ヤーナムの「獣の病」罹患者にはある程度パターンがある。
　罹患した後、彼らが変貌する「獣」は概ね猿のように小型だが俊敏な獣か、あるいは爪先に毒をもつ醜悪な獣か、あるいは黒き剛毛をもつ巨躯の獣か……。
　下水道に捨てられている「生きた屍（リビングデッド）」は例外として、ただ筋肉が肥大し巨躯を得た罹患者はまだ完全に「獣」になっておらず、ある程度人間の命令を聞く事は可能……ただし、その知能は５歳児程度まで下がり、複雑な命令は理解出来ず……せいぜい「この周辺で見慣れない顔を見たら排除せよ」程度の命令が限度とされている。
　医療教会が発行する医術書の一部には、そう書かれていた。

　だが例外はいつだって存在する。
　その日、市街に現れた黒き巨躯の獣こそ、まさにその「例外」だった。

　その身体はヤーナムにある民家と同等かそれ以上の大きさはあっただろう。
　骨と皮だけの身体にただ、黒い毛がこびり付いているだけ。
　いかにも脆そうな外見と裏腹に、その「黒い獣」は俊敏で数多の狩人をなぎ伏せて暴れる。
　しかし、何より恐ろしいのはその身体から放たれる「雷光」だった。
　黒き獣は身体を大きく震わせると身体全体が青白い光に包まれ発光し、それは激しい雷光となり熱と激痛とで狩人を屠るのだ。

　郊外に黒き獣が現れた……。

　その一報は瞬く間にヤーナム周辺へと広がり、牙も爪ももたぬ市民は家にこもり震えながら獣避けの香を焚き、医療教会の狩人はこぞって戦場へと送り出された。
　腕に覚えのある狩人は黒き獣のいる郊外へと向かい、新参狩人やけが人、腕に覚えのないものは誰が「それ」を仕留めるのか賭け事に興じる。
　黒き獣の登場は、一瞬にしてヤーナムを恐怖と熱狂の渦を生み出した。


　「……間違いない、本物だ。あれは黒獣パール……ローランの黒獣だ」


　遠眼鏡をのぞき込み、アーチボルトは興奮気味に語る。
　工房の技師であり優れた鍛冶師でもあるアーチボルトは、以前は火薬庫と通じ複雑な構造の機構武器をいくつか手がけていたが、黒獣パールの青白き雷光を見てからその虜となり、以後ずっとその優れた技術を「雷光の再現」に費やしていた。


　「本当か？　……ローランの黒獣になれる罹患者がいるとは、にわかに信じがたいな」


　その隣に、黄色い装束をまとった狩人がいた。
　彼の名はヘンリック……ヤーナムではない別の土地からやってきた、異邦の狩人だ。
　元々は諸国で傭兵まがいの仕事や、遺跡調査という名の財宝荒しまがいの仕事を手伝いながらあちこちを転々として過ごす流浪の民だと本人は言うが、何故流浪の身になったのか、それを語る事はない。

　おおかた、故郷で何かしら「罪」を犯して逃げてきたか……低い身分でどう足掻いても取り立てられないからと自分の腕で生きる事を選んだが、そういった所だろうが、今はそんな事どうでもいい。

　アーチボルトにとって大事なのは、ヘンリックもまたあの黒き獣の青い光に魅せられた男の一人だった、という事だ。
　あの青白い光を再現しようと突然工房仕事を投げ出し、奇妙な武器の設計に精を出すようになったアーチボルトを医療教会の人間殆どが「変人」と呼び距離を置き、アーチボルトは一人で作業する事が多くなった。

　あの青白い光の美しさを理解できない相手と作業するのは億劫だ。
　そうとすら思ったアーチボルトにとって孤独な作業は苦では無い。だが、時に無性に悲しくなる事があった。
　あんなにも美しいのに、誰もその美しさを理解してくれないのだ。
　その事実に胸が押しつぶされそうになった頃、突如現れたのがこのヘンリックだった。

　彼はアーチボルトが試作し、実用出来るか試しにと幾人かの信頼できる狩人に渡した「小型化したトニトルス」を見て、「この雷光について詳しく聞きたい」と彼を訪ねた人物だった。
　聞けば以前、故郷にほど近い街で彼は「黒い獣」を見たという。
　そして星降るような青い光を見て、「美しい」と、そう感じたのという。


　『……君の作る光は、俺の知る光によく似ている』


　ヘンリックはそういい、彼にこんな相談をした。
　もし、再び黒き獣が現れた時、より近くであの星降る光が見れるよう……雷光に対する狩り装束が必要だ、と。
　そうして実験を重ね、試行錯誤をした結果生まれたのが今の、ヘンリックの装束である。


　「……黒獣パールの雷光は雷のそれと同じ、激しい光と熱のエネルギー体だ……ヘンリック、君の装束には雷光による電気……それが痺れという痛みとして伝わる感覚だが……それを遮断するための素材を内側に使っている、外面はレザー素材だがそれは君の好みだから文句いうなよ」
　「あぁ、これでいい……いくら雷光を近くで見たいからって、美しさが備わってない装束を着るのはガラじゃないからな」


　ヘンリックは自分の装束、その裾を巻き上げて笑う。


　「……それに、あんなに美しい光を前に無粋な鎧でガッチガチに装備を固めるなんていかにも粋が解らないようじゃないか」


　その言葉に、アーチボルトも頷いて見せた。そして、歩み出すヘンリックに声をかけた。


　「出るのかヘンリック」
　「あぁ……あの黒獣は大物だ、並の狩人では苦戦するが……統率のとれた医療教会の狩人たちや名声を求めるフリーの狩人が押し寄せれば、流石に殺されてしまうだろう、だからその前に少しでも……あの青い光の向こうに行く」
　「……羨ましいぜ、俺も狩人になるんだった」


　僅かに笑うアーチボルトの胸を拳で軽く叩いて、ヘンリックは走り出す。
　その影は揺らいだと、そう思った瞬間もう闇に消えていた。


　「前言撤回、俺なんかじゃあんな動きは無理だ。狩人にならなくてよかったぜ」


　闇に消えたヘンリックを見送り、アーチボルトはそう呟く。遠めがねがうつす先には、青白い光が激しく飛び散っていた。




　悲鳴と怒号が飛び交う中、陣頭指揮をとるのは医療教会の狩人だった


　「一斉に撃て！　それで足止めをしろ！　血質に自身がないものは武器を構え、足止めした獣の懐に飛び込め！」


　懸命の指揮も空しく、黒き獣は銃を構える狩人たちをなぎ倒していく。一人、また一人動かなくなる狩人が増える中、斧を振るい前戦に立つ男がいた。


　「しゃらくせぇ！　……ここは俺が抑える、お前はけが人をつれて緊急待避だ！」
　「ガスコイン神父、しかし……」
　「仕方ねぇだろこんなバケモン相手に射手の装備で太刀打ち出来るか！　それにこういうデカブツは、俺たちみたいな個人主義の狩人の方が殺（や）るのがうめぇんだよ」


　ガスコインは斧を片手で振るうと、巨躯の獣が前に立つ。ガスコインの言う通り、今この獣とまともに対峙しているのは「腕に覚えのある狩人」が殆どだった。
　向こうには「狩人狩り」のアイリーンが鴉羽の装束を揺らす。
　「火薬庫」のデュラも今日は特注の改造銃で立ち向かっているようだ。
　見慣れぬ東洋人の狩人もよく動いている、手にしている武器はカインハーストの血刀のようだがカインハーストの末裔だろうか。

　……人数は少ないが、抵抗する狩人はいる。彼らは皆実力者だ。崩れた前戦を立て直すまでは充分持たせてくれるだろう。
　いや、彼らは「個」だが優れた狩人ばかりだ……統率のとれてない烏合の衆で、数で圧倒しようと頭数だけを揃えた医療教会の狩人より、よっぽどやってくれるだろう。


　「……心配ない、ガスコイン神父の言う通りだ。……俺たちは少し下がっていよう」


　誰かの言葉を皮切りに、傷ついた狩人は互い支え合いながら後方へと下がる。
　そのガスコインの背中を眺めながら、誰かが呟いた。


　「……どうしてヘンリックさんは来てないんだ」


　そう、ガスコインの隣にはいつもヘンリックがいる。それが狩人たちの間で「あたりまえ」になっていた。
　だが今日は、未だヘンリックの姿は見えない。
　ガスコインが来ているという事は、ヘンリックもこの事態を把握しているのだろうが……。

　漠然と戦況を見守る狩人らを目に、雄叫びをあげる獣の姿が映る。それまで黒いだけの獣から、青白い光が放ちはじめた。
　……その光が熱を帯びた電流である事を、多くの狩人たちは知らない。


　「また……またあの黒い獣が光り始めたぞ！　気をつけろ！　総員待避！　動けるものは、動けないものに手を貸し避難だ！」


　だがあの青い光をまともに浴びたら命がないという事は知っている。
　黒き獣の足下には、果敢に挑み炭となった狩人の骸がもういくつも転がっていた。


　「ひでぇ血と、肉の焼ける匂いだ」


　ガスコインの鼻に、凄惨な戦場の匂いが漂う。
　そして背中が寂しいのを悔やんだ。


　「ったく、何処にいったんだヘンリック……ここで俺がこいつを一人で仕留めたら英雄として報酬も名声も全部俺のもんなんだろうが……」


　その時、雷光を帯びた鋭い爪がガスコインの前をかすめる。紙一重でステップしかわしながら、ガスコインは苦い表情を浮かべた。


　「……おめぇのいねぇ戦場は……どうにも調子がでねぇや」


　そう呟くガスコインの背中に、激しい衝撃が走る。振り返れば鴉羽の狩人が皮肉めいた声で囁いた。


　「相棒がいないからって随分しょぼくれてるじゃないか、まるで水をかけられた子犬みたいさねぇ、ガスコイン坊？」
　「はぁっ？　何いってんだババア、てめぇ……」
　「ほら、ちゃんと前を見な！　……多少は見えてるんだろうその目も。あんなデカブツね、油断すればいくらあんたが大柄の狩人だからって、その気になればぺちゃんこだよ！　……心配しなくてもヘンリックは絶対に来る、メソメソしないでしっかり気張んな」
　「だぁれがメソメソ……」


　ガスコインの言い分は聞かず、鴉羽のアイリーンはその厚ぼったい装束とは裏腹に軽やかなステップで敵を翻弄する。
　……彼女に言われなくても解っている、ヘンリックは来ると。
　だがやはり、彼のいない戦場はどこか空しかった。


　（何処にいるんだヘンリック……くそ……）


　斧をかまえ襲いかかる黒い獣の足を執拗に叩いたのは、とにかく足さえ潰せば動けなくなるだろうと思ったからだ。
ガスコインの作戦は概ね正しいかった。足を執拗に責められた巨躯の獣はバランスを崩し崩れていく。


　「よし！」


　そこまではガスコインの思惑通りだったろう。ただ一つ誤算だったのは……。


　「もっと、もっと下がるんだ！」


　見知らぬ東洋人が、慣れない言語でそう叫ぶ。
　……崩れる黒き獣は、青い雷光を前身にまとったままその身を崩したのだ。まともに当たったら、タダでは済まないだろう。


　（ヤベぇな……コレはひょっとして……）


　死が脳裏に浮かんだ時、ヘンリックの声がした。


　「全く、思い切りがいい事は賞賛に値するが思慮が浅いのは良くないところだぞ、ガスコイン」


　何だ、死ぬ時くらい褒めてくれてもいいじゃないか……。
　そう思ったガスコインが自分の異変に気付いたのは、ヘンリックの声を「聞いた」後だった。

　……不思議と身体が痛くない。改めて周囲を見れば、そこにヘンリックの姿があった。
　崩れ落ちる獣の身体を支え、ガスコインがその下敷きになるのを身体を張って防いでいたのだ。


　「へ、ヘンリック……はは、来てくれると思ったぜ」
　「当たり前だろう？　……こんな大物、誰にもくれてやるものか」


　ガスコインは立ち上がろうとするが、その身体をヘンリックは制止する。


　「……俺が来るまで奮戦してたようだな、ガスコイン。立てる身体じゃないだろう」
　「けどよ、お前が来てからやっと面白くなるってのに、寝てられるか……」


　血気盛んな若者だ、自分がどれだけ傷ついているのか判断出来ないのだろう。ヘンリックは柔らかにわらってその唇に指先を添えると。


　「いいか、今は見ていろ。本物の狩人の戦いを、今、おまえに。おまえたちに見せてやる」


　そう告げてからゆるりと手を広げ、周囲に一礼して見せた。それは各々の狩人に対する敬礼であると同時に、「観客であれ」という強い暗示を込めた一礼である。
　ヘンリックは「見ていろ」と言った、そして願ったのだ。

　この黒い獣とたった二人、しばらく踊らせてほしいと……。


　「……さぁ始めようか。ローランの黒獣。あるいはパールの黒獣、あるいは……いや、名前などどうでもいい。その青白き雷光を放つ美しい獣よ……このヘンリックと今しばらく、踊ってはくれまいか……ステップなど知らなくとも良い。ただその青白い光を放って……」


　獣は雄叫びを上げながら、虚空を仰ぐ。その声は果たして宇宙（そら）に届いたか、あるいは……。
　黒い獣の双眸は、ヘンリック一人に注がれた。ヘンリックは優雅に一礼してその手を獣に差し出す。
　その先には一本、ワインの瓶が握られていた。


　「……血で出来た特別な酒だ。ヤーナムの人間は酒を好まないが……おまえはどうだ、気高く黒い獣よな」


　そしてワインを瓶ごと床に投げ、たたきつける。
　強い血と、発酵した葡萄の香りが周囲を包み込んだ。
　同時に黒き獣はその巨躯を揺らし、夢中になって飛び跳ねると血と酒の入り交じったそれを這いずるように舐める。
　ヘンリックは恭しく礼をすると。


　「それでは、失礼」


　そう呟き、黒き獣の側頭部に、穿つような一撃を放った。
　……その獣はすでに脳をもたず、ただ電流の命令のみで動いている、いわば死肉で出来たオートマトンだったのだろう。穿つ頭は空洞で、かき回すべき脳髄はない。僅かに残った血肉の欠片を中から引きずり出すと、ヘンリックはそれを獣の前でまき散らした。


　「その心、すでに空虚か。黒き獣よ、おまえは……何のために生まれてきたのだろうな」


　血の酒を貪り終え、眼前の男を敵として認識したのか、黒い獣は青白い雷光を放ちヘンリックを虚い目で見つめる……。
　戦いが始まる前の驚くほどの静寂に動ける狩人は誰もいなかった。
　ただ、黒い獣と一人の狩人が相対する姿を誰もが見つめていたのはきっと、その景色があまりに幻想的だったからだろう。
　青白い光に包まれた羽帽子の狩人は、まるで獣を撫でるようにその頭を穿つたのだ。その周囲に星が降り注ぐように青い光を浴びながら……。

　誰かが息をのむ。
　それを合図にするかのように、獣と狩人は同時に動き出した。

　悲鳴のような叫びを放ち夢中で周囲に爪をたてる獣のその攻撃を紙一重で避けながら、ヘンリックはその傍に寄り添うと一閃、ノコギリ鉈を振りかざしすでに肉のない獣の骨を断つ。
　獣は叫びまた爪をたて、青白い雷光をあたりに散らす。

　その中でもなお、ヘンリックは優雅に舞うよう武器を構えて見せた。
　そして手を広げると、その身体いっぱいに星を浴びるよう雷光を受けて。


　「こんなに美しいのに、君は恐ろしいのだな」


　陶酔するよう囁くと、再び鉈を振り下ろす。

　誰も、その中に割って入る狩人はいなかった。
　今、自分が飛び込んでもこの戦いのじゃまにしかならない。ヘンリックの足を引っ張るだけだ。
　誰もがそう思い、彼の技巧に見入っていた。

　それは、それほどに洗練された人と獣との武闘であり、舞踏だったのだ。

　やがて、獣は叫び声もあげず、輝くほどの青い光もすっかり薄らいでただ灰色の獣となる。
　……元より完全な肉体ではない、死肉の寄せ集めなのだ。これまでの攻撃で充分に弱っていたのだろう。


　「……終わりにしようか」


　巨大な身体を小さく丸め、うずくまる獣を前にヘンリックは最後の一撃を振りかざす。
　長い悲鳴をあげた後、黒い獣は灰となって空へと舞い上がる。その灰は、まるで星が降るように青白い光をはなちヘンリックの上へと降り注いでいった。

　後に、それを見たという狩人は語る。
　あれはまるで流れ星を浴びるようで……今でもあの戦いが現実にあったのか、それとも夢でも見ていたのか、自信がないのだよ、と……。

　消えゆく青い光を名残惜しそうに眺めると、ヘンリックは慣れ親しんだ相棒の前へと向かった。
　そして。


　「ガスコイン、すまん」


　そう呟いて倒れ込む。
　優雅に舞うよう戦っている、誰もがそう思い見ていたが獣の攻撃を紙一重で避け、常に雷光を浴びながら黒い獣とまともに対峙する……いくら名の知れた狩人であるヘンリックでも、負担が大きすぎたのだろう。倒れ込んだヘンリックを慌てて抱き留めれば、すでに気を失うように眠るヘンリックが彼の腕にいた。


　「ったく、しかたねー奴だなぁ」


　ガスコインは苦笑いしながら、自分の腕で眠る男を背負うと何処へと消えていった。
　その姿を見おくり、狩人たちも一人、また一人と元の塒に帰る。
　黒き獣の襲来は終り、日常が戻ってきたのだ。

　……これほど大きな戦いであった、この戦いに関してあまり知るものはいない。
　それは、医療教会が苦戦した獣をたった一人の狩人が屠ったのだという事実を隠蔽するためだとも、あまりに幻想的な光景からあれは夢だったとも、そもそもこの話が詩人や作家の考えたフィクションなのだとも言われている。

　ただ一つ、事実があるとすればそう。
　ヘンリックの狩り装束は極めて雷光に強いという奇妙な特性をもっている。それはヘンリックが雷光を嫌ったからか、それともその青白い光に魅せられたかはわからないが……。

　その「事実」の一つにこんな「理由」があってもいいのではないかとは、常々思う事である。