>> 302号室の怪






 事故物件ときけば、大概の輩は毛嫌いするだろう。

 自殺、事故、殺人、失踪。
 前の住人がちょいと物騒な消え方をすれば、次の借り手がつかなくなる事も珍しくはない。

 その部屋には怪異が。
 例えば触れてないのにテレビが勝手につくとか、コップが勝手に動くとか、目を閉じるといないはずの子供の笑い声が聞こえるとか。
 そんな不可思議な事がおこると、よく言われているからだ。

 だがそんなつかみ所のない幻想。
 信じてさえいなければ、恐れるに足りない。

 むしろそういった物件は、いわくがあるだけ借りてがつかず、立地や部屋の間取りと比べ安く借り上げる事が出来る。
 サウスアッシュフィールドハイツの302号室も、そういった物件だった。

 先代の名前は。ハリー……いや、ヘンリーだったか。
 とにかくそんな名前の男で、ある日突然、部屋の家具も衣服も鞄も。何もかも置き去りにして忽然と姿を消したのだそうだ。

 それを前後として、隣人も凄惨な死体となって発見されている。
 故に借り手がつかなくなったこの部屋を俺がさらに安く借り受ける事が出来たのは、ゴシップ記者の知り合いから聞いた噂……。

 隣人であるアイリーン・ガルビンをはじめとした複数の殺人犯。
 それが、実はこの部屋の住人……ヘンリー・タウンゼントではないかという噂からだった。

 聞く所によるとヘンリーという男は、ありきたりな会社につとめる平凡な男だった。

 だが、ウォルター・サリバンが中心となった連続殺人事件……。
 まるでその続きを埋めるかのように、その現場にはヘンリーが居た痕跡があったと、記者はいうのだ。

 殺人事件と平凡な青年。
 隣人であるアイリーンが殺害されたほぼ同日、まるで煙のように消えたヘンリー・タウンゼントはアイリーン殺害容疑の重要参考人として今もなお警察に追われているが、その足取りは未だ知られていない。

 だがその記者が言うには、アイリーン事件以外。
 つまりは、ウォルター・サリバン事件における、サリバンが自殺した後の事件もまた、ヘンリーの犯行だというのだ。

 ヘンリー・タウンゼントとウォルター・サリバン。
 二人に出会っていた痕跡もなければ、ヘンリーは被害者と面識もない。

 だが、ヘンリーが居た痕跡が……それは例えば靴の後だったり、彼の血痕だったりするのだが……あちこちに残されていたのだと、その記者はいうのだ。

 それが真実なのか。
 ゴシップ記事を面白く書き立てるための、あいつお得意の嘘だったのか今ではもうわからない。

 ただ俺にとってこの部屋の、前の持ち主が殺人犯だったかもしれないという噂は、家賃をさらに安くするよう交渉するには絶好の脅し文句になった。
 かくして俺はこの立地においては、格安の値段でサウスアッシュフィールドハイツ302号室を手に入れたのである。



 前の住人は家財一切残して失踪したとの事だが、俺が入った時にはもう家具はあらかた片づけられていた。
 辛うじて残っていたテレビも、非道く映りが悪い。

 新しいソファーを運び入れ、クローゼットによく使う衣類だけを放り込む。
 まだ荷をほどいてない箱も多いが、引っ越しした当日から気張って色々やる事もないだろう……。

 気が付けば時計はもう22時を過ぎようとしていた。
 俺は夕飯もろくに食べてない事に気付き、慌ててトーストを頬張ると、ウィスキーをグラスに注ぎそれを一気に煽る。

 テレビの画面が歪んで見えるのはアンテナのせいか。
 それとも酔いが回ってきたからだろうか……。

 ……そういえば鞄の中に仕事の書類を詰めっぱなしだったか。
 早めに出さなければいけないが、明日起きた時に出せばいいか……。

 ソファーに深くもたれかかり、そのまま瞼を閉じる。

 かちゃり。
 陶器が置かれる乾いた響きが耳に絡み、同時にコーヒーの香りが漂う。

 コーヒー……。
 さて、俺は一体いつコーヒーを煎れたのだろうか……酔いさましに一杯飲む事はたしかにあるのだが……。


 「砂糖とミルクは入れるかい?」


 次いで、男の声。
 ダニー、いや、グレッグか。今日は俺の引っ越しの為に車を出してくれた二人だ。

 だが、二人とももう帰ったはずだ。
 晩飯はカミさんととるんだと宣うダニーに、「本当にカミさんとか」なんて茶化した記憶も新しい。


 「……誰だ!?」


 驚いて飛び起きた俺の目の前には、金色の髪と青い瞳をもつ、無精ヒゲをはやした青年だった。

 年齢は、二十代半ば程度だろうか……。
 だが、シワですっかりくしゃくしゃになったシャツを着ているからか、随分とやつれて見える。

 会った事のない青年のはずだが、何処かで見た記憶はある。
 さて、この顔は何処で見たのだろうか……。


 「……誰だ、って言われてもな。それを聞きたいのはコッチだよ。この部屋に突然現れてまるで自分の部屋みたいに振る舞う、キミは一体誰だい?」


 男はそんな事を言うと、悪戯っぽく微笑みながら口元に手をあてる。
 会ったことがないのはたしかだが、見覚えはある。

 俺はこう見えても人の顔に対して覚えがいいのだが、さて誰だったか……。
 脳細胞を賢明に駆使して、男の顔に覚えがないか検索をかける。

 何処か憂いを含んだ、青い瞳……伸びっぱなしの金色の髪……手入れされていない無精ヒゲ。
 いや、俺の知っている顔はもう少し整った身なりをしていたか。

 ……そうだ、たしか俺はこの男の顔をみて「こんな綺麗な顔なのに殺人鬼ねぇ」と。そう思ったはずなのだ。
 殺人犯……いや、殺人鬼……?


 「オマエ、まさか! ヘンリー……ヘンリー・タウンゼント……?」


 声をあげる俺は、目の前に出されたカップを思わず倒しそうになる。
 そう、男の顔は間違いない。新聞で、そしてゴシップ記事で見かけた顔……。

 今回の事件においては重要参考人であり、未だ姿を見せない男、ヘンリー・タウンゼントその人だった。

 だが、何故この部屋に。
 まさか、ずっとこの部屋に潜んでいたのだろうか。隠し部屋のようなものを作って……。

 だがその仮定を、俺は首を振って否定する。
 このアパートは隠し部屋を作れる程壁が厚いわけではない。

 そもそも、隠し部屋なんてアパートの管理人に内緒で作れるはずはないのだ。
 ……管理人に、ヘンリーを匿う理由があったらあるいはそういう事もあるだろうが、もしヘンリーを匿っていたのならそもそも俺にこの部屋を貸す必要もないだろう。

 それならば今までこの男は、何処に姿を隠していたのだろうか。
 日中、男の姿はどこにも無かったのだが……。


 「はい、砂糖」


 動揺する俺を横目に、ヘンリーは全く変わらぬ様子でシュガーポットをまわしてみせた。


 「生憎、ミルクはきらしているからね。パックの牛乳でよければつかってくれよ」


 そう言いながら冷蔵庫より、パックの牛乳を取り出す。
 ……毒でも入っているのだろうか。


 「安心して、毒なんて入れてないさ」


 まるでこちらの心を読んだかのようにヘンリーは呟くと、自分用にいれたコーヒーをゆっくりすすり始めた。

 ……どうやら、俺に渡したコーヒーと同じポットで作ったらしい。
 とすると、少なくても毒が入っていない、というのは本当らしい。

 だが、今目の前にいるのは「殺人犯」の容疑をもち未だ逃走を続けている男だ。
 ウォルター・サリバンの連続殺人事件……。
 それに荷担したかどうかはゴシップ記事の範囲だが、隣人であるアイリーンの殺害については有力な容疑者であるには間違いない。

 殺人犯から差し出されたコーヒーをどうしようか迷っているうちに、カップは突如変貌を始めた。

 そう、それはまるで生きているかのようにねじ曲がると、一つ。二つ、三つ……。
 8つの足のような突起がはえ、汚臭のする水を滴らせながら、まるで蜘蛛が這うかのように突如テーブルの上を闊歩しはじめたのだ。


 「な、何だ。これは……」


 驚きと戸惑いとでソファーへもたれかかれば、その時俺はようやく今座っているソファーが自分のものではない。
 もっと別の「何か」に変わっている事に気付く。

 黴のように湿っぽい香り。
 獣の舌でも触っているかのような、ざらりとして。そして粘り着く手触り。
 まるで人の臓腑にでも触れているような生ぬるい感覚……。


 「うわぁぁっ!」


 驚き飛び離れた時、俺はようやく、この部屋の異変に気付いた。

 異変。
 いや、変異と言った方がいいだろうか。

 壁には無数に罅が入っていた。
 台所の蛇口からは、絶えず水が滴っているがその色はまるで血そのものに思え、生臭いニオイが立ちこめている。
 クローゼットはまるで葡萄のように瘤がいくつも隆起し、その一つ一つには人の顔のような姿が現れ、叫びとも鳴き声ともとれぬ声を放っている。

 家具の配置も、部屋の壁紙も、俺が引っ越した時とは違う。
 まるで灰でも吹き散らかしたような陰気な青い壁紙が、天井からもたれかかってくるような圧迫感を与えていた。

 ……これが、俺の借りたサウスアッシュフィールドハイツ302号室だろうか。
 それとも……。

 虫のように変貌したコーヒーカップは暫くテーブルを走り回った後、足を滑らせテーブルから転げ落ちる。
 がしゃんと言う鈍い音がして砕けたカップは、暫くひくひく足をばたつかせていたが、そのままぴくりとも動かなくなった。

 その様子を、クスクス笑いながら見ている小さな影に気付く。
 年の頃なら10かそこらだろうか……金色の柔らかな髪をもつ少年は、俺が見ているのに気付くと慌ててヘンリーの足下に絡みつき、上目遣いでこちらの様子を伺っていた。


 「ワリー」


 ヘンリーが絡みついた少年の髪を愛おしそうに撫でれば、少年は幸福そうに笑う。
 ……ヘンリーの息子、だろうか。

 いや、だが報道ではヘンリーは独身。
 子供も、とりわけた身よりもなかったと聞く……それに、この子供自体、ヘンリーの面影はない。

 それに、ワリー……。
 この呼び名は、ウォルターのあだ名でよく呼ばれる名である。

 ワリー少年……。
 ウォルター……ウォルター・サリバン……何だろうこれは、ただの偶然だろうか……。


 「ワリー、駄目だろ。また部屋のものを変異させて……」
 「だって、ハリー……」

 「だっては、言い訳だ。わかるね?」
 「……はぁぃ」
 「……よし、よくできました」


 ハリーは、ヘンリーのよくある愛称だ。
 だとすれば、やはりワリー少年の本名も恐らくはウォルター、なのだろう。

 素直に頷くワリー少年を見ると、ヘンリーは満足そうに頷いてから、少年へ「ご褒美」の口付けをする。
 ……長くかわされるそれは、単純な少年への躾のためではない。

 自らの愛情を満たす為のキス。
 少年へ愛情……親が子供を守るためのそれではなく、大人が欲求を満たす為のそれを注ぎ込む為の、長い。長いキスだ。

 ……この二人。
 一体どういう関係なのだろう……。

 長く見ていてはいけない気がして目をそらせば、さっきまで虫のように変貌をしていたカップがすっかりもとの姿に戻って割れた欠片をばらまいていた。
 ……変貌は、俺の目の錯覚だったのだろうか。


 「……変異も、始めたばかりだったらまだ元に戻せるのさ」


 欠けたコップをひろいあつめ、ヘンリーはそんな事を呟いた。


 「この世界の変貌は全てワリーの……ウォルターの意志だ。この部屋は彼と、俺の為に準備されたものだからね」


 だから、と前置きして、ヘンリーは俺の肩へと触れる。

 ……俺はこれまで決して平穏とはいえない生活をおくってきた、そのつもりだった。
 命にかかわるような危険な仕事も請け負ってきた、ケンカの場数もあるし、力では同年代の男たちに劣っているとは思ったことはない。

 だが、ヘンリーに触れられた時。
 自分より遙かに華奢な男の腕だったにもかかわらず、まるで催眠術にかかったかのように足に力が入らなくなり、肌触りが悪く不愉快だけのあのソファーに座り込まずにはいられないでいた。


 「だから、キミにはお帰り願えないかな? ……そして出来る事なら伝えて欲しい。サウスアッシュフィールドハイツ302号室は、もうそちら側のものではないと……わかったね?」


 もうそちら側のモノではない……。
 言葉が意味している事はよくわからなかった。

 だが、ヘンリーの言う事は分かる。
 俺に、出ていけといってるのだ。そして、出来る事なら二度と誰にもこの部屋を貸すなと、管理人に伝えろと、そういう事なのだろう。

 借りたばかりの部屋だ。
 違約金の問題もあるし、前の部屋ももう引き払っている。

 普通なら承諾しかねる内容だが……ヘンリーの青く沈んだ目は俺の身体を捉え、何もされてないのに関わらず、指が鉛のように重く動かす事さえできなくなる。


 「わ、わ……わかった、そう。する……」
 「そう。ありがと、ね」


 ヘンリーが優しく微笑めば、首が押さえられるような圧迫感が幾分か軽くなる。


 「……だけど、一応契約させてもらうよ。キミたち向こう側の人間はとても忘れっぽいから……あぁ、うん。自分もね、最近までは向こう側の人間だったからね。だからわかるんだ、目を覚ましたらすべて悪夢だったと思って、忘れてしまうんだろうって。だから……」


 俺の膝に、ヘンリーの足が乗り、その指先が頬に触れる。
 カップを片づける時に傷ついたのか、指先は僅かに血で濡れていた。

 だがその血に気取られている間に、ヘンリーの唇が俺の唇と触れる。

 ……最愛の男を取られたとでも思ったのだろうか。
 少年の不安げな瞳が、激しい嫉妬の色にかわっていた。

 しかしこのキスが挨拶のものでも、愛情からくるものでもないというのはすぐに分かる。
 俺の中にどろりとした「何か」が注がれ、その「何か」が腹の中で暴れるよう堕ちていったからだ。

 ……液体のようにも思える。
 だが鉛のように重く、そして虫のようにバタバタと腹の中であばれるそれは、ただ胃袋で鈍い痛みを放ちつづける。


 「……さぁ、行くといい。今は部屋の扉が開いているけど、きっと間もなくドアも閉まるだろうから」


 見れば部屋のドアは、たしかに僅かだが開いていた。
 しかしその内側には、無数のカギが見える。

 今、出なければきっともう出られないのだろう。
 疼く腹を押さえながら、俺は這いずりまわってドアへと向かう。


 「……そうだ、約束は守ってくれよな。そうしないと……腹の中のそれが、何するかわからないよ?」


 背後でぞっとするくらい穏やかに。だが冷たい言葉で語る、ヘンリーの声が響いていた。




 …………気付いた時は、すでに朝になっていた。
 俺は廊下で寝ていたのか、近所にすむ住人にたたき起こされたのを覚えている。


 「引っ越したばかりで酔っぱらうのも程々にな」


 近所でくらす住人は、笑いながらそう去っていった。
 だが俺は全く笑えぬまま、自分の部屋へと戻る。

 部屋は引っ越した時と同じ、荷ほどきが終わってない荷物が積み上げられた俺の部屋そのままだった。
 あれは、夢だったのだろうか……。

 腹の調子はまだ悪い。
 まるで蜘蛛でもはっているかのような感覚が、俺に嘔気を引き起こす。

 飲み過ぎのせいか……。
 少し吐くつもりで洗面台に向かった時、俺の顔に血で文字のようなものが書かれているのに気が付いた。

 21121+1。
 それは、殺されたアイリーンの鎖骨にも刻まれていた奇妙な文字になる。

 ……このままだと、俺が次の被害者になるという事か。
 そんな下らない事が、そう思ったが……。

 とにかく、俺はもうその日からサウスアッシュフィールドハイツ302号室には戻っていない。
 その日からモーテル暮らしをはじめて、次の部屋をみつけたらそっちに引っ越したから、あの部屋がどうなっているのかも今はもう知らない。

 だから俺が言いたい事はもう分かっただろう。
 アンタがただ、安さと興味であの部屋を借りようというなら、悪い事はいわねぇ。
 サウスアッシュフィールドハイツ302号室だけは、借りようなんて思わない事だ。

 あれはもう、こちら側のものではない。
 あちら側で生きる事を望んだ男と、ただ彼の愛情を一身に受ける事を許された少年の為だけの空間なんだからな。






 <ショタウォルターちゃんかわいいよぺろぺろ。(戻るよ)>