>> いずれ潰える愛しき光
それは、月のない夜だった。
血と脂と焼け焦げた木材のにおいが充満する旧市街に、ヘンリックはいた。
一人ではない。
医療教会が有する工房でも一番の変人として名高いアーチボルトと一緒だ。
ガスコインと疎遠になって、もうどれくらい経ったのだろう。
それはヘンリック本人にもよくわからない。
結婚を機に狩人稼業からは遠ざかり、専ら教会の墓守に従事するガスコインの家にわざわざ獣の匂いを持ち込む事などないだろう。
そう思ってヘンリックの足は自然とガスコインの家から遠のくようになっていた。
だからだろう。
最近は武具の調整や装備の改良なんかでアーチボルトの世話になる事が増えており、今は狩りに出ないアーチボルトがヘンリックの相棒となっていた。
空を仰げばどこまでも暗く、か細いカンテラの灯りだけが唯一の道しるべとなる。
周囲は深く暗い夜の帳が降り、もしカンテラの火が消えたのならば周囲は前後は勿論のこと、上も下も分からぬほどの闇に包まれた事だろう。
宇宙は空にある。とは聖歌隊の言葉だが、星も見えない闇の中にいるとまるで自分が宇宙という絶対的孤独の空間に一人投げ出されたような錯覚さえ覚えた。
いや……あるいは、とうの昔に「投げ出されている」のかもしれない。
ガスコインと相棒として付き合いが出来なくなった時からか。
あるいは、ヤーナムへと流れついた時からか。
そのずっと前からか……。
ヘンリックの心にはいつからか、ずっと虚のようなものが住み着いていた。
「ヘンリック、そろそろだぞ」
アーチボルトの言葉が合図で、ヘンリックは思慮を中断する。
それを待っていたかのように、彼の周囲は突如として青白い光に包まれていった。
星の瞬きにも似た無数の光はヘンリックの周囲を包み込むように廻り、一寸先すら見通せぬような闇夜を照らし続ける。
それはまるで星が降ってきたような。あるいは無数の流れ星に包まれたような、そんな幻想的な風景に思えた。
だが現実はそうではない。
これは雷光であり、迂闊に触れれば激しい痺れと痛みをもたらす強いエネルギーの集合体なのだ。
そしてそれを産み出しているのが目の前にいる黒く、乾いた一匹の巨躯なる獣……。
医療教会か、あるいはビルゲンワースの連中がつけたのだろうか、「黒獣パール」と呼ばれている個体が産み出す雷光だ。
黒獣パールが元はどんな人間だったのか……そもそも人間だったのかさえも、今となってはわからない。
聖職者の獣ともちがう、だがヤーナムの獣ともまたちがう巨大な身体と特殊な能力(雷光を操るような獣はヤーナムの罹患者からは出ていないのだ)をもっていたため、その駆除に多くの狩人が立ち向かい、そして多くの狩人たちが斃れたのはヘンリックの記憶にも強く残っている。
その黒獣パールは今、ビルゲンワースの意向で旧市街の奥……ヤハグルの傍らに捨て置かれるよう閉じ込められ、雷光の原理を探りながら飼い殺しにされている。
結局のところ、どうしてこの獣が雷光を放つのかも、どこからやってきたのかさえ、誰にも解き開かされないまま何年も過ぎてしまったのだが……。
「……最近、流浪の狩人が一人また、このヤーナムに流れ着いた」
ヘンリックは手を広げ、雷光へと向ける。
雷光はヘンリックの装束を嫌うように、ふっと彼を避けていった。
ヘンリックの装束は雷に特に強くなっている。
それは黒獣パールの存在から 「またこのような獣が現われた時に対処できる装束を」 という狙いもあったのだが、それ以上にこの雷光をもっと傍で見たいという希望もあった。
青白く光そして消えゆくその輝きを、ヘンリックはただ「美しい」と思ったからだ。
「へぇ……流浪の狩人かぁ。ヤーナムでは久しく、外からの狩人は来てなかったから……珍しいねぇ」
アーチボルトはさして興味のなさそうに言う。
今のヤーナムは斜陽の街と言うに相応しい程に衰退していた。
医療教会は獣を狩り殺せるほど力のある狩人はほとんどなく、形式だけの存在になっており、今や信じるものより恐怖するもの、ただ恐れ距離をおくものが多い。
ルドウイークのような英雄もおらず、ローゲリウスのように耳障りのよい言葉で聴衆の心を掴むような詭弁屋もいないまま獣狩りという人殺しを続けているのだからそれも必然だったろう。
上層部にある聖歌隊は獣を「狩る」側ではなく獣に「取り入る」側になって久しい。
殆ど廃墟同然となっているビルゲンワースでは、メンシス学派だけが爛々と目を輝かせて秘匿している術を完成させようとやっきになっていた。
だが、メンシス学派の術というのも獣の病を克服するものではないのだろう。
獣狩りをするのは専ら、ヤーナムの不死の噂。あらゆる病に効くという特効薬……血の医療の噂を聞きつけた、異郷のものばかりだ。
その異郷の狩人も、日に日に数が減っている。
死んでしまうのか、夢から覚めてしまうのか、狂ってしまうのか、獣になったのか……とにかく気付いた時には消えていなくなっているのだ。
街にかつての活気はなく、市場に出向いてもヒトも、モノも殆どない。
ヨセフカの診療所では薬が足りず、怪我をした人間をただ寝かせるにしたってまるで野戦病院のような不衛生さになっていた。
「……何でも、恩人の仇を探しているのだという」
光の中で手を広げながら、ヘンリックは囁くように言う。
傍らのアーチボルトはそんなヘンリックの様子を見ながら、何かの記録をとっているようだった。
「恩人の仇かぁ……復讐ってやつ? ははッ、一番危うい理由の行動動機だね」
「そう、復讐のためにやってきたらしい……そして、そいつの探している復讐の相手とやらが、どうやらこいつだ」
ヘンリックはそういい、上を向く。
骨に針金のような黒い剛毛がはりついた獣は、身体を震わせながら青白い光を放てばヘンリックの周囲にまた数多の光が、蛍のように飛び交う。
「こいつって……パールの事かい? つまり、復讐者はパールを殺しにきた狩人という訳か……困るな、パールは貴重な研究材料なのに」
アーチボルトはそういうが、それほど残念といった様子は見せなかった。
それは自分の研究が一つの段階に達していたというのもあるのだろうが、長らくこの場に縛り付けられ、研究という名目で痛め付けられ、死ぬ事も出来ずに囚われているこの獣を多少なりとも気の毒に思っているからだろう。
「いや、でも。パールは全盛期と比べれば全くもって大人しいけど。それでも……強いよ? その流浪の狩人は、パールを殺しきれるほど強いってのかい」
どこかおどけた様子でアーチボルトが聞く。
ヘンリックは一瞬目を閉じ、その狩人の姿を思い出していた。
東洋人特有の黒髪とのっぺりとした顔立ちは酷く若く見えるが、壮年といった頃合いだろう。
痩躯の男だ。だが鋼のように鍛えられた筋肉をもっている。
ルドウイークの剣ともちがう、刀身の反った奇妙な武器をもっていた。
あれを如何様に操るのかはわからない、が……。
「強い……な。恐らく、今のパールであれば充分に殺しきれるだろう」
流浪の狩人からは、おぞましいほどの憎悪と殺意とが満ちあふれていた。
復讐は、戦う理由として最も脆く、安っぽい理由の一つと言えるだろう。
だが同時に復讐という理由は、憎悪と殺意を極限まで研ぎ澄ましヒトを一つの凶器と変えうる感情でもある。
あの流浪の狩人にとって「恩人」というものがどれほどの存在だったのかを伺い知る事は出来ないが、ヤーナムにいる獣を斬り殺せる程の凶器であり、狂気となっているのは間違いないだろう。
「そう、か……そんなに強いのか」
黒獣パールは身体を震わすのをやめる。
周囲に満ちていた青白い光は一つ、また一つと大地へ堕ちて消えていき、世界はまた上も下も分からぬ闇夜へと舞い戻った。
「あぁ、だけど頃合いかもしれないなァ……俺の研究も、パールも……」
「何だ、アーチー、らしくないな」
「……いくら工房の変人でも、この街がもうどうしようもないってのはわかるさ」
アーチボルトはそう言うと、軽く肩をすくめて笑うと街の方へと視線をやる。
長らくここに住んでいるアーチボルトでさえ、もはやこの街は終焉にあるのだと悟っているようだった。
だが、ここから出る気はないのだろう。
アーチボルトはヤーナム産まれでずっと工房に詰めていた職人だ。彼の技術を医療教会は「外」に出そうと思わないだろうし、彼自身もまた外の工房ではこのような仕事が出来るとも思っていないだろう。
ヤーナムに産まれたものは、ヤーナムの秘密を抱いたままこの土地で死ぬ。
それがこの街では当たり前の事だった。
「あぁ、光が……消えたな」
まとわりつくような闇の中、アーチボルトの声だけが聞こえる。
雷光に気を取られている間に、カンテラの火が消えていたのだろう。あるいはアーチボルトが雷光を楽しむため消してしまったのかもしれない。
ヘンリックはカンテラを探り当てると、すぐに火をともす。オレンジの灯りが周囲を暖かく照らした。
「光が消えたとしても……また、誰かつけるだろう」
それはもう、自分の役目ではないのだろう。
そしてこのヤーナムにはその担い手が一人、一人と減っていき、いずれその「誰か」もいなくなるのだろう……。
その言葉は口にせず、カンテラを掲げて歩き出すヘンリックの後をアーチボルトもついていく。
一度だけ、ヘンリックは黒獣パールの方を振り返える。
黒い獣はじっと蹲って空洞のような目を虚空に向ける。
そこには青白い光は一欠片もなく、ただただ暗く、深い闇だけが広がっていた。