>>  許されない忘却






 この世界には、酒もある。音楽もある。将棋やカード、賭け事なんかもある。
 退屈な時間はいくらでもつぶせるし、詩作に励もうと思えば俺と同じように、心にある言葉を救い出す事に心血を注ぐ輩もいる。

 自分を追い詰め詩のために文字を紡ぐ朔太郎がいる。
 北の自然をそのまま受け入れ青白い文字を紡ぐ賢治先生は、見た目こそガキの風体だがその言葉は俺のやさくれた心に響く。
 白秋や犀星は詩作だけではなく小説や童謡の作詞なんかもやるようだが、かといって詩作に著しく劣っているワケでもねぇ。

 勿論、詩作に関して俺は誰かに負けたり、劣ったりしてるとは思わねぇ。
 詩作は俺にとって唯一無二の存在で……俺の生涯で最も誇れるものだった。

 だからそう、こんなスゲェ連中と一緒なら詩作もはかどるか。
 何か影響を受けてすらすらと言葉を紡ぐようになるかなんてちょっとは楽観的に思ってたんだが……。


「酒……酒が足りねぇなぁ……」


 空になった酒瓶を片手に、俺は当てもなくぶらぶら歩く。
 やけに広い図書館で、アルコールに曇った頭で、思考の堂々巡りを始める。

 ……太宰をからかってやった時の情けない顔は何とはなしに覚えている。
 後で評判になったらしいが 「青サバが空に浮かんだような顔」 とは我ながら良く出来てる。

 就職活動で職歴に「詩作」と書いて呆れられたのも覚えている。
 だがこれが俺の「記憶」なのか、世間一般に知られている俺の「記録」なのかといわれると、酷く曖昧に思える。

 ……ここの特務司書は俺たち「文豪」を転生させるが、その転生も「本人そのもの」ではないと言った。

 本人より、よりその「作風」や世間一般の「概念」を投影していると……。
 記憶より記録や噂、逸話などのイメージから生まれてきた側面が大きいのだと、特務司書は言っていた。

 なんで本人じゃなくそんなあやふやな「概念」を転生させるのかと聞いたら、特務司書は曖昧に笑うだけだった。
 「すこし喋りすぎた」とも言ったから、きっと俺たち文豪の転生理由やその概念については秘匿された話しなんだろう。

 つまるところ、今の俺……「中原中也」は詩人「中原中也」であり、だが「中原中也」ではない。
 そうであり、そうでない存在なのだろう。

 シュレディンガーのネコじゃないが……言葉にすると陳腐に思うが、心で理解できる。
 俺は「中原中也」という存在として今ここにあるが、どこか空虚なのだ。

 何か大切なものを隠されている……いや、忘れているような気がして……。


「中也さーん、ボール、とってください!」


 気付いたら中庭のベンチに座ってぼんやりしていた。
 昼間から酒瓶を脇にかかえベンチに座ってるなんて、とんだルンペンだ。

 だが新美南吉はそんな俺を恐れも恐がりもせず屈託なく笑うと、俺の足下で転がるボールを投げるように要求した。

 小さい手をぱたぱた振るのは無邪気なガキそのものだ。
 こんな酔っ払いを怖がらす信頼してくれるのは、南吉や賢治先生みたいな、子供たちばかりだろう。
 最も賢治先生の方はこの南吉と比べるとちょいと「食えないガキ」と言えるだろうが……。


「あぁ、わかった……ほらよ」


 俺は大きめのボールを南吉へ投げてやる。
 ボールというより「ゴムまり」と言うのが正しいか。スイカほどありそうな弾力性のあるそのボールは、ポォンと大きく弾むと南吉の手元へ戻って行った。


「ありがとう中也さん!」


 南吉はその小さい手を、ぱたぱたと振る。


「あ、あぁ……」


 その姿が、「なにか」と重なった。
 ……あぁ、だがそれが思い出せない。

 大切なことだ、酒を飲み詩作にばかり没頭し家族からも愛想をつかされた放蕩息子にすぎなかった俺が、「にんげん」としての実感を得れていた大事な、大事なもの。
 だが思い出す事ができない。
 まるでその記憶が、思い出が、パルズのピースごとが欠落しているような……。

 いや、これは「忘れている」のではなく「忘れさせられている」のではないか。
 ただ思い出せないにしては、あまりにも心に虚ろな穴がある。この穴を埋めるべきだと本能が告げる。

 ……忘れさせられているのなら、俺は取り戻さなければいけない。
 それは俺にとってきっと、辛く悲しい記憶だが……かけがえのないもののはずだから。


「……言いたい事はわかった、中也」


 俺の話を、特務司書は真面目に聞いていた。
 普段はへらへらしながらビニールプールに水をはってガキどもをあそばせていたり、かと思うと正岡子規と本気野球していたりあそんでばっかりのダレた奴だが、俺たち文豪からの言葉をこいつはいつでも真摯に受け止める。

 それが【作り出したモノの義務】だと、特務司書はいっていた。

 だから生活する上で抱いた違和感や、記憶の齟齬……。
 自分の中で何かが「違う」と感じた時は話して欲しいと言っていたが、今がまさにその時なのだろう。

 特務司書の顔は真剣そのものだった。


「ちょっと……まっててくれ。な?」


 そう言うと特務司書は一枚の紙を取り出した。
 ガリ版で刷られたその紙には「月夜の浜辺」というタイトルの詩が書かれている。


「これは……」


 俺の、詩だ。
 まちがい無く俺が書いた詩だ。俺の癖だし俺の言葉だ。

 だが俺にはこれを書いた記憶はない。
 いや……。


「あ。あぁ……」


 あぁそうだ、俺はこの詩を書いた時、すでに予感をしていたのだ。
 愛しくて愛しくて粗雑な俺が触れたら壊れてしまいそうだから、いつも遠くで見守っていた。

 どうして俺が見送らなければいけなかったんだ。
 どうして、あぁ、どうして……。

 涙が止らない。
 あぁ、そうか……そうか、そうか、俺の中にあった空虚はこれだ。
 このクソ司書が「意図的に消していた」俺の記憶はこれだ。

 何故「消していた」のか、今ははっきり分かる。
 だがクソ司書が、どうして俺からこの記憶を「消して」いたっていうんだ。

 俺がどうしてこの記憶を「捨てられる」と思っていたんだ。
 俺が、俺が……。


「あぁ、くそ……畜生、クソ野郎! あぁ、っ。あ、あ……」


 慟哭が、嗚咽が、とまらない。
 愛しい記憶と悲しい記憶がまぜこぜになって脳髄を揺さぶり、言葉も感情も記憶もすでにごちゃごちゃになる。


「あぁ、くそ、クソ、クソ野郎! へらへらして高見の見物で愉しみやがって、俺らは猿回しのサルじゃねぇぞ、クソ……」


 思わず拳を振り上げるが、その拳は力なく特務司書の胸を殴るだけだった。


 「……この世界にいる文豪は……わりとそう、辛く悲しい記憶や、文豪同士やりとりをする時に不必要だと思った記憶を意図的に【呼び出さない】ようにしてる……そう、たとえば【ふるさとを石を投げて追われる程居づらかった】経験があったとしても、そういう文豪にはふるさとの美しい記憶だけしか残してない。だけどもし、それを【忘れている事】に耐えられなかったのなら、俺は記憶を引き出すだけの【鍵】を与えてる……中也、お前がその【鍵】で思い出したという事は……そういう事だよ」


 あたりまえだ。
 捨てるわけがない、捨ててたまるものか。

 南吉の姿を見て懐かしさと悲しさを覚えた理由が、いまはっきりと形になる。
 俺が、詩作にだけ没頭していた俺が唯一「人間らしく」していられた時間をくれた大切な、大切な【ボタン】の記憶……。


「その痛み、その悲しみはお前だけのもの……大事にしてくれ」


 特務司書はそういい、俺にハンカチを差し出す。
 俺はその手を払いのけ、ただその場で泣いていた。

 ……そうする事しか、できないでいた。






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