>> 虚ろなる現の目





 初めて「その男」の存在を知ったのは、やたらと長雨の続く黄昏時。
 勉強という名目で御剣に構ってほしくて訪れた、御剣の検事室での事だった。


 「御剣検事、居るー?」


 ドアのノックも適当に済ませ検事室のドアを開ければ、その日は御剣の姿がない。
 確かこの時間は俺の勉強を見てくれる約束を予め取り付けていた約束だったんだけれども、何か急な用事でも入ったのかもしれない。

 御剣検事は優秀な検事だから、局内でも引っ張りだこなのだろう……。


 「……何だ、誰も居ないのかぁ」


 静まりかえった室内は、西日が僅かに入り卓上に置かれたチェス盤が幻想的に赤く染まっていた。


 「やっぱりいいよなぁ、御剣の部屋は。広くて、色んなモノが置いてあって……それに、イスも座り心地良さそうだしな!」


 ぐるり、室内を見渡たした後、俺は御剣のイスに腰掛ける。
 大きな肘掛けに、ふかふかのクッションは普段俺が使っているイスより柔らかく、昼寝をするのに最適な角度になっていた。


 「うわー、本っ当に御剣のイス座り心地いいなぁっ……こんなイスに座って、寝ないで仕事出来るなんて本当、御剣は偉いよ……あれ」


 と、そこで俺は御剣の机に見慣れない写真が置いてあるのに気付く。
 写真は、4〜5枚あっただろうか。

 一枚には俺も見た事のある顔があった。
 御剣の幼馴染みで、事件の目撃者もやったことがある、確か……ヤッパリ、とかヤンバリとか言う名前の男だ。

 だけど、もう一人の男は見覚えがない。
 ギザギザ頭に、青いスーツ姿の男……御剣と同じくらいの年齢だろうか。

 数枚ある写真、全てにその青いスーツの男が映っていた。

 ……御剣とは、親しい仲なのかもしれない。
 何枚かの写真には、ふざけた様子で微笑む屈託のない表情が抑えられている。

 この写真を撮ったのは、御剣なのだろうか。
 だとすると……。


 「イチヤナギ君」


 不意に聞こえた声で顔をあげれば、何時の間にか俺の隣に御剣の姿がある。
 その声は俺にかけられていたが、御剣の視線は俺の手にある写真にばかり向けられていた。


 「あ、御剣……なぁ、御剣。この、写真の人って誰だよ。こっちの、ヤ……ナントカさんは会った事あるけど……この、青いスーツの人。俺の知らない人だよな。御剣の、トモダチか?」


 何気ない質問の、つもりだった。
 だけど御剣は冷たい表情のまま俺の手から写真を取ると、それを黙って引き出しに入れた。


 「えっ。あ、あれ……ミツルギ、俺、何か変な事……聞いた?」


 御剣の表情があまりに真剣で、切羽詰まった何かを抱いているように思えたから、俺は御剣の機嫌を損ねたのではないか。

 彼に嫌われてしまうのではないか。
 そんな事ばかりで頭が一杯になり、冷静な考えが出来なくなる。

 だけど御剣は不器用に笑うと、静かに首を振りながら。


 「何でもないんだ、イチヤナギ君……キミには、関係のない事だから……」


 そうとだけ呟いて、儚げに笑うだけだった。


 だから俺も触れなかった。
 御剣が何でもないと言うのなら、きっと彼の言う通り。

 何でもない友達か……ひょっとしたら、事件の参考人か何かなのだろう。
 そう思う事にした。

 ……いや、本当は俺にだってわかっていたんだ。
 御剣から、嘘をついてる証人の態度や証言について見せる痕跡の事を、良く聞かされていたから。

 だから、本当はわかってた。
 御剣は、あの時嘘をついていたって。

 彼はきっと……ただの、や。普通の。なんて形容が似合わない、特別な存在なのだという事に。
 だけど、気付かないふりをした。

 御剣の言う事を信じていたかったし、それに……。
俺自身、もう御剣以外に信じられる存在がいなかったから。

 だけど……。



 「御剣、居るー?」


 いつしか、御剣の部屋に訪れるのが俺の日課になっていた。

 名目は、検事になる為の勉強。
 実際、御剣に手ほどきを受けた俺は……オヤジと違う立派な検事にはまだまだ程遠いのだろうけれども、裁判のやり方や証人の揺さぶり方など、少しずつ覚えてきている……と、思う。

 だけど勉強などしないで、唇を重ねて気持ちを確かめるだけの日や、肌を重ねる日だってある。
 周囲の連中もそれに気付いているかもしれないけれども……俺たちの行動は、半ば暗黙の了解による公認となりつつあった。


 「……やぁ、イチヤナギ君か。良く来たな」


 座りたまえ、と言いながら御剣は俺にいらっしゃいのキスをする。

 柔らかくて、温かい御剣の唇。
 幾度も触れた唇はいつも交わす御剣の唇に違いない。

 けれども、その日は少し違う。
 メンソール系の香りが、俺の鼻孔を擽る……御剣はハーブティーも嗜むけれども、ミントのお茶はあまり飲まないはずだ。

 ましてやこの部屋にあるのはアールグレイかダージリン……。
 ミントティーはおいてなかったはず。

 一体何処からこのニオイが……。
 部屋を見渡せば普段と変わらない御剣の検事室だ。

 だけど、何かが違う。
 チェス盤が動いている。額に飾られた衣装に触れたような形跡もある。

 俺が来る前に、誰かが来ていた。
 以前の俺だったら、きっとそれさえ気付かずにこの優しさを受け入れていただろう。

 だけど俺は気付いてしまった。
 御剣が俺の望むように、父とは違う、本当の意味で「一流」になれるよう教えてくれたから。


 「……今、紅茶を煎れるから少し待っていてくれないか?」


 普段と変わらず優雅に動く御剣の指先が、微かに震えているのに気付く。

 いつもとニオイの違う、御剣の身体……。
 それが意味する事を、俺はわかっていた。わかっていたけれども……。


 「ミツルギ、紅茶なんかいいからさっ……」


 俺は御剣の膝に座ると、わざと甘えた声を出す。


 「さっきみたいに、キスしてくれよ。ぎゅーってダッコしてさっ……胸も、唇も、指も……全部、御剣の好きな事していいから! だから……」


 そうすれば、消す事が出来ますか。
 貴方の中に居て、決して消える事のない「あの男」の存在を。


 「イチヤナギ君……」


 御剣は一瞬だけ悲しそうな目をすると、それ以上何も語らず静かに俺と唇を重ねた。

 この唇も、指も……あの男はきっと、すでに知っているのだろう。
 そして、ここに居なくても彼は今でも御剣のそれを支配しているのだろう。

 だけど……。


 「……成歩堂」


 腕を重ね、舌を絡め、全てを終えた御剣は今、微睡みの中に居る。
 微睡みの中に居ながら、俺じゃない誰かの名前を呼ぶ。


 「みつるぎ……」


 ……夢でまで名前を呼ぶ、その人は一体誰なんだ。
 俺は……その人の、代わりなのかな……。

 様々な思いが、俺の頭をぐちゃぐちゃにする。
 だから俺は考えるのをやめた。

 俺が考えても答えなんか出るとは思わなかったし、何より俺はもうそんな事、どうでも良くなっちゃうくらいこの人の事が好きなのだから。

 だから……。


 「いいよ、ミツルギ」


 眠っている御剣の瞼に俺は軽くキスをする。

 御剣の心の中に誰が居たって構わない。
 例え御剣がその人を忘れる為に俺を選んでいたとしても、それだって別にいい。

 ただ、今傍に御剣が居てくれるなら、俺はそれで幸せだし。
 その人がどんな男であっても、いつか俺がその男よりずっと立派なヤツになれば、きっと御剣だって喜んでくれるだろうから……。

 だから俺は何も言わず、無言のまま彼の頬に触れる。

 こんな夜がずっと、ずっと続くように祈りながら。
 まだ見ぬスーツの男に、形容しがたい思いを抱いたまま、夜は静かに過ぎていた。






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