>> 聖邪の交錯






 グラスの倒れた鈍い音の後、あたり一面に紅の雫が零れた。


 「あ、ごめん。みつるぎ検事、大丈夫かっ!?」


 一柳が肘で小突いたグラスは幸い割れずに済んだ為、怪我などは一切ない。
 だがグラスにはまだ半分ほど液体に満たされていたので、純白のテーブルクロスはみるみるうちに赤く染まり、御剣の手は冷たく濡れていった。


 「うム……大丈夫だ、問題ない」


 ただすっかり濡れたこの手では食事は続けられまい。
 ナフキンを取る為に立ち上がろうとする、その前に一柳がハンドタオルを取り出した。


 「ホントに、ゴメンな。御剣、あの、これ……」


 申し訳なさそうに差し出す一柳の顔には、今にも泣き出しそうな表情が張り付いている。
 これを受け取れば、ただそれだけでこの不安そうな表情を笑顔に変える事が出来るのだろう。


 「いや……」


 だが今は笑顔よりもう少し、この怯えた表情を楽しんでいたいから。
 御剣は自らの指を彼の鼻先へと差し出すと、冷たい声でこう告げた。


 「……舐めろ。この指先に、掌にまとわりついた汚らしい液体をその舌で舐り、拭って綺麗にするんだ……出来るな、イチヤナギ君?」
 「えっ。 ……えぇっ?」

 「……出来るな?」
 「ちょっ。何言ってるんだよ、御剣。オレっ……」


 突然の提案に躊躇い、戸惑う一柳だったがその視線でこれが避けられぬ要求……要望や願望ではなく命令なのだという事を悟ったのだろう。
 一度、小さく頷くと震える舌を差し出した。


 「……しゃぶるんだ、丁重にな」
 「あ。う、うん……」


 震える手で御剣の、その白い指に触れる。


 「……御剣のって……あったかいな。オレのより、おっきいしっ」
 「……ご託は今は必要無いぞ、イチヤナギ君。さぁ……始めたまえ」

 「う、うん……」


 震える舌は指先を、その温もりと反応を確かめるように恐る恐る舐る。

 ちゅ、ぱ……。
 ……ちゅぱっ。

 淫猥な音をたて、一柳は指のその先端を……まるでアイスキャンディでも舐るように、口に含んでは舐め、吸い込むように舐る。

 最初は、遠慮がちに一本の指を。
 だが次第に二本、三本とその指をくわえては、舌を絡めてなめ回す……。


 「ふム……」


 一柳は命ざれるままに、彼の手に舌を這わせ……時にその指を喉もと奥まで深くくわえ込み、彼の指先を口の中全てで慰めようとする。


 「ふぁっ……ぁ、御剣検事ィ……ぁの。これで、いい……かなぁ、オレ……」


 三本の指を口中にしっかりとくわえ込み、上目遣いで問いかける。
 その視線は強い怯えの色が見てとれる……。

 そんな目で見なくても、自分は別に彼の嫌がるような結末を準備するつもるはないのだが。
 見捨てられる恐怖を間近で感じた一柳は、まだその恐怖心を完全には克服出来てはいないのだろう。

 御剣の一挙手一投足、その感情にこうして怯えを見せる事がある。
 捨てられるのが怖いのだろう。

 そんな目をせずとも、そんな表情を見せずとも、彼の心配するような事はしないのに。
 だがその表情を見ていると、心の中に沸々と沸き上がるのは庇護より強い征服感だった。

 この表情をもう少し見たい。
 怯える顔でただ自分を求める一柳の姿を、この目に刻みつけたい。

 本来は彼を庇護し、その心を護ってやらなければならない立場なのだが……。


 (いけないな、私は……)


 愛しいと思う。
 慈しみたいと思う。

 だからそれと同時に彼の、歪んだ表情を見たいと思う……。

 結局はそう、何処か甘えているのだろう。
 彼ならば何を言っても自分を愛そうとする……その心にどこか、寄りかかっているのだ。


 「イチヤナギ君」


 掌に舌を滑らせる彼に、言葉をかける。


 「何だよっ……御剣。オレ……ちゃんと出来てるだろ? 上手にしゃぶれてるよ、な……?」
 「……あぁ、だが」


 指先にはもう、濡れた雫の痕跡はない。
 すっかり綺麗になった指先をもまだ、彼は舐り続けているのだろう。
 恐らく、御剣が「もういい」というその時まで。


 「……何故そこまでするのだ、キミは」
 「えっ?」

 「……もう充分だと思わなかったのか?」


 不意に問いかけられ、一柳は暫く驚いたように目を見開いていた。
 だがやがて、照れたように笑って見せた。


 「そりゃ、そのっ……そうかなぁとは思ったよ。けどっ……御剣が、喜んでくれるのかなぁって……そう思ってたから……だからオレ、別にイヤだとかそういうのじゃなかったんだ」


 そう語る一柳の顔に、おびえの色はもう見えず、ただ幸福そうな笑顔だけが広がる。

 あぁそうか、彼が怯えているのはそうだ。
 自分が見捨てられる事ではなく、御剣が幸福ではなくなる事……..。


 「……全く、キミという男は」


 実に子供っぽく、馬鹿げた発想だとは思う。
 一途なまでに思いに捕らわれるのもまた、不自由な事だろう。

 だが、今はそんな彼がたまらなく愛おしい。
 愚直なまでに思いをただ一心に貫こうとする彼の行動が、笑顔が、その全てが。


 「実に馬鹿だな」


 素直な言葉が心から漏れる。


 「何だよっ、ちょ……自分でやれっていった癖に! 何でやるとそんな、馬鹿とかいうんだよ。御剣、お前、オレを子供だからって馬鹿にしてるだ……」
 「だが、今はキミのその馬鹿さ加減が、私は羨ましいよ」


 そしてそう語ると、一柳の手を取り身体を抱きしめた。


 「え。えっと、オレ、あれ……あれ、オレの事馬鹿にしてるのか。御剣。それとも、あれ、オレ、誉められてる?」


 御剣に抱かれながらも言葉の真意に翻弄され、一柳はただ目を瞬かせている。
 本心から馬鹿だと見下している相手を胸に抱ける程、器用な人間ではないつもりだが……そんな事を思いながら、彼は一柳の制服、そのボタンに指をかけた。


 「あ! あっ、御剣。オレっ……」
 「……いいだろう。キミは私に充分、奉仕をしてくれた……貰いすぎた分、キミの身体に返さないとな」

 「え。でも……」
 「いいだろう、させてくれ……キミが私にしたいように。私も、キミにしてやりたいんだからな」


 人の言葉に翻弄されがちな一柳も、その言葉の真意を理解できぬ程鈍感ではなかったのだろう。
 顔を赤くし頷くと。


 「あ。そのっ……オレ……うん、うんっ……」


 幾度も頷きそのまま彼の、胸の中へ顔を埋める。
 御剣は彼の白手袋、その指先を噛み唇で外すと、静かに彼へと微笑んだ。

 今宵の彼の幸福を、唇で約束して。






 <深く考えたら負けだな。 (戻るよ)>