>> 悪意の箱庭
英雄とは、数多の躯が上に鎮座する事で成り立っている。
一人の英雄が生まれその名が記憶に刻まれる時、その何十倍も、何百倍も、あるいは何千倍もの落第者たちがいるはずである。
その審神者は。
いや、審神者であった誰かは、「落伍者」の方であった。
四方は冷たい壁に阻まれ、日の光はドアの隙間から微かに入るだけ。
誰も訪ねるものもなく、また自分から誰かを訪ねる理由はない。
指先を見るのもおぼつかないようなその部屋は、もう随分前から暗闇に閉ざされていた。
室内には二つの漆黒が影は伺えるがどちらもあまり身動ぎはせずただ呼吸をする事だけに意識を集中している。
長く誰も来訪していないからか、室内の空気は淀み、肉が腐って爆ぜたような饐えた匂いが充満していた。
二つの影は、相変わらず動く事もなく一つは椅子に一つは床に、己の陣地を守っている。
ただ時々、床を這う芋虫のような肉塊が 「あぁ……おぁぁ……」 そんな風に喘ぎながら、床を這い回るのだった。
そうすると、肉塊の爆ぜた傷口から膿が滴り落ち、吐き気を催すほどの臭いが漂う。
まともな人間なら、そのにおいだけで吐き気を催す事だろうが、椅子にこしかけた男はあたかもそれが日常の事のようにその場から動こうとしなかった。
肉塊は、時折ごろりと転がるような寝返りをうち、苦しそうにわめき喘ぐ。
口からつき出る言葉は、いつも決まっていた。
「あるじ……あるじ、あるじ……あるじ……あるじ、すまない……すまないすまないすまない……」
それは蚊の羽音のようにか細く、だがどこか人を不快にする音律を奏でていた。
芋虫のように腹這い、時折身動ぎをしては膿を垂れ流すこの不気味な肉塊は、どうやら人であったようだ。
だがすでに目も見えないのか、巨大な肉塊は腹這いながら「あるじ」と呼ぶだれかに縋るよう、その両手を伸ばそうとする。
しかし肉塊にはすでに主にすがる手も、あるじの元に駆け寄るための足もなく、どちらも半ば腐っているのだった。
寸断された【腕だったもの】は虚空をつかむ。
「あるじ」
……手足のない巨大な芋虫にそう呼ばれた男は、誰に聞かせる訳でもなく一つだけ嘆息をつくと、それまで何もせずただ椅子の上で眠たふりをしていた身体を億劫そうに動かして、その芋虫が傍らに跪いて笑うのだった。
「山姥切……聞こえるか、山姥切国広……」
静かだが、よく通る声は常闇の室内ではやたらと響く。
その声を聞き、何ら動くすべを持たない肉塊はビクンと跳ね上がるように驚いてみせた。
そうかと思うと、それまで石の下にてじっと動かず機をうかがう虫のように息を潜めていた肉塊は狂ったようにわめきだすのだった。
「あぁ、あるじ、あるじあるじ……あるじ、あるじぃ……俺は、写しの俺は……俺は無様に倒れ俺は、俺は、率いた仲間たちもことごとく死なせ、あの、あの優しい兄も弟もみな、皆死んで、それだというのに俺は俺は俺だけは、写しであるという無様な生き様を晒し、手も、足も、光さえも奪われ無様に生き延びて、俺は、俺は、あるじ……主、あるじ……」
跪き、狂った肉塊の早口な懺悔を聞いて男は確信した。
この哀れな肉塊の記憶は【あの日】から全く進んでいないのだろう。
……あの日、久し振りに再開した兄弟と、背中を任せられる相棒とともに時代を飛んで敵を求めたあの日。
何もない、さして難しくない任務であると、そう思った彼らの眼前に突如現れた検非違使という化け物たちが、仲間たちを尽く屠っていったあの日だ。
突然の襲撃に、隊長であった山姥切国広は善戦したほうだろう。
そして彼はよく、仲間や兄弟たちに慕われていた。
だがその「慕われていた」という事実が、彼により残酷な運命を与えたのだ。
……気付いた時、山姥切国広は一人になっていた。
他の仲間は全て折れ、倒れ、元の姿など到底想像出来ぬほど無惨に嬲り殺されていたのだ。
それでも仲間たちは思ったのだ、せめて山姥切国広を生かしておけばまだ可能性があると。
だからこそ自ら死地に向かい、彼を苦そうと努力したのだろう。
だが、山姥切国広は自分の事をそれほど価値のある存在だと想っていなかった。
心の行き違い、全てそれが敗因だったのだろう。
……結局、山姥切国広は仲間を殺した敵兵を許す事が出来なかった。
許す事が出来ず無謀な戦いを挑み……今はその手も足も、光を見据える目さえもないのだ。
それからだろう。
山姥切国広の時がとまり、永遠と仲間に対して贖罪の言葉ばかり並べるようになったのは。
……いや、進んでないのは自分も同じだと、男は思った。
あの襲撃で受けた痛手は彼が任された「計画」からしても、大きな痛手だったのだ。
審神者として、歴史改編者から歴史を守る。
そんな大義名分を掲げた一大プロジェクトの中心である「審神者」として選ばれた彼だったが、初期からの相棒である山姥切国広を無惨に失った事実は上層部も知る事となった。
そうして、出された結果は次の作戦がくるまで無期での待機。
……二度とこの本丸から出るな、というお達しは、「審神者失格者」となった事を意味していた。
審神者失格者となった彼には以前と同じような豪華な部屋などなく、今はこの物置と呼ぶに等しい汚れた部屋に閉じこめられている。
唯一生き延びた死体同然の男と息絶えるまで幽閉されるのが、今は似合いの運命だろう。
「山姥切……」
男は戯れに、自分の膝元で蠢く肉塊の傷を撫でた。
雑な縫合で半ば腐り始めた身体は、いくら外界から意識を遮断した廃人でも痛みを感じるのだろう。苦痛に喘ぐよう悶えながら 「すまない……すまない、すまない、すまない……」 誰に対してかもわからぬ謝罪を、幾度となく口にする。
男は笑った。
暗闇にあるが故その表情が本当に笑っていたのか判別し難いが、恐らく笑っていたのだろう。
そうして血塗れたボロ布にくるまった男を抱きかかえると、そっと耳元で囁くのだ。
「山姥切……俺の、愛しい愛しい山姥切……そうあの夜、俺とおまえは全てを失ってしまった。仲間も、友も、地位も……だけど、おまえには俺がいる。任務から外され、名も呼ばれず最早光の注ぐ世界を歩く事が出来ない、愚かで悲しいこの俺がいる……だから、お前も俺の傍らにこうしてありつづけておくれ……罪と痛みと苦しみで無間に悶え苦しみながら、それでも許しを乞おうとする愚かで悲しい山姥切よ。任務ももたず、永遠に幽閉される未知成った、愚かで悲しい俺のため、苦しみ喘ぎそして悶える、ただ一人の男でいておくれ……」
その声と言葉とで、それまでもがき足掻いていた大きな肉の塊は、ぴたりとその動きをとめる。
主の声を聞いて、安心したのだろうか。それともただ、つかれて動きをとめたのか。その判別は尽きかねた。
そんな彼の姿を見て、男は安心したように笑う。
そして血と膿と傷ばかりになった山姥切国広と、優しく唇を交わすのだった。
「おやすみ、俺の最初の従者……今しばらく休んでいてくれ。そして自分がいずれ死ぬ時まで、その傍らにありつづけてくれ。……一人で死ぬのが恐ろしいから、そんな姿になったおまえを捨てる事も殺す事も出来ずただ、実体化させているこの愚かな男を……いずれ地獄で笑っておくれ」
闇はまた静寂に戻る。
室内は相変わらず暗く、すえた臭いが漂っていた。