は、審神者のそれと違う。
だが……だからこそ、恐ろしかった。
審神者の言葉と違うこの思いは、はたして自分の欲しい「愛」というものなのだろうか。
「青江、青江っ……」
だけれども加州清光は、必死になって青江を抱きしめる。
壊れそうな愛情の行き場を求めるように。
未だ束縛された心の鎖を持て余したままで。