>> 氷室の寝所






 凍えるような寒さは夜の闇を一層重く、深いものにする。
 隣の部屋で眠るマジェントは、もう眠っているのだろう。さっきまで騒いでいた物音が、今は一つも聞こえない。

 ……明日も早い。
 一刻も早く眠りにつかなければ……。

 焦燥を抱きベッドに潜り込むが、氷のように冷えきったそれは優しい微睡みなどもたらさず、冴えた過去の記憶ばかり呼び起こす。

 ……飼っていた魚を猫に食べさせた妹を強く叱りつけ、両親に激しく怒られた記憶。
 好意を寄せている女性にわざと悪戯をさせ泣かせたっきり、二度と顔をあわせなかった記憶。
 護衛軍に入り初めて人を殺めた時の記憶。
 自分が一瞬の判断を誤ったが為に、その隣で仲間とも親友とも呼べる誰かを永遠に失ってしまった記憶……。

 過去に自分が経験した思い出たち。
 いや、これらは思い出などという美しい言葉で彩られたものではない。

 むしろ永久に封印しておきたかった、忌避すべき記憶……忌憶だ。
 出来れば二度と見たくもなかった過去が、思いが、封じていた蓋の内側から溢れるように零れおちてくる。


 『……カピポ』


 耳に絡む息遣いが。


 『……だらしないな、ウェカピポ。それで王の護衛軍だなんて、笑わせてくれる』


 頭を踏みつけながら見下したように笑うあの詰るような視線が。


 『つまんねぇ男だよ。アンタは、アンタの妹と一緒でな……殴って首しめてヤらねぇと、よがり声の一つも出しやしねぇ! 俺はアンタの妹の、そういう所がたまらなくつまんねぇと思ってンだよ!』


 身体全体を舐めるように這い回る毒虫のような指先が、まるで今そばにあの男がいるかのように生々しい感触として思い出される……。


 『……妹に手をあげるな。か……考えてやってもいいぜ。アンタがケツを差し出すってんならな』


 跪き頭を垂れるウェカピポの頭をまるで毛虫でも扱うかのように足で踏みにじると、唾を吐きながらあの男はそんな要求をした。

 妹が助かるなら。
 これで全てから解放されるなら……。


 『奥までちゃぁんとくわえこめよ? ……出来ないとか言うな、今更。王の護衛官ともあろう方が嘘ついたらいけねぇーだろ。なぁ』


 だから耐えた。どんな恥辱であっても。


 『飲み込め。一滴も零すな……』


 これが妹の受けた仕打ち。
 そう思う事で耐える事が出来た。だが……。


 『考えてやるとはいったが、要求をのむとはいって無いよな? ……約束ってのは守ってもらってから要求をのんだ方がいいぜ。お利口さん』


 嘲るように笑う男の声が今でも耳の奥にこびり付く。
 あの時の舌の感覚も。粘っこい濁液の臭いも。乱暴に突き上げられた身体のその感覚も……。


 「っぁ……ぁ……あぁっ……」


 声にならない声を抱き、ただベッドにうずくまる。
 そう、全ては過去。すでに今ではない。もうあの男はここにはいない。この手で討ち果たしたはずなのだ。だが、それでも……。

 身体を這い回る虫のような指が。
 快楽を弄ぶ蛞蝓のような舌が。
 無造作に突き上げる情欲に満ちた身体がウェカピポを弄ぶ。

 もう無いはずの身体が宵闇とともに、忌憶となって蘇るのだ……。


 「……か? 大丈夫かよ、なぁ。ウェカピポ!」

 気付いた時、ドアの向こうから激しいノック音とマジェントの声が聞こえてくる。
 眠ったものだと思っていたが、何処かで酒でもひっかけていたのか……。

 無視してもいいが、このままだとドアを壊される勢いがある。
 ウェカピポはすっかり火照った体をおさえながら起き上がると、今にも蝶番ごと外れてしまいそうなドアを開けた。


 「うわぁっっ、っと。ちょ、開けるなら開けるぞーとか言えよっ……」


 ドアに突進でもするするつもりだったのか。扉をあければマジェントが転がり込むようなだれ込む。


 「……何だ、騒々しい奴だな。何の用だ」


 ウェカピポは部屋のランプをつけると、椅子に腰掛け相棒を見据えた。
 生々しい記憶を押さえ込み、冷静を装いながら。


 「あー…… 悪い。いやさ、何というか……アンタさ。こういうやたら静かな夜って、よくうなされたり……苦しそうにしてるだろ? ……今日もそうなんじゃねぇーのかなーって思ってさ。ドアの前きたら、アンタの呻き声とか聞こえたもんだからよー……なぁ、どっか具合悪い所あるのか? 医者呼んでやろうか。なに、たたき起こして無理にでもつれてきてやるって!」


 ……意識はしていなかったが、どうやら自分は過去に何度か同じような経験を。
 自らの記憶で幾度も幾度も同じ男に犯され続ける悪夢の輪音を経験していたらしい。

 しかもそれを、普段何かと行動を共にすることが多いこの男に気付かれていたようだ。
 ……気を付けなければいけないな、とウェカピポは思った。


 「いや……何でもない」
 「そっかー? ……アンタって大事あった時でも結構何でもないって言うから、アンタのなんでもねぇは信用なんねぇーなー。どれ……」


 マジェントは訝しげにこちらを見つめると、少し背伸びをして自らの額を押し当てる。


 「んー……うん、たしかに熱はねぇみてぇだなぁ……」


 額をはなしたマジェントは、そう言いながら二度、三度せき込んでみせた。
 マジェントは身体こそ人並み以上に丈夫ではあるのだが、喉や鼻は弱いらしく、しばしばせき込み寝込む事も多かった。
 最もその多くは日頃の不摂生の為だろうが……。

 ともあれ、人の心配をするより自分はどうなんだと呆れる素振りである。
 ウェカピポは内心そう思いながら、静かに首を振った。


 「言っただろう。俺が何でもないといったら何でもないんだ……余計な心配はするな。さっさと寝ろ」
 「でも……寝れてないだろアンタ。いつもならもっと早く寝てるもんな?」

 「……たしかに寝付きが悪い。だがいいさ、寝酒でも試すつもりだ……とにかく、俺の心配はいい。さっさと寝ろ。お前の寝坊で仕事を遅らせる訳にはいかないのだからな」
 「でも……」


 それでもなおマジェントは部屋から去ろうとせず、ブツブツと小声で呟きながらその場にただ立ちつくす。


 「何か言いたい事があるならはっきり言え」
 「わかってるって……ンでもよぉ、何ていえばいいのかよくわかんねぇって言うか……とにかくさ、アンタ、一人で色々考えたり背負い込んだりしすぎなんだって!  俺は……そりゃ、アンタと比べれば頭も回んねぇーし、考えるより先に手が出ちまう事だってあるけどよぉ……でもさ、アンタの心に置いてある、そのでっかい荷物を少しくらい軽くする事は、出来ると思うんだよな」


 マジェントは語る。
 自分の考えもまだまとまってないのだろう。何がいいたいのか要点が定まらない。

 いや、仮に何がいいたいのかマジェントに分かっていたとしても、きっとこいつは自分の言葉をまとめきる事なんて出来なかっただろう。

 マジェントはそういう男だ。
 人の心、触れてほしくない領域にも土足で入り込もうとするデリカシーの無さと、どんな闇でものぞき込もうとする好奇心を持ち合わせた、無謀な探検家のような奴だ。

 だからこの無計画な男に迷惑被る事も多い。
 だが……。


 「じゃ。 ウェカピポ……あんたが、大丈夫っていうなら、俺、今はあんたを信じて部屋に帰るよ。んでもよぉ……やっぱり大丈夫じゃなかったら、俺の部屋に来てくれよな。今日は鍵かけないでおくし、寝てたらたたき起こしてくれって。俺べつに怒らな……いや、ちょっと怒るかもしんねーけど。アンタなら許してやるからさ」


 マジェントは笑う。
 その顔はお世辞にも可愛いとも言えなければ爽やかともほど遠い、不器用で不格好な笑顔だったがそれでも。


 「俺は、あんたが昔なにをしてても。何があっても、あんたの相棒譲るつもりはねぇし……あんたの事、信頼してるからさ」


 不格好な笑顔から漏れたまとまりのない言葉は、とくに美しくもなければ平凡な響きしかなかった。
 だがそれにも関わらず不思議と男の心に染み渡り、彼の心を軽くした。


 「じゃぁな、ウェカピポ」


 去ろうとする男の手を、自然と握って留める。
 振り返ったマジェントは少し驚いた顔をしていた。その顔が、身体が、今何よりも自分に必要なのだ。

 触れた腕を引き寄せれば、その身体は抵抗なく自分の腕その中へと収まる。


 「ウェ……カピポ?」


 不意に抱き留められてもマジェントは、それをさして驚いてもいない様子だった。
 むしろ彼がそうしてくれるのを望んでたかのように縋り付くと、頬に手を振れ目を閉じる。

 望まれているのだ。
 ……こんな薄汚れた身体の自分でも。

 影は重なり、自然と唇が触れ合う。


 「マジェント……」


 まだ心にあるこの重荷を語る事など出来ないけれども。
 まだ自分がどれだけ汚れた人間なのか、自分でさえ受け止めきれてはいない。
 だけど……。

 今、彼が自分を求めていてくれるのなら、自分も彼を求めよう。
 ……痛々しい火照りを、僅かな歓喜にかえて忘れる為に。


 「傍に、いてくれないか……今日は……お前を、抱きたい……」


 それは忘却の為の逃避にすぎないのはわかっていたし、マジェントも恐らくそうだったろう。
 だが、それでも……。


 「あぁ……いいぜ。その……ありがとうな」


 マジェントはその身体をきつき抱きしめ返し、不器用な笑顔を浮かべる。

 外は相変わらず雪が降り積もり、夜の寝所は相変わらず氷のように冷たい。
 だがウェカピポの中にはようやく温もりが戻ろうとしていた。






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