明日の朝から降ると聞いた雨は夕方ごろから降り始め、俺が家につく頃にはすっかり土砂降りになっていた。
「ひぇぇ、酷ぇ雨だったぜ。せめて家についてから降ってくれれば良かったのになぁ」
俺はすっかり濡れた靴下やシャツを洗濯機に放り込むと、すぐにスイッチを入れてそのまま風呂へと駆け込む。そうしてシャワーを浴びてる間に、雨はますます強くなっていった。
「台風も近いっていうしな……今日くらいは雨戸閉めておくか」
俺は風呂から出るとシャツとスウェットというラフな格好になり部屋の雨戸を閉める。
「これでよし、と」
ひとまず台風対策を終えると俺は小腹が減っているのに気づき、冷蔵庫を確認する。炊飯器はタイマー通りに動き白米を炊きあげているが、料理するのも億劫だ。インスタントのカレーを幾つか買い置きしているから、それで済ませてしまおうか。もうお茶漬けでも腹がふくれれば構わないか……。
食材の乏しい冷蔵庫の中身を眺めながらそんな事を考える俺の耳に、この時間にはそぐわないチャイムの音がしたのはその時だった。
「? 誰だこんな時間に……」
時刻は9時を少し過ぎていただろう。
テレビではアイドルたち……俺がプロデュースしているのとは別の、華々しい女性ユニットが甘い声で恋や愛、思いを込めた歌を披露している最中だった。
まさか新聞勧誘やガス屋が来る時間じゃあるまい。
かといって、今日友人が訪ねてくる予定もない。
渡辺みのりとはよく宅飲みをするが、彼も今日はピエールや恭二たちとたこ焼パーティをするんだと勇んでいた、彼が来る事は無いだろう。
「はい……どなたですかねェー」
扉を開けてそこに立っていたのは、俺より遙かに大きな影だった。
頭一つどころじゃない、頭二つは大きいだろう。眼鏡に黒いスウェット姿のその男は、土砂降りのなか傘もささずにやってきたのかびっしょりと濡れていた。
「……げ、玄武。玄武か」
俺は驚きながらその顔をのぞき込む。
間違い無い、黒野玄武だ。俺がプロデュースするアイドル「神速一魂」の一人で……17才にしては恵まれた体躯とその年齢にしては切れすぎる頭脳を持つ。
才能に恵まれているが、その豊かな才能が逆に深い影となっている、そんな少年だった。
そう、まだ17才の少年だ。
周囲からは「大人びている」と思われ、実際玄武に回される仕事は年齢にそぐわない「大人」のする役が多い。
しかも玄武はよく動き、また知恵の回る男だった。
自分よりずっと背伸びした役でも努力と知識で乗り越えて見せ……それも難なくこなしているように見せかけるから、周囲には「大人」と思われている。
そんな17才の少年なのだ。
「……ば、番長さん。すいません、夜分にその……」
玄武はぼそぼそと何かいいかけるが、うまく言葉が紡げないのだろう。
すぐに押し黙り俯いてしまう。濡れた身体からは大粒の雫が滴っていた。
9月の雨はまだ暖かいが、濡れた身体のまま夜に立ち尽くしていても良い程暖かくはないだろう。
「あー……わかった、とにかく風呂な。そんな濡れてたら寒いだろ」
「あ、あの、番長さん。俺……」
「わかってるわかってる……ま、とりあえず風呂だ。メシは?」
「……あ……ま、まだです」
「じゃ、風呂から出たらメシにするから……ほら、とりあえず入れ入れ! 服は脱衣所で脱いでカゴに入れておいてくれよ」
俺は半ば強引に玄武を部屋に入れると、そのまま風呂へと押し込んだ。
……さぁ、ここからが大変だ、今日は食材がない、何を作る?
玄武を風呂に押しやったが、せいぜい10分もすれば出てくるだろう、その間に俺に出来るのは……。
「あー、とりあえず湯を沸かし味噌汁の準備ィ! 具は大根とナメコ! はい決定。焼き魚はー無理! だが冷凍食品に、レンチンで食べられる鮭があるのでそいつ、採用! はいレンジに鮭チーン! 味噌汁作る合間に開いてるガス台! 貴様は卵焼きを作るのに使ってやるから感謝しろ! ……玄武は京都生まれか、甘い卵焼きよりだし巻きか……えーい、だし巻き卵のフライパンなんてあるか! 甘い卵焼き、はい決定! 野菜! 今日俺がビールのつまみにする予定だったコンビニの野菜スティック! 君に決めたッ!」
10分をフル活用して俺は料理に勤しむ。
レンチンの鮭はほっとけばOK、俺のする事は大根の拍子切りと卵焼きの作成のみだ。
育ち盛り17才には物足りないだろうが、肉がないんだから仕方ない。後は買い置きのお菓子でも食べてもらうしかない……。
そうこうしているうちに、風呂場から人の気配がした。
……俺の家はいつ、俺がプロデュースするアイドルが来ても大丈夫なようにあらゆる体格にあわせたシャツとパンツ、パジャマ代わりのスウェットを準備している、小柄なもふもふえんのパジャマはもちろん、雨彦や玄武が来ても平気なように大柄なスウェットも準備しておいたが、まさかそれが役に立つ日が来るとは……。
「玄武ゥ! お前の濡れた服はカゴにそのままでいいぞ! 後で洗濯するからよォ。あと、着替え置いてあるから! 一応、大柄な体格の服がある専門店で見繕ったスウェットだが、キツかったらスマンな! ……知ってのとーり、俺はお前よりずっと小柄だからそれは許せよ」
俺がそう声をかけ、できあがった食事をテーブルに並べる。
塩鮭、味噌汁、だし巻き卵、野菜スティック……朝食みたいだが、まぁいいだろう。
「すいません、番長さん。突然お邪魔したってのに……」
そう言いながら風呂から出た玄武は、並べられた夕食を見て目を丸くしていた。
俺は「何とか間に合った」という顔で玄武を座らせる。
「ま、ま、喰えよ。夕食、こんなモンしか無ぇーけど、暖まると思うぞ」
「番長さん……」
「腹が減ってる時は変な事考えるからなぁ……冷凍食品暖めただけのつまんねー飯だけど、とりあえず喰ってくれって、な?」
俺がそう勧めると、玄武は黙って食事を始める。
暖かな白米、湯気のたつ味噌汁……それを口に運びながら、泣いてる玄武を見て俺はただ、じっとそばにいるだけだった。
……どうした、とか。
何があった、とか……。
そういう言葉は、今は言いたくない。
玄武が話したいと、そう思ってくれるまで待つつもりでいたし、俺は、それでいいと思った。
朱雀は、玄武を明るく照らしてくれる玄武の「光」だ。玄武はその影でいいと思っている、そういう立ち回りをする事がある。
だが、俺にとって神速一魂はどちらも輝く光なのだ。
汚れた影は、俺だけでいいから……。
「はは、ウマくはないだろ、ごめんな、飯作るの下手なんだよ俺」
「そんな事ない……そんな事、ないです……番長さん……俺……」
「……いーっていーって」
「こんな時間に、急に……」
「いつでも来ていーって言わなかったか? ……思い詰めたり、辛いと思ったらいつでも俺の家に来いって、お前が迷ったら、帰ってくる場所はココだ。いいな?」
俺は食事を続ける玄武の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
背の高い玄武は座っていても充分大きかったが、今はまるで叱られてしょぼくれてる子供のように小さく思えた。
……結局、その日玄武は何か喋る事はなかった。
ただそう、他愛もない会話をして、テレビを見て、俺の好きな本の話で幾つか盛り上がって……雨の中走ってきたのが身体に堪えたのだろう。すっかり疲れていた玄武は0時を迎える前に船をこぎ始めたから、俺はサッサとベッドに転がして寝かせてやり、その日俺はソファーで寝た。
翌朝、起きたのは玄武が先だったが、その顔は昨日の、今にも影を引きずって行きそうな色はどこにもなく、眩しい笑顔に満ちている。
「番長さん、すいません。昨日のお礼に朝食をと思ったんですが……」
冷蔵庫に食材はあまりにも少なかったのを見て、コンビニに向かったのだろう。
テーブルには焼きたての目玉焼きと昨日の味噌汁の残りの他に、コンビニのサラダがついている。
「おいおい、年下のお前が奢ってくれるのか」
「す、すいません番長さん、出過ぎた真似して……」
「はは、いーっていーって、そのかわり、今度美味い飯奢ってやるからな。そうだな、その時は朱雀もつれていってやろうぜ、神速と懇談会、いいだろ」
「……そうですね」
玄武は笑う。
その笑顔は年相応、17才の少年だ。
俺は、ただ玄武が笑ってくれているだけで……ただそれだけで、嬉しかった。玄武の周りにある理不尽な苦しみや辛さから、少しでも彼をかばえている、そういう影になれている気がしたから……。
「何か、すいませんでした番長さん。俺、ちょっと考えすぎてたかもしれません」
帰る時、玄武は笑っていた。
頭のいい玄武の事だ、自分で自分の道を見いだす事が出来たんだろう。
俺は玄武の腕を軽く叩くと、精一杯の笑顔を向けた。
「おう、気にするな! でも、迷ったり、困ったり、辛かったりしたら……俺の所に帰ってこいよ。玄武、俺がお前の故郷になってやる。いつでも……なってやるからな?」
「番長さん……」
玄武は少しはにかんで笑うと、一礼して街へと戻る。
「さて、今日も仕事すっかな」
俺もまた背伸びをすると、今日という一日へ歩み出した。
最後に見せた玄武の、はにかんだ笑顔を胸に抱いて。