>> フォックス・ハント
緊急事態なの、スカイハイ。
聞き慣れたアニエスの声が隣で響く。
緊急事態なの。大変な事が起こった。貴方じゃないと出来ない仕事よ……。
彼女は繰り返しそう告げるが、実際に何が起こったかは全く説明する気がないらしく、口を真一文字に結んだまま、ただ黙々と歩き続けていた。
「一体何が起こったのか、そろそろ説明してくれないか?」
痺れをきらしたキース・グッドマン……。
普段は「スカイハイ」と呼ばれている青年は、思い切って自分から切り出してみる。
だが彼女は相変わらず不機嫌そうな表情のまま(最も、彼女が機嫌よく笑うのは視聴率が良い時だけだが)で、視線を廊下の先に向けた。
「緊急事態は緊急事態よ……見ればわかるから、とにかく来て!」
促されるまま案内されたのは、男性用の更衣室だった。
「ココよ」
「ここ……ここは普段使っている、ただの更衣室……」
「男子更衣室なんてむさ苦しい場所に、女性である私が入る訳にはいかないでしょ? いいからサッサと彼を説得して、引きずり出してきて」
「いや、だから話が……それに、彼というのは……?」
「いいから行って、貴方はキングでしょ!?」
訳のわからない論理を押しつけられ、半ば強引に背中を押されながら更衣室へと立ち入った。
室内には、普段とかわった形跡はない。
だが、流れる空気に伝わる吐息は、この場にいるもう一人の誰かの存在を明確に語っていた。
「……誰か居るのかね。居るなら出てくるんだ、私はキミに何もしない……キミに敵意がないのであれば、私はキミの安全を保障しよう!」
忠告のつもりでかけた声に、室内に潜む「誰か」は激しく困惑したように、さらに奥へと隠れ潜む。
風を操る彼の能力は、見えない相手の動きも僅かだが察する事が出来た。
「……逃げないで出てきてくれ! 頼む。私は、決して嘘はつかない。そう、嘘などつかない!」
見えざる誰かにさらにそう告げると、潜む「誰か」も幾分か落ち着いたのだろう。
物陰に潜みながらも逃げるのを止めたのか、遠ざかるような足音は消える。
「スカイハイ……さん」
ややあって、辿々しく呟かれた声は、確かに聞き覚えがあるものだった。
「キミは……折紙くん。折紙クンか!」
「はい……ボクです。あの、ごめんなさい……今回は、貴方ほどの方の、お手を患わせて……」
「物陰に潜んでいないで、出てきてはくれないか? これではキミの姿が……」
「出てくる事なんて出来ません!」
姿を見せてほしい。
簡単であるはずの要求に、折紙は激しい拒絶を見せる。
それはかつて、ヒーローとしての自信を抱く事が出来ずにいた彼が、孤独を抱いていた時の声にも似ていた。
「……何があったんだ。とにかく、話だけでも」
「アニエスさんには……何も聞いていないんですか?」
「彼女からは、キミを連れ出すように言われているだけだ……一体、何があったんだ?」
キースは彼に声をかけながら、折紙の声をたよりにして彼の元へと急ぐ。
声はもうすぐ傍らにと迫っていた。
「……NEXTに、不覚をとってしまいました」
「NEXTに? ……何処かで出会ってしまったんだな……何か、されたんだな?」
「はい……人の身体に変異をおこさせるNEXTだったらしく……耳と、手足を、まるで……まるで怪物のように変貌させられて、しまい……ました」
折紙の声がもう、ロッカー一つ隔てた所にまで迫る。
彼は逃げる気配がなかった、だがキースもまた無理に彼の元へと赴こうとしなかった。
化け物のような姿にされた……彼は確かにそう言った。
異形に変貌した姿を見られたくない気持ち。
キースは鈍感な気質があり、また天然な性質も持ち合わせてはいたが、少年の気持ちを推し量る事が出来ない程に痛みを知らぬ男ではなかった。
「ボクは……こんな、獣のような恐ろしい姿……貴方に、晒す訳にはいきません。仮にもヒーローであるボクが、貴方に……」
声が震えているのがわかる。
人の希望であるヒーローが、人を怯えさせる獣に変貌した……その屈辱が、元来劣等感の強い彼の心を深く傷つけているのだろう。
「……姿を、見せてくれないか。折紙くん? どんな姿であっても私は……」
「無理ですよ、スカイハイさん。ボクは……ボクは、こんな化け物みたいな姿なんですよ! ヒーローなのに獣になりさがって……こんな、情けない姿、貴方に! 貴方にだけは見られたくないんです、ボクは……ただでも駄目なヒーローなのに、さらに情けない所、貴方には……」
「折紙くん……」
「情けないヒーローで、ごめん……ごめん、なさい……」
ふるえる彼の言葉はただ、深い悲しみと痛みに満ちていた。
「イワンくん!」
だからキースは、彼の名前を呼ぶ。
ヒーローであり仲間である折紙サイクロンを助けるのではなく、今は、イワン・カレリンという一人の人間、その心を救ってやりたかった。
「出てきてくれ、イワンくん……私は、キミがどんな姿をしても恐れる事はないと、約束しよう。そして約束しよう!」
「でも……スカイハイ、さん……」
「今はヒーローの折紙サイクロンではなく、イワン・カレリンという一人の人間として……私を、頼ってくれないか?」
ロッカーを隔てた先で、少年が吐息を飲むその息づかいが伝わる。
「……人の心を救うのが、ヒーローの勤めだ。イワンくん。キミが困っているのなら……私は、喜んでキミのヒーローになろう。ヒーローとして、折紙サイクロンとしてキミが誰かを救うのは……キミが救われてからでも、遅くはないのではないか?」
「スカイハイ、さん……」
「……約束しよう、そして約束しよう。私は、キミを恐れる事も。軽蔑する事もないさ」
全てを語った後、暫くの沈黙が室内に訪れる。
伝えるべき言葉は、全てイワンに伝えたつもりだ。
それでもまだ彼がそこに留まるというのであれば、彼の心を悪戯に刺激して無理矢理引きずり出すのはヒーローのすべき仕事ではない。
アニエスには悪いがここは一度、諦めて出なおそう……。
振り返り更衣室を後にしようとしたその時。
「スカイハイさん、待って下さい!」
イワン少年はその姿をようやく、キースの前へと晒した。
「スカイハイさん、ボク……」
おずおずと姿を現したイワンは、彼の言う通り確かに異形へと変貌していた。
その変貌は彼の耳に、おおよそ人とは思えぬ尖った獣の耳が鎮座している事でもわかる。
いや、耳だけではない。
その腕も、足も、関節より先がまるでイヌ科に属する獣のような形へと変貌し、背面からはモップのように。だがモップより遙かに柔らそうな毛に覆われた尻尾が伸びていた。
「……すいません、ボクは、こんな姿になってしまいました」
ピンと伸びた耳は、絶えず周囲の音を探るように動いている。
太陽、あるいは収穫直前の小麦のように色づいた尖った耳に、四足獣のような手足。
粟の房を思わす大きな尻尾からすると、どうやら彼の身体その一部がちょうど狐のように変貌しているようだ。
整った少年の顔立ちに現れた獣の身体は、当人であるイワンにとって恐ろしくそしておぞましいものだったろう。
だが。
「イワンくん…………モフモフだ、そして……モフモフだな!」
「えっ?」
「是非触らせてくれ、さらに! 触らせてくれっ!」
「え、ちょ、ちょっとまってください、スカイハイさん。スカイハイさぁん!?」
全くの他者にとってみれば、その姿は異形で恐ろしいというより、可愛く愛らしいと形容される姿にほど近いのであった。
「肉球まである、そして、肉球まであるっ!」
「ちょ、やめてくださ、スカイハイさ……」
「尻尾までモフモフだな、さらにモフモフだなっ!」
そしてキース・グッドマンという男は、あらゆる動物と友達になれると思っている部類の人間である。
動物たちの柔らかくふわりとした手触りの毛並みをこよなく愛する彼にとって、今のイワンがもつ尖った耳は愛玩対象以外の何ものでもなかった。
少年の手を取り、本来はないはずの肉球に、鼻先をこすりつけるようなで回すのは彼が普段、自身の愛犬に見せる愛情表現の一つだろう。
だが、劣等感を抱き人と距離をおきたがる少年にとっては、少々手厚すぎる歓迎だった。
「やめてくださっ……スカイハイさん。あの、こんなの……ボクっ、恥ずかしい……」
「いいじゃないか! 今のキミは愛らしい、そして愛らしい!」
「愛らしいって……そんな、ボク。そんな事言われても……困ります……」
「何をいっている、もっと自信を持ちたまえイワンくん、キミは愛くるしい、そして愛くるしいよ!」
「誉め言葉じゃないですよ、それっ……」
「それに」
キースは少年の腕をとると、過剰な抱擁から逃れようと身を捩る彼の身体を背後から抱きしめる。
「……イワンくん。キミは、どんな姿をしていてもやはりイワン君だ。愛しく、そして愛おしいイワン君だよ」
彼の言葉が、優しく耳を撫でる。
とろける程に甘く優しい声で、深く慈しむように……。
「キースさ……」
イワンが、ヒーローではない彼の、男としての名を呼ぶ時、まるでその言葉に答えるように優しく耳を噛む。
狐のように尖った耳、その先端にある温もりまで確かめるよう優しく舐るその唇から出る言葉はいつもとろける程に甘く優しくて。
少年の細い身体を抱くその腕は強く、だが暖かく心地よいから。
「キースさん……」
知らない間に願ってしまう。
彼がヒーローではなく男として、傍らに居てくれる事を……。
その時、彼の身体に異変がおきる。
それまでまるで獣のように変貌していた腕からは毛が抜け落ちて消え、それまで背後を支配していた巨大な尻尾も見る間に縮んでいく。
誰か他のヒーローが、自らの姿を変貌させたNEXTを無力化したのだろう……。
「あ、キースさ……スカイハイさん、ボク……戻りました。戻れましたよ、姿が……って、キースさん!?」
元の姿に戻れた。
その事実を伝えるが、彼は全くそれに気付いた様子を見せないまま、ただ耳を甘く噛み続けている。
……イワンの耳が、狐の時とそれほど変わらぬ柔らかさと暖かさをもっていた為、気付いていないのかもしれないが。
「ちょ、やめてくださっ、キースさん、ボクっ……あの、ボク、もう戻ってるんですけ……」
「ちょっと、折紙一人を連れ出すのに何時までかかっているのよ、スカイハイ!」
激しい叫びとともにアニエスが、更衣室へと乱入してくる。
「女性である私がこんな所へ……」と入るのを渋っていたのだが、元よりあまり我慢のきかない性格だ。
あまりに長く戻らないスカイハイに、待つのも限界だったのだろう。
そんな彼女の目に最初に飛び込んできた映像は、イワンの細い身体を抱きその耳を舐るキースの姿だった。
「あ、あ、アニエスさん……!?」
イワンの声は震えるが、キースはそれに全く気付く様子もなく相変わらず耳を舐り続ける。
敏腕美人プロデューサーの腕がふるえ、その顔が怒りに変わるのにさしたる時間は必要なかった。
「何やってるの貴方たちはぁぁぁぁ、そんな事までしろとは言ってないでしょうッ!」
怒号が、フロア全体を包み込む。
その叫びがキースに、イワンがすでに元の姿に戻っている事実を伝えはしたが……。
怒りに満ちたアニエスを平常心に戻すまでには、たっぷりの謝罪と時間、そしてとびきりのご馳走が必要となるのだった。