>> 抱擁





 練習が終わり、ネットもボールも片づけられた体育館はいつもよりずっと広く見える。

 他の部員たちは、先に着替えにでも行ったのだろう。
 今はもう誰もおらず、賑やかだった体育館はひっそりと静まりかえっていた。

 一人になったその場所で、東峰は一つ大きく深呼吸する。

 古ぼけた木の香りが鼻孔を擽る。
 この埃っぽい匂い、一ヶ月前自分が抜けた時とそれほど代わりはない。

 ……戻ってきたんだ、この場所に。
 懐かしい匂いを吸い込み、東峰は改めてそれを実感した。

 幾度も幾度も防がれて。
 自分の中にある情熱も何もかもがぷっつりと途絶えてしまって、コートを後にしたあの日。

 あの日に全てを諦めて、もう二度とここに戻ってくるつもりはなかったのだが……。


 周囲には誰の気配もない。
 東峰はもう一度深呼吸をすると、へたりとその場に座り込んだ。

 天井を見れば、幾つも照らされたライトが眩しく思える。

 1年の頃は、厳しい練習に疲れ果て終わった後そのまま寝ころびこのライトを見ていた記憶がある。
 この風景は、あの日みたそれと変わらない。

 この一ヶ月。
 部から去って、練習から離れて……これでもう、チームに迷惑をかけなくてもいい。
 そう思っていたはずなのに、自分の中にはただむなしさが渦巻いていた。

 本当にこれでよかったのか。
 澤村も菅原も、何度も自分を引き留めたというのに自分だけ逃げるようにバレー部を去っていって、本当にこれで全て解決したのだろうか。

 西谷はあの時、諦めた自分を責めたのではないか。
 このまま逃げるように部から去っていって、本当によかったのか……。

 この一ヶ月、自問自答を続けた。
 出来れば戻ってきたいと、そういう思いが強かった。

 だから今、また戻って来れた事は素直に嬉しい。

 だけど、と思う。
 たしかに自分は戻ってきた。だけど、自分の実力が変わった訳ではないのだ。

 たしかに、日向と影山。
 新たな一年生の戦力が増え、彼らのおかげで囮は出来た。

 以前のように、自分だけがマークされ徹底的にブロックされ得点を阻まれる、といった事は少なくなるのだろう。

 だけどやはり自分がマークされ、ブロックされたら。
 ここぞ、という場所で得点が阻まれたら、また仲間に。チームに、西谷に迷惑をかけてしまうんじゃないだろうか、そうしたら……。

 ……やはり自分はここに戻ってきてよかったのだろうか。
 一ヶ月もブランクのある自分が。一度はチームメイトを見捨てた自分がまた、のうのうとここに戻ってきて……。

 あれこれ他愛もない事を考え、ぼうっと天井を見つめる東峰。
 そんな彼の背中にとんっ、と暖かな感触が触れる。


 「……旭さん」


 すぐに聞こえる、聞き慣れた声。
 西谷が、背中あわせに腰掛けて彼の名を呼んでいた。

 普段の元気に満ちあふれた声より幾分も音量を落とした声だ。


 「あっ……ど、ど、どうしたのさ」
 「別に、何だってワケじゃないんスけど……」


 背中越しに、西谷が動くのがわかる。
 考えてみれば、こうしてゆっくり話すのも一ヶ月ぶりか……。

 あの日、自分のせいでチームメイトには色々迷惑をかけたが、取り分け西谷には迷惑をかけた。

 それを西谷はせめたりはしないが……。
 部から離れた事。練習にこなかった事。あの時トスを呼ばなかった事……きっとまだ怒っているのだろうな。

 背中越しに西谷の呼吸を感じて、東峰は漠然とそう思った。

 謝らないといけない。
 西谷には、沢山非道い事をしてきたから。


 「ごめん」
 「ななな、何すか旭さん。急に……」

 「……俺のせいで、迷惑ばっかりかけたから。ごめん」
 「何言ってるんすか、今更……いいっすよ、その……戻ってきて、くれたんですから」


 その言葉から漏れた謝罪の言葉に、西谷は居心地悪そうに鼻を擦る。
 戻ってきてくれたのならいい。西谷は嘘をつかない奴だし、人の事を悪く思うような奴でもない。

 きっと本心から、自分が戻ってきた事を喜んでくれているのだろう。

 澤村も、菅原も。
 以前のチームメイトたちは皆、自分が戻ってきた事を喜んでくれた。

 いや、以前のチームメイトだけじゃない。
 自分の事を知らないはずの一年生……日向や影山も、自分の復帰に喜んでくれていた。

 だから自分はここに来てよかった。
 戻るべきだったんだろう。

 頭では、それを理解している。
 だが……。

 こんなにも望まれていたというのにそれでも、東峰はまだ揺れていた。
 本当に戻ってきてよかったのだろうか。
 俺は、望まれる程のプレイヤーなのだろうか……。


 「……ヘンな事、考えてないですよね。旭さん」


 そんな自分の煮え切らない部分を見透かされていたのだろう。
 西谷はふとそんな事を聞く。


 「へんな事って、何だよ……」
 「だから! ……まだ、自分がここにいらねぇとか。必要とされてねーとか。また失敗して迷惑かけたらーとか。そんなつまんねー事ですよ!」


 ずっと考えていた自分の思いを、西谷はつまらない事と斬り捨てた。
 相変わらず彼は口が悪くて、乱暴な奴ではあるが、悩みや迷いのない真っ直ぐなプレイが西谷の持ち味だ。
 この一ヶ月も、かわらずそれを続けていたんだろう。

 ……羨ましい奴だな。
 東峰は少し笑うと首を振り、それからゆっくり立ち上がった。


 「……もう、考えてないさ。そんな事」
 「ホントっすか?」

 「正直ね、考えないっていったら嘘になるよ。やっぱり、またブロックされて。何度も何度も阻まれて……そういうのは、怖いよ。凄く、でも……」


 そこで東峰は振り返ると、穏やかな笑みを浮かべたままゆっくり西谷に手を伸ばす。
 大柄な彼の身体と同じよう、大きな広い手が西谷に触れ、その頭を優しく撫でた。


 「でも……オマエが。オマエたちが、俺を呼んでくれるんなら……俺は、今度は何度でも。相手のブロックぶち破るまで、今度は挑戦するつもりさ」


 不意に、頭に触れられて西谷は真っ赤になりながら俯いた。


 「あっ! っ……旭さんがっ、その。そのつもりならっ……別にいいんす、けど! ちゃんと、トス呼んでくださいよ!」
 「あぁ、もちろん。で、でも……その、俺、練習久しぶりだし一ヶ月ブランクあるしほとんど鍛えてなかったから随分なまっちゃって、足引っ張っちゃうかもしれないけど……」

 「なに、言い訳ばっかしてるんすか! 一ヶ月ブランクあるのは百も承知ッスよ! ちゃんと練習して、巻き返してくださいね! ……旭さんは、エースなんすから!」
 「う、うん。そうだね……ありがと」


 戻ってきて、不安がないといったら嘘だ。
 だけどそんな不安も、西谷が一緒なら乗り切れる気がする。

 この一ヶ月、散々迷惑をかけたはずなのに、自分を待っていてくれた西谷……。


 「……で、旭さん。何時まで俺の頭、撫でてるつもりなんすか?」
 「えっ? あ……嫌だったかな?」

 「嫌じゃ、ねーですけど……でも! 何か旭さんにそーやって頭撫でられるの、すげーガキ扱いされてるみてーなんで!」
 「あ、ごめ……」

 「あと、すぐにごめんとか言うのも無しですよ! もー、旭さんゴツくてデカいのに気が弱いからいつも迫力で気圧されちゃうじゃないッスか。エースなんですから、もっと堂々としていてくださいってば!」


 少し、背伸びした西谷の手が東峰の胸を強く叩く。
 そうだ、エースなんだ自分は。

 エースを目指して練習してくれる、新入生もいる。
 チームメイトも、戻ってきてくれといってくれたのだ。もっと堂々としなければ、堂々と。

 そういった気持ちはあるのだが……。


 「あっ。そ、そうだよね。ごめん……あっ!」


 生来の気弱さから、ついまた「ごめん」の言葉が漏れる。
 いけないな、と思っていたのに。今注意されたばっかりなのに、やってしまった。

 目の前にいる西谷も、呆れた顔をこちらに向ける。


 「……旭さんは、練習より先にその謝り癖をなんとかしねーと駄目みたいっすね」
 「う……ごめん」

 「ほらまた!」
 「あっ! ごめ……」


 流石にここまで繰り返すと、西谷も呆れを通り越しておかしくなってきたのだろう。
 ふくれっ面だった彼の顔が、自然と笑顔になっていた。


 「あはは……何すかもー、旭さん。おかしっ……あははっ」


 西谷の、笑顔。
 こうして、彼の笑顔の傍にいられるのも偉く久しぶりな気がする。

 あぁ、戻ってきたんだな。ここに。
 バレー部に。西谷の隣に……。


 「……ユウ」


 東峰は、目の前にある小さな身体を知らないうちに抱きしめていた。


 「ちょっ! ちょ、何してるんすか! 旭さぁ……旭さぁん!」


 腕の中で、驚いて暴れる西谷がいる。
 顔は見えないけれども西谷のことだ、きっともう真っ赤になっているに違いない。

 自分も、少し恥ずかしいと思う。
 だけど、今はこうしていたかったし、こうやって伝えないといけないと思ったから、精一杯の勇気を出して彼を抱き留める。


 「ありがとな、ユウ。それと……ただいま」
 「あ、旭さ……」


 最初は赤くなり、その抱擁から逃れようと必死だった西谷だが、すぐにはにかんで微笑むと傍にある東峰の頭に触れる。


 「はい……おかえりなさい、旭さん」


 そしてしっかり抱きしめ返すと、おくれながらも挨拶を告げる。
 やっとこの場に戻ってきたエースの為に。






 <ちょっと一歩踏み出したへたれ。 (戻るよ)>