>> からっぽの夜に






 その夜。
 もう眠りにつこうかという時刻に、突然彼は現れた。


 「なぁ、いるんだろ御剣検事ぃ。な、開けてくれよ、開けてくれってばぁ!」


 周囲の迷惑顧みず、玄関の扉を叩きながら騒ぎ立てる男が誰だかは、顔を見ずにも声でわかる。

 一柳弓彦……。
 御剣からすれば後輩にあたる検事であり、以前とある事件で激論を交わした相手でもある。

 その時より、まだ年若いからか周囲の空気を読むのが苦手な少年だとは思っていたが……。
 もう夜もいい時分だという感覚は、彼にはないのだろう。

 常識を弁える、という感覚をまだ持ち得ていない一柳にとって、夜分にがなり立てながらドアを叩くという行動にさしたる不自然さはないのだ。

 迎え入れた所で厄介事ばかり運んでくるような予感はしたが、このままでは近隣に迷惑にもなるだろう。
 それに、まだ少年と呼ぶべき年齢の彼をこんな夜中に一人、外に出しておく訳にもいくまい。

 仕方なく扉を開ければ、荷物を抱えた一柳が部屋の中へとなだれ込んで来た。


 「ふぁぁ。春とはいえまだ夜とか寒っ……あ、御剣検事。お邪魔します!」


 御剣を見るなりペコリと一礼するその態度は、始めて会った時と比べれば随分と礼儀正しく、多少は成長してきたのだとも言えるだろう。

 だが、お世辞にも今は、客が来訪する時間に相応しいと思えない。
 時刻は間もなく、日付が変わろうとしていた。


 「……まだ未成年のキミがこんな夜分に人の家を訪ねるとは、感心出来んな」


 それに、と呟き御剣は一柳がかかえるスポーツバッグに目をやる。
 パンパンに膨らんだそれは、その荷物の量を容易に推測させた。

 ……まさか、泊まっていくつもりなのだろうか。


 「あっ、ゴメン。夜に未成年が出歩いちゃダメだ。ってのは、一応さ……解ってんだよ! でも、オレ。その……何ていうんだろうな。そう。勉強! 御剣検事に、立派な検事になる為の勉強! 教えてほしくてさ。オレ、急にそれ思いついて。だから。それで……」


 しどろもどろの説明からして、いかにも、今考えて誂えた嘘といった印象だ。
 荷物を抱えて飛び出してきた理由は別にあるのだろう。

 だが、自ら「勉強したい」と言うのなら、でっち上げの嘘にしては殊勝な心がけだ。
 こちらとしても無下に扱う訳にはいかなくなるだろう。

 それに、法に携わる自分がこんな夜中に、まだ少年と呼ばれる年齢の彼を放り出す訳にもいくまい。


 「……まぁいい。靴を脱いで上がりたまえ」
 「えっ!? い、いいのか。オレ……」

 「未成年のキミをこんな夜中に叩き出す訳にもいくまい……上がりたまえ」
 「あ……うん! うんっ、あの……ありがとう、御剣検事! うわー、俺、御剣検事の家はじめてだ……!」


 御剣が許すや否や靴を脱ぎ捨てると、興奮した様子で一部屋ずつ、確認するように見てまわる。
 自身も豪邸と呼んでいい家に暮らしているはずなのに、部屋をあける度に歓声をあげ、また次の部屋をあけると喜び声をあげ……そのまま、全ての部屋を確認する。

 何をしているのだろうな。
 疑問に思いながらリビングにて紅茶をすすれば、一柳はそこに入るなり嬉しそうに声をあげた。


 「な、御剣検事ぃ。これだけ部屋があれば……一部屋くらい、オレが居ても問題ないよな。な!」


 予想していなかった突然の提案に、飲んだ紅茶を吹き出しかける。

 持ってきた荷物がやたらと多いとは思っていた。
 だが、本気で住み着こうと思っていたとは……流石の御剣も想定外である。


 「待ちたまえイチヤナギくん! 確かに使ってない部屋があるのは事実だ。だが、別にキミが住み着いていい部屋があいている訳ではないぞ……」
 「え、何それ……どういう意味だよ?」

 「つまり、私の家にキミを泊めるスペースはない。という事だ」


 このまま、黙っていたら本当に一柳はこの家に住み着きかねない。
 ここは一つ、しっかり言い聞かせておかなければ……。

 その思いでやや痛烈な一言を、法廷であるかのように勢いよく突きつければ、少々頭部分において血の巡りが悪い一柳検事にも何とか通じたのだろう。
 涙目になって唇を噛むと、恨めしそうに御剣を見る。


 「そんな、そんな……いいだろ、一部屋くらい。ケチッ!」
 「全うな理由もないのに、未成年を家に置く程、私も心は広くないのでね……」

 「全うな理由、あるだろ。ほら、えっと……だって、御剣検事いっただろ! オレが、検事としてべんきょーする気があるなら……道をシメシてくれるって!」

 「確かに言ったが、宿を提供するとまでは言ってない」
 「えぇー……」

 「とにかく、今日はこんな時間だ、無理に帰れとはいわないが……明日にはその大荷物をまとめて、出ていってくれ」


 御剣の言葉に、彼はがっくり項垂れると「はぁーい」と力無い返事をした。
 落ち込んだのか、その目には僅かに涙も光る……少々罪悪感を覚えたのは事実だが、一柳は帰る家がある男だ。

 追い出して路頭に迷う、という事はないだろう。


 「……客室はここだ。今日はキミが好きに使え。早く寝て明日に備えるがいい」


 とにかく寝かせて、明日には家に帰ってもらおう。
 その算段で部屋をあけるが、一柳はその部屋に素直に入ろうとせず、荷物をかかえたまま笑った。


 「いや、いいや。その、綺麗なベッドを汚すと悪いだろ。普段、御剣検事が使ってるベッドの端っことか、貸してくれればいいから!」
 「私のベッドの………………端?」


 日本語なのに、俄に理解が出来ない。
 それは、つまり……。


 「な、何を考えているんだイチヤナギくんっ! キミは……」


 ベッドの端を借りる。
 というがそれは即ち同じベッドで寝るという事だ。

 一柳のトンデモ発言は害のない時は聞き流すのが丁度良いのだが、流石にこれは聞き捨てならない。


 「何考えてるって……アレ。オレ、何かヘンな事……言った?」


 だが、当の一柳本人はとぼけたモノである。


 「オレ、御剣検事と比べれば身体もそんなに大きくねーし……邪魔には、ならないと思うけど?」
 「いや、邪魔とかではなくだな……」

 「あ! でも、確かに御剣検事は背も、身体も大きいから……このベッドじゃ、オレの入るスペースがないかもな!」


 スペースの問題ではないのだが……。
 いや、案外一柳は本当に 「同じベッドで二人きりで寝る」 事の意味を理解してないのかもしれない。

 年頃のはずだが……。

 父の背中を追うのに懸命で、彼には別の知識を得る機会が少なかったのだろうか。
 あるいは単純に、御剣の世代と彼の世代ではそういった考えそのものも、違うだけかもしれない。

 様々な憶測にてロジックを組み立てているうちに。


 「へっへー、ふかふかー!」


 パジャマに着替えた一柳は顔いっぱいに笑顔をつくると、ベッドの上に身を投げ出した。


 「こ、コラっ。何をしているんだイチヤナギくんっ!」
 「あ。ゴメン……ベッドの上で飛び跳ねたりしたら、ホコリとか舞って汚いよな! わかった、オレもうやらないから」

 「そうじゃなく……」
 「でも、御剣検事のベッドは広くてやーらかいな! まくらもベッドも、オレのよりふかふかだよ!」


 御剣の気も知らず、彼は暢気に笑っている。
 やはり、ベッドに潜り込んだ事に深い意味はないらしい。

 とはいえ、相手が全く気にしてなくてもコッチは気になるというものだ。
 今日はベッドでなく、ソファで寝よう。

 御剣は密かにそう覚悟を決め、机に向かって本を開く。

 あの一柳の性格だ。
 自分が起きているうちにソファで寝ようとすれば 「何でベッドで寝ないんだよ御剣検事! ほら、開いてるぞオレのとなり。ほら、ほらー!」 等と宣いベッドに引きずりこもうとするだろう。

 悪意はないのだろうが、それがかえってタチが悪い。
 だから一柳が眠るまで、本を読んで時間を潰す事をきめた御剣を、一柳は物珍しそうに眺めていた。


 「おいッ。御剣検事、何読んでるんだよ。まんが?」
 「いや……司法関連の本だ。星影宇宙ノ介が書いた……」

 「おおッ!」
 「……知っていたか?」

 「いや、全然」


 知らないなら派手なリアクションをとらないで欲しいモノではあるが……。
 呆れながらも、これが彼のペースなのだろうと納得し、さらに本を読み勧める。


 「……やっぱり。凄ぇんだな。御剣検事はさ」


 本を読む、その横顔を一柳は熱心に眺めている。


 「夜、遅くまで本とか……読んで……頭も、オレなんかよりずっといいし……」
 「……キミも、自らのなりたい検事になるべく、勉強を詰んでるのではないかね?」

 「オレなんて……まだ、まだで……毎日、調書を読んで証拠を……そういうの、理解するので手一杯だから……勉強、しないとダメなのに……」


 御剣の脳裏に、まだ検事になったばかりの自身が重なる。

 自分も検事になりたての頃は毎日、有罪判決をもぎ取る為に調書を見て証拠を見直し……。
 そういう事で手一杯で、家に帰れば倒れて眠るという日々が続いたか。

 ……一柳もきっと、同じよう毎日がむしゃらに生きているのだろう。


 「……法廷が控えているのなら仕方あるまい。仕事が一段落したら、私がキミの勉強とやらを見てやろう。本も、見繕っていい」
 「うん……みつる……ぎ、検事……あり、が……」


 声が随分、とぎれとぎれに聞こえる。
 ようやく、夢の世界へ向かおうというのだろう……。

 穏やかな会話が、静かな吐息にかわろうとしている。


 「……本当は」


 その時、寝言とは思えぬ程にはっきりとした語調が、一柳の口から零れた。


 「本当は……一人で、居るのが……オレ、怖くて……」


 寝言とも本音とも取れぬ、曖昧な口調だ。
 だが……必死の訴えだ。


 「……家に、帰って。疲れて……飯くって、ベッドに倒れて……そのまま、眠れると思った……けど。オレ……夜、部屋が凄く静かで。もう、オレ、オレの家には誰もいなくて。何もなくて……でも、オヤジの思い出だけがいっぱいあるから……オレ、オレ……」


 声が震える。


 「オレ、一人ぼっちだと思うと怖くてさ……誰かに傍にいて欲しくて。でも、もうオレの家にはオヤジも。母さんも……オレには何にもなくてさぁ! あぁオレ、捨てられたんだって思ってさ。もうオレここで待ってても誰も来ないしなんにもないと思うと、オレ、オレっ……」


 よく泣く男の目からまた、涙が零れる。


 「オレ、一人ぼっちでどうしていいかわかんなくて……どうしたらいい。どうすればいいって、考えても……オレ、バカだから……ホントにわかんなくて……だから、御剣検事ならって……」


 心の震えが、触れずとも伝わり、頬に流れた涙が淡いライトにあたり輝いていた。


 「………………ごめん。御剣検事。おれ、バカだからよくわかんなくて……アンタに、また、迷惑かけて……朝になったら、帰るから。おれ、あのからっぽの家に帰るから……」


 一柳が眠るベッド、その傍らに腰掛け、不安に震える髪に触れる。


 「イチヤナギくん……」


 ごめん。ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……。
 半ば微睡みのなかにある一柳の唇は、幾度も謝罪の言葉を紡ぐ。

 優秀な父に誉められたい。
 ただその一心で、自分なりに足掻いてきた一柳だが……その思いが届く事は、とうとう無かったのだろう。

 何時しか彼は父に謝罪する事ばかりを覚え、それは夜になると彼の口からしみ出して来た。
 父に許してほしくて、認めてほしくて。ただその一心で、祈るような思いで……。

 御剣の手が、自然と彼の髪に触れる。
 指先は少年の身体が小刻みにふるえている事を伝え、その心に抱いた孤独が驚く程に深い事を悟らせた。


 「イチヤナギくん、もう。もう、いい……大丈夫だ……」


 無意識にその腕が、少年の身体を抱く。
 普段、快活に見えた一柳の身体が今日はいつもよりか細く、折れそうな程に脆く見えたから。


 「……謝るな。キミは、何も悪くない、イチヤナギくん」
 「御剣検事……みつるぎ、さん……」

 「……自らのあり方が解らず、孤独に苛まれているというのなら、私を頼ってくれていい。毎夜ではないが、一時でも。こうしてキミの傍に居てやろう。虚空の家に無理して、居る必要はないようにな」


 だから強く彼を抱く。
 孤独な少年の心を癒す為に、孤独である心を埋める為に。


 「それでもキミがからっぽの闇が怖くてただそう、謝り続けるのであれば。私が今日は、こうしていよう。キミがあやまらなくてもいいように……」


 優しい言葉と暖かな身体が、少年の深く暗い闇を埋める。


 「……ありがと。みつるぎ検事。ありが、と……」


 一柳は静かに、その身体を抱くとそのまま微睡みに身を任せる。
 その顔からはからっぽの闇に怯える表情は消え、穏やかな笑顔が浮かんでいた。






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