>> 鼻孔、燻る。
一仕事終え、帰宅した御剣を出迎えたのは、脱ぎ捨てられた見覚えのある靴だった。
廊下にはベルトが、ズボンが、靴下が、そして、いつか見た深紅のブレザーが、リビングに向かう道なりに点々と脱ぎ捨てられている。
御剣の知り合いの中で、衣服を脱ぎ散らかしても平然としていられるような人物は一人しか思い当たらない。
「……何だ、イチヤナギ君が来ているのか」
脱ぎ散らかされた衣類を一つずつ、たどるように拾いながらリビングへと向かえば、脱ぎ散らかされた学生服の先に、ソファで寝息をたてる少年の姿があった。
下着まで部屋に脱ぎ捨てソファで眠る彼は今、ただ一枚のワイシャツと手袋のみという無防備な姿である。
ソファの前に置かれたテーブルには、法律に関係する本が幾つか積み上げられているが、その殆どが読まれた形跡はない。
勉強する以前に疲れて眠くなったか、本を読み始めたら眠くなったか……。
どちらにしても今、眠っているという事はさして勉強にはならなかったという事だろう。
「全く、仕方ない男だな……勉強に励む以前に、服くらい着替えてからにすればいいものを」
一柳の靴をなおし、靴下や下着を拾い洗濯機へ放り込み。
ブレザーや学生服を拾ってハンガーにかけてから、最後に落ちていたワイシャツを畳む。
「ん、ワイシャツが……ここにも、ある、だと?」
御剣は床に脱ぎ散らかされた衣類の一つ、ワイシャツを改めて確認する。
今、自分の手元には一枚のワイシャツがある。
だが、一柳はワイシャツを羽織っている……。
どういう事だと不思議に思い、改めて一柳を眺めてみれば、シャツは肩幅も腕回りもまったくあっておらず、随分と大きく見える。
「ん……これは、私のシャツではないか……」
一歩近くに寄り、シャツのボタンを確認すればそれは普段から御剣が愛用している、オーダーメイドのワイシャツだ。
しかもこれは、一度自分が着て洗濯に出したものだろう。
襟首や袖口の汚れやシワが、それを物語っていた。
クリーニングに出そうと置いておいたものだが、何処からか引きずり出してきたのだろう。
だが何故一柳が、まだ洗ってない自分のシャツを着ているのだろうか……。
考えるより本人に直接聞いた方が早いだろう。
そう思った御剣は、ソファで眠る少年を軽く揺り起こそうとする。
「起きたまえ、イチヤナギ君」
「ふぁ……んぁー、ダメダメダメ、そんなゆすったらオレぇー」
「……寝ぼけてないで起きたまえ!」
起きる気配を見せないので、軽く額を一度弾いてやれば、さしもの一柳も夢から覚めたのだろう。
「いたたっ!」 と小さく声をあげ、目を擦りながら起き上がった。
「いってー、何するんだよ、みつるぎぃ……ちょっと、いい夢見てたのに……」
「何をするんだ、はこちらの台詞だぞイチヤナギ君……キミは一体、何をしているのかね?」
「何をしているって、オレ……」
一柳はソファであぐらをかくと、寝ぼけ眼で御剣を見る。
「何してるってオレ、今日はホーリツで解らない所を教えれもらおうと思って、御剣の家にきて、でも御剣がいなかったからとりあえず勉強の本を置いて……制服だと窮屈だから、着替えようと思って、それで、それで……」
そこまで語ると一柳は、不意に口ごもる。
眠りにつく以前の自分が、御剣に無断でそのシャツを引きずり出しているという事。
それが悪い事であるのを、思い出したのだろう。
「それで……何で私のワイシャツを着ているのだね、キミは?」
「えっ。あ、これは……」
「私のワイシャツ……しかもクリーニングに出す前のシャツを、どうしてキミが着ているのかね?」
「え、あ。どど、どうしてって、それは、えっと……そ、そうだ! ほら、御剣の服を着たら、オレも御剣みたいに頭よくなるかなーって思って。それで、ちょっと借りただけだ、よ」
落ち着きなく手を動かし、視線を泳がせる一柳の態度は、嘘が解りすぎてかえって辛いくらいだった。
上擦った声色は、明かな動揺が伺える。
「……それは、本当かね。イチヤナギ君」
鋭い視線を彼に向け、諭すように語る御剣の声で、自らの嘘がもう露見しているのを漠然と悟ったのだろう。
一柳は諦めたように首を振ると、躊躇いがちに口を開いた。
「ゴメン、みつるぎ……俺、嘘つきました」
「……そうか。それなら、改めて聞こう。キミは何故、私のワイシャツを着ているのかね?」
「……こうしていると、みつるぎが、ギュって抱きしめてくれるような気がしたから」
「なん、だ……と?」
「だから、これ着てると御剣にギュっとしてもらえるように、そう思ったからだよ! 何だよ、悪いかよ! ……だってこの服、御剣の匂いがいっぱいするんだから仕方ないだろっ! オレ……オレ……」
自らの身体を抱くようにワイシャツを抱く少年の頬が赤く染まる。
「みつるぎに、ギュってしてほしいんだよォ……オレぇ、御剣にギュって……ダッコして、欲しいんだよ……」
羞恥か、それとも寂しさからか、一柳の目に涙が光る。
よく泣く男だと思う。
子供のままでいる裸の気持ちをそのまま、隠さずぶつける姿は恥ずかしく思う事もある。
だが。
「……イチヤナギ君」
少年の身体、全てを包むよう彼の身体を抱きしめる。
「……あ、みつる、ぎ?」
一柳の甘い、シャンプーのかおりが御剣の鼻孔を擽った。
きっと、少年も望んでいる香りに包まれているのだろう。
「私のワイシャツなど引っ張りださなくとも、キミは一言言えばいいのだ。抱きしめてくれ、と。そうすれば、私は何時だって……」
「でも、でも……御剣、忙しそうだし、それにおれ……」
「確かに私は多忙である。だが、キミを抱きしめる時間を作れない程ではないのだよ」
抱きしめた少年の耳を、唇で優しく慰める。
「……私も、キミのにおいに満たされる事を望んでいるのだからな」
「あ……みつるぎ……」
視線が重なり、言葉を紡ぐのも億劫なように、互いを求めて混じり合う。
部屋は、幸福なかおりに包まれていた。