>> 黒が蒼へと融けてゆく






 夢に現われたのは、変わらず何処か人を食ったような表情で笑うベリアルの姿だった。

 それがすぐに夢だとわかったのは、以前も似たような夢を見た事があったから。
 天司が現われ、ただ何をする訳でもなくこちらへと語りかけてくる。
 そんな経験が幾度かあったからだろう。

 ましてやベリアルはこちらの「仇敵」とも言える存在だ。
 サンダルフォンのようにわかり合う、という事は到底できない……わかり合うには、互いの信念が違いすぎる、そんな存在だ。
 夢でもなければこんな近くでまじまじと彼の姿を観察する事など出来なかっただろう。

 背中には漆黒の羽が、今は一対。二枚だけ出ている。
 自分の記憶では確か三対……6枚羽だった気がするが、これは出し入れ自由なのだろうか。

 白い肌、黒い髪。
 そしてそれとは対照的な赤い、赤い目が相変わらず印象的だった。

 黒い翼をもつ彼は、「天司」ではなく「堕天司」を名乗っている。
 元々は天司と同じ場所にいたようだが、何故「墜ちた」のか……その真意や目的は何なのか、未だ多くを語ろうとはしなかった。

 ただ、何となくは推測できる。
 彼はただ「一人」の存在に対して忠実だ。恐らく彼はそのただ「一人」の存在のために必用だから「墜ちた」のだろう。
 例えその一人に「手駒」とされても、それが「捨て駒」だったとしてもだ。

 ベリアルにとって「その一人」が唯一、価値のある存在なのだ。


「よォ、特異点。久しぶりだな。どうだい、調子は」


 夢でも彼はまるで互いに殺し合った事など一度もない、といった様子で親しげに声をかけてくる。
 その態度があまりにも「本物のベリアル」であったから、やはりこれは夢だという事。
 だがただの夢ではなく、天司……彼の場合「堕天司」が直接意識を飛ばして何かを伝えにきたのだと漠然とだが悟るのだ。

 ……天司とやらにとって、こちらの「夢」に介入してくるのはそれほど難しい事ではないらしい。
 以前は「四大天司」のミカエルたちも夢に介入してきたし、最近はハールート、マールートの二人が遊びに来たばかりだ。
 堕天司という立場のいわば「敵対者」とよべる存在が現われたのは、流石に初めてだが。

 ……あぁ、でもベリアルというのは「どちら側」なのだろうと考えると、よくわからない所がある。

 天司には嫌われている、それは確かだ。
 彼の奸計により、天使長が失われた……それも確かだ。
 だが全てが全てベリアルの奸計であったとしても……いつでもベリアルには、どうにも「隙」があるような……どこかいつも本気ではないような、そのような気配が感じられるのだ。

 もし彼が本気で全てを壊す気持ちであるのなら……。
 ……本気で全てを壊す気持ちであるのなら、初めて出会った時のサンダルフォンのように感情にまかせたまま、その身体の限界まで無茶をして、星を落とす事だって厭わないだろう。

 だがベリアルは、何か違う。

 ……何か違うものを見ている。
 何か違うものを目指している。

 そんな気がするのであり……だからこそ、特異点である自分は彼の中に誰かが「いる」のだと推測した。
 同時に彼の中にいる「誰か」が、特異点である自分ではないという事も何とはなく察している。

 ベリアルが見ている「もの」あるいは目指している「こと」も、その中に「特異点」である自分の存在も、思惑もない。
 ベリアルにとって特異点という存在はたんなる「手駒」であり、それ以上には成り得ないのだ。

 そう、ベリアルの中にある大切な「何か」には、近づけさえしないのだ。

 ……だから何だ、という話しなのだが。
 だがそれでも、特異点である自分は、いざという時に手を伸ばしても時分の声も、言葉もベリアルの心その奥底にまでは届かないという事実に気付いているからこそ、歯がゆい思いをしている時分がいるというのもまた確かだった。


「という訳さ……おい、聞いてたかい、特異点?」


 ベリアルはそういいながら、やけに大振りの鎌を取り出す。
 まるで死神の鎌のようなそれは、ベリアルが特注で誂えた武器であり、闇の力を増幅させる力があるという。

 これまでも、ミカエルが火の力を。ガブリエルが水の力を……。
 といった塩梅に、それぞれの属性の力をさらに引き出す武器を誂えてくれた事がある。
 ベリアルもそれを真似てみたのだろう。


「見てくれ、一応デザイナーなんでね。機能性もデザインも凝ってみた。だがこの鎌は現実に顕在化させるのに材料がいるからね……特異点、ひとまずこの鎌を顕在化させてくれないか。そういうのは得意なんだろう?」


 そう告げると、ベリアルはまるで悪戯っ子のように笑って見せた。

 これを顕在化させる事で強くなるのは間違いないだろう。
 ベリアルはそういう点で嘘をつくタイプではない。

 敵対している「特異点」の自分たちを強くする事に何の意味があるのだろうか、という疑問はあるが、ベリアルはベリアルなりの考えがあり、楽しみがある。
 何か目的があっての事だろうし、どうせ「手駒の一つが楽しませてくれるかどうか」といった尺度でものを考えているのだろう。

 それに、ベリアルは嘘をつく時、どこか上っ面だけのような言葉使いになる……そういう癖がある。
 これは本人が気付いているのか、わざとそうしているのかは知らないが、今の話を聞く限りベリアルは嘘はついてないだろう。

 強くなれるのは確かなら、話に乗るのは悪くない。
 だが。


「……ただじゃ、いやだな」


 何もない白い部屋で、足を組み座ってそう言っていた。
 どの天司も皆「してもらう」のが当然といった印象だが、それはいい。

 天司たちには無理をしてもらって、世界の危機を救ってもらっているのだから。
 だがこの堕天司は別だ。
 災いを散々ともたらして、世界中をかき回したような大悪党といってもいいだろう。

 多少ごねる位、些細な事だ。
 ベリアルは少し驚いたような顔にはなるが、それでも存外悪い気はしてないのか。両手を組みながらこちらの顔をのぞき込む。
 短い黒髪が微かに揺れた。


「へぇ、何か欲しいモノがあるのかい、特異点? ……まぁ、俺がしてあげられる事なんて限られてるけど? どうだい、一緒に堕天するかい?」


 そういってまた悪戯っ子のように笑うベリアルの前に、そっと手を差し出す。


「……ワルツを」
「はぁ? ……なんだって」
「君の望むように、この武器を顕在化させてみせる……きっと容易いよ。そういうのは、以前もやったことあるから。だから、報酬の前渡しだと思って……ワルツを、踊ってくれないか。ベリアル」


 ベリアルは一瞬虚を突かれたような顔をするがすぐに声を殺しながら笑って、その手をとってみせた。


「ワルツでいいのか?」
「あぁ、ワルツでいい……あまり得意じゃないし。ここには音楽もない、けど」
「オーケィ、心配するな。俺がリードしてやるさ。さぁ……」


 しばし、堕天司とワルツを。
 ベリアルの羽が微かに羽ばたき、身体がふわりと浮き上がる。
 夢という名のましろな世界の中、ただ二人静かに舞い上がりワルツを踊る、その記憶だけが起きた時には残っていた。

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 ベリアルの持ち出した鎌を顕在化させるのは、想像より難しくはなかった。
 元々全空を回っていると色々な素材は手に入るし、厄介な星晶獣の相手などをしているともらえるものも多い。

 翼のついたようなその大鎌は、名をサイス・オブ・ベリアルといった。
 仲間の中には「何であの堕天司の名前が入ってるんだ」と疑問に思うものもいたようだが、それが実用性のある「闇」の武器であるという事の方を重視し、ベリアルの名を冠する事は二の次となっていった。

 何せ今まで存在しなかった「闇」の力を増幅させる武器だ。
 闇の武器というのは少なくないが、その力を増幅させるタイプの武器はよほど珍しかったのだろう。
 ……その生成に「誰が」関わっているから「この名前」であるのかは深く追求されなかった。

 やや紫に寄った、黒。
 持ち手に翼が誂えられている所が、いかにも堕天司のデザイナーが好みそうな趣向だと心の何処かでそう思っていた。


「オーケィ、特異点。上出来じゃあないか」


 その日の夜だったろうか。
 ベリアルは当然のように現われると、相変わらず大仰な仕草でそう告げた。

 どこか芝居がかったその行動は、道化師(クラウン)のようだな……と思っていたし、実際ベリアルもそのつもりで動いているのだろう。

 何か大きな意志に繋がれた繰り人形。
 特異点として自分を見て、この蒼い空の世界を見て……。

 サンダルフォンをサンディと呼び親しげに見せたり……世界を滅亡に追い込むのかと思えば、こちらに反撃のとっかかりを準備して見せたりもする。

 トリックスター。
 彼を見ていると、そんな言葉を思い出す。
 確か、争いや災いももたらすが、同時に知恵や力、技術なども与えてくれる存在だ。

 ……そういえば、戦争がおこると技術段階が一つ進むらしい。
 さながらベリアルは世界の技術段階を上げるために暗躍する堕天司といった所だろうか。

 だがなぜ「技術」が必用なのだろう。
 そう思い、ふと「ルシファー」という単語が過ぎる。

 ルシファー……。
 2千年も前に「死んだ」……彼の意志を、ここに……いや、あるいは彼自身をこの世界に……そのために、技術段階を引き上げるようなトリックスターを引き受けて……。

 ルシファーという存在を、意識を、取り戻すために?
 あるいは彼そのものではなくて、彼の目標を満たすために?

 いや、どちらでも同じ事だ。
 彼の中に「特異点」がないという意味では、同じ事なのだ。


「どうした、特異点。難しい顔をしちゃって。オーケィ、もっと気楽にいこうぜ。気楽に、なぁ?」


 そうやってこちらを気遣うふりをして笑うベリアルの笑顔もまた、本心からではないのだろう。
 言ってみれば道化師のメイクのようなものだ。

 彼本当の彼の笑顔は、どこにあるのだろうか。
 彼の本当の笑顔は、誰のためにあるのだろうか……。


「気楽にかぁ……」


 そう呟くと、ふと顔をあげる。
 そんな顔を、ベリアルは不思議そうに眺めていた。


「どうした、特異点? あぁ、また……ご褒美が欲しいのかい?」
「ん、そうだね……欲しい、かな。くれるんなら、だけど」
「オーケィ、といってもここで出来る事は限られてるけどね……何がいい? 以前のように、ワルツでも踊るかい? ははっ、実はあれから少しだけ練習したんだよ。思ったより上手くリードが出来なかったからな」


 そういいながら、ベリアルはダンスのポーズをとる。
 だがそれを見て黙って首を振っていた。
 今日欲しいのは、ダンスではない。

 もっと単純な……だがきっと、難しい事だ。
 だがそれでも今回の「ご褒美」のこたえは、ずっと前から決めていた。


「名前で、呼んで……もらえる、かな」
「……何だって?」
「特異点じゃなく……名前で、呼んでくれないかな。名前で……、そう名前で……知らない、訳じゃない……よね」


 そもそも殆どの天司たちは……サンダルフォンさえも自分の事を皆が「特異点」と呼び、ろくに名前で呼ぼうとしないのだ。
 だから。


「名前で……か」


 そう言われた時、ベリアルは珍しいくらい困惑した表情をして見せた。
 だが不意に優しい笑顔になるとこちらの頭を撫でながら。


「オーケィ、わかった。そうだな……君は、まだ十五歳の……人間、だったもんな……」


 そういってから、その唇が動く。
 白い肌にやけに薄い唇が、名を……。

 ……名前を、呼んでくれたのだろうか。

 わからないのは、夢から覚めてしまったからだ。
 ベリアルは……名前を呼んでくれたのだろうか。
 それとも「無理だ、特異点」と、そう語りかけたのだろうか。

 何もわからないまま、空は相変わらず蒼いまま広がっていた。

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 起きたと思ったらそれが夢の世界だった。
 そういう事を何度か体験すると、今この世界も夢だというのが漠然とだが理解できる。

 白い世界のなか、柔らかな膝に頭がのせられている。
 視線を上げれば、身体中がまだボロボロなままのベリアルがそこにいた。


「あぁ……」


 生きてたのか。
 とても生存が難しいような場所で、生存が難しいような所に行ってしまったと思ったけれど、どうにも「天司」を構築する肉体はよほど頑丈のようだ。

 夢に出ている、という事はベリアルはどこかにいる。
 そして自らの意識を飛ばして、この夢に来ているのだ。

 だがどうして。
 身体はボロボロでまだ修復が終ってないように見える。

 そんな状態なのにどうして「特異点」でしかない自分の夢までやってきたのだろうか……。


「……オーケィ、久しぶりだな」
「ん、あぁ……そうだ、そうだね……」


 ひび割れた顔が痛々しく見えたから、その頬に手を伸ばす。
 それは触れただけでまるで卵の殻のように、皮膚がぱりぱりと剥がれていった。


「ははッ、ボロボロだろ。ファーさん、随分無理させてくれちゃってさ」
「ファーさん……」


 ルシファー。
 ベリアルの目的の一つ、それは「ルシファー」という肉体を蘇生させる段階まで技術を引き上げる事だった……憶測だが、間違いないだろう。

 そしてベリアルの目的もまた、ルシファーと同じだ。

 世界の終わり……。
 ……とは、違うのかもしれないが「やりなおし」とでもいうのだろうか。
 破壊による再生……のようなものなのかもしれないし、もっと局地的な……言うなれば「ルシファーのエゴ」の範囲内だけの、小規模な滅亡なのかもしれない。

 だがこの肥大しすぎた空を見ると、思う事もある。
 特異点としてこのような考えをもつのはいけないのかもしれないが……大局的に見た時、ルシファーやベリアルとの行動は「正しい」選択にもなり得るのかもしれないと、そう思う事もあるのだ。

 今、一時この危機を救ったとして……この先にある未来に待ち構えているのは、もっと残酷な滅亡かもしれない。
 疫病、災厄、その他諸々の悪意により、もっとひどい終末があるのかもしれない。
 その可能性を考えた時、全ての命を一瞬で摘む。等しく平等に、年齢も信仰も種族も関係なく終える……という「終末」は一つの選択としてあり得ても、いいのだろう。

 だが特異点として。世界のため戦うのが必用とされる。
 それは自分は……特異点は「善性」であるというような見えざる何かの手による導きもあるし、自分自身の目標である「この世界の果てに到達する」事を、成し遂げていないという事もある。

 だから自分は特異点として、自分自身の役目を果たす事にした。
 サンダルフォンと協力し、天に昇ってまでしてルシファーの野望を打ち砕いたのだ。

 あの時、ベリアルはそれに追従するよう、ルシファーとともに消えて……。
 ……もうこれっきりだろう。
 そう思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。


「何でまた、そんなボロボロなのに……もうちょっと休んでくればよかったのに」


 当然のことを言うが、ベリアルはその言葉に苦笑いをして見せた。
 彼にしては珍しい表情だな、と思いただじっとそれを見る。
 その時のベリアルは、そんな視線さえもどこかくすぐったそうに思えた。


「あぁ、まぁ……そうなんだけどな。ふと……休みたいな、と思ったら君の顔が浮んだもんでね、それなら、と思って。思い切って来てみたんだ」
「……敵の顔が浮んだ? 変わってるね。もっと……痛め付けられたいのかな」
「そういう趣味、嫌いじゃないけど今は本当に死にそうだから、遠慮しておくとするさ。あぁ、でも……そうだな……確かに休みに来る場所がここ、ってのは妙かもしれない。でも、俺たちってこう、運命みたいなの感じるだろう?」


 運命……。
 というのは、何を意味しているのだろう。

 ベリアルと戦い続け、いずれどちらかが倒れるような「運命」だろうか。
 それとも……その先に手を取り合っていける未来でもあるというのか。
 いや、それはないだろう。
 あるとしたら互いに世界を滅ぼすような未来だ。そしてその未来は「特異点」という立場が許さないだろう。

 しばらくそうして、膝枕をされているうち、ふっとある天司の顔を思い出した。


「そうだ……サリィ、元気だよ」


 どこか不安げに周囲を見渡しながらも、それでも皆の輪に入ろうとおっかなびっくり歩いているサリエルの姿を思い出しながら、ベリアルに告げる。
 彼が今も壊れていないのは、ベリアルがうまくやった、というのは間違いないだろう。

 彼はベリアルの「お気に入り」だったに違いない……確証はないが、そう思った。


「そうか、それで……サリィは、うまくやっていけそうかな? ……人見知りだから、彼」


 ベリアルは彼らしくもなく、どこか視線を泳がせる。
 気になってはいたのかもしれない。


「ん、どうだろう……ウリエルが気に入ってるみたいだから、きっとウリエルの傍にいるんじゃないか……あんまり、人見知りが強いから輪に入るのは苦手そうだけど、ウリエルは無理矢理自分の土俵に上げるタイプだから……」
「はは、サリィが無茶な扱いをされないか、心配だよ」
「……でも、サリィは君を一番心配している。帰ってきてほしいと思っているよ」


 そう口にして、何をと思う自分がいる。
 ベリアルが帰ってこられるものか。多くの犠牲を出した張本人だ。
 例えその計画の中心にルシファーがいたとしてもその手を汚したベリアルの「罪」が許されるはずもない。

 もしふらりとベリアルが戻ってきても、元の「天司」と迎え入れる存在は誰もいないだろう。
 堕天司として、サンダルフォンが。あるいはミカエルが率先して断罪するに違いない。

 道はとっくに別たれている。
 特異点である自分とは、二度と道が交わらないはずだ。

 わかっている。
 それなのに、それなのに……。

 ……どうして彼の傍はこんなにも落ち着くのだろうか。
 この傍にいると、穏やかな気持ちになれるんだろうか。
 その黒い髪も、赤い瞳も、白い肌も……どうしてこんなにも、美しいと思うのだろうか……。


「……きみは」


 ふと、ベリアルが口を開く。
 その視線はどこか遠くを向いていて、こちらを見ようとはしなかった。


「きみは、俺を……どうしたい? なぁ、どうしたいんだ」


 そして、そう問いかける。
 どうしてやりたい、とか……俺と、何をしたいとか……そういう質問ではない。

 俺を、どうしたいんだと彼は言った。

 どうしたいんだろう。
 彼を、どうしたいんだろう、自分は。どうすればいいんだろう。どうしたら、どうすれば……。


「あぁ……君を、君を……」


 脳裏に様々な光景が渦巻いては消えていく。
 どうしたい、どうしたいんだろう……そう思い、手を伸ばす。


「幸せにしたい」


 口が開くが、声は出ない。
 ただその声は、言葉は、果たして彼に届いたのだろうか。

 彼は困ったような、だがどこかはにかんだような笑顔を浮かべると、こちらの頭をクシャクシャと撫でて。


「また会おうな……」


 そういって、消えてしまおうとするから。


「まって、ベリアル。まって、まって……」


 夢中になって手を伸ばし、危うくベッドから転げ落ちそうになる。
 すんでのところでベッドからおちるのを踏みとどまって、自分がようやく夢から現実へと戻ってきたのを知った。

 そしてあれが全て、やはり、夢だった事を知った。
 そしてもう夢から覚めてしまったから……。


「……出来ないのかな。そういう風には」


 誰もいない部屋で独りごちる。
 ふと、窓を見ると、窓辺には黒い羽が一瞬ちらついて見えたが、すぐに空の蒼に融けるように消えていった。






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