>> 幸福の青い月






 沢山の思い出だけを残して、寿沙都さんはぼくとぼくらの前から、姿を消してしまった。

 「寿沙都ちゃん、きっとまた戻ってくるよね」

 アイリスちゃんは寿沙都さんがいずれまた戻ってくるという事を頭からそう信じているようで 「だから寂しく何かないの」 といつだって笑っていたけど、その笑顔がどこか力無く寂しげだったのはきっとぼくの気のせいなどではなかったに違いない。

 ぼくらがホームズさんの屋根裏に下宿してからまだたった数ヶ月しかたってなかったのだけれども、ぼくらの生活はアイリスちゃんの生活の一部になりはじめていた。
 特に寿沙都さんはアイリスちゃんと一緒にお茶をしたり、料理をしたりとそういう事を楽しんでいて、ぼくからしたら2人は姉妹のように仲良く見えて、2人ともとても幸せそうで……。

 ……いずれぼくも寿沙都さんも留学を終えたら母国に戻らなければいけないとわかっていながらも、ずっとこんな穏やかな日々が続くのじゃないかなんて、頭のどこかでそう思っていたから、寿沙都さんの笑顔がない日常は何となく空しくて、寂しくて、本当に心の中にポッカリと穴が開いたような気がした。

 寿沙都さんがいなくなってからも、事務所は驚くほどいつも通りのままで、アイリスちゃんは相変わらず忙しそうに執筆活動をしていたし、ホームズさんは警察に頼まれたという事件に引っ張りだこ。ぼくは閑散とした事務所で読み慣れない本や新聞に目を通し、この国の事件と司法を勉強するという毎日をおくっていた。

 そう、この空間は寿沙都さんがいなくなった事以外、何もかわっていないし寿沙都さんがいなくなっても何の問題もなかったはずなのだ。

 それなにのなぜだろう。
 何もかわっていないのに、こんなにも世界がかわって思えるなんて……。

 そうして、いつもの毎日を終えてぼくは一人部屋に戻ろうとする。

 「あ……」

 窓からは驚くほどに眩しい月が青い光を放って霧のむこうで霞んでいた。どうやら外は満月のようだ。

 この月を寿沙都さんも見ているのかと思って、そんな訳がないのだと一人笑う。大日本帝国と大英帝国とでは長い距離があり、そこには大きな「時差」があるのだ。ここで月が出ていても、日本は月夜の時間ではない。

 そんな当たり前の事も考えられないなんて、ぼくはきっと疲れているのだ。
 だから今日はこんなにも故郷が恋しくなり、誰も知らないこの街でぼくを唯一支えてくれた寿沙都さんが懐かしく思えるのだろう。

 そうして振り返ったぼくの前に 「なるほどくん」 アイリスちゃんの鈴が鳴るような声がする。

 振り返ればそこには、寿沙都さんが……。
 いや、寿沙都さんの髪型をし、和服を着たアイリスちゃんが微笑みを浮かべて立っていたのだ。

 「寿沙都さ……アイリスちゃん……?」

 ぼくは驚き一瞬、彼女の名前を取り違える。
 ……そういえば、アイリスちゃんは寿沙都ちゃんの和服を「着てみたい」と羨ましがり、寿沙都ちゃんが彼女に簡単な浴衣の気付けを教えていたみたいだけど、まさかこうも着こなすとは天才少女は恐ろしい。

 「どうしたのアイリスちゃん、その格好……」

 驚きを悟られないよう取り繕ったつもりだが、うわずった声では逆に「驚いています」と伝えているようなものだった。アイリスちゃんは優しく笑うと。

 「なるほどくん、最近ずっと寂しそうだったから……励ましてあげようと思ったの!」

 なんて、そんな事を言うのだった。
 ……まったく、10歳の女の子に心配されるなんて我ながらカッコつかないものだ。
 ぼくはなんだか恥ずかしいような情けないような気持ちになり俯くと、彼女はそんなぼくの手をとり、こちらを真っ直ぐに見据える。

 「大丈夫なの、なるほどくん。なるほどくんは、別に一人じゃないんだからね」
 「えっ……」
 「私も、ホームズくんもなるほどくんの味方なの。もちろん、寿沙都ちゃんも! ……離れているけど、心も離れちゃった訳じゃない。そうよね」

 アイリスちゃんの言葉に、ぼくは虚を突かれたような顔になる。
 そうだぼくは……自分の寂しさに押しつぶされそうになって、大事ななにかを見失う所だったのか……。

 そうなんだ、寿沙都さんは姿が見えなくなっただけ。
 ここにはいないけど、ぼくの事を何処かでずっと信じ、支えようとしてくれているのだろう。

 ……今はここにいない。だけど、ぼくをこの地へと導いてくれた亜双義の意志が、今ぼくの中にもあるように。

 「そうとも! 君は一人じゃない、ミスター・ナルホドー!」

 その時アイリスちゃんの後ろから、ホームズさんが顔を出す。

 ……何故か寿沙都さんのように髪を強引に結い上げて。
 しかも何故か浴衣を着てだ。

 ホームズさんはかなりの長身だ……あの人に会う浴衣はきっと、何処かで特注したのだろうな……。

 「何やってるんですかホームズさん」

 今度はさして驚く事もなく、淡々と問いかけていた。
 ぼくが思った以上に驚かなかった事に、逆にホームズさんが驚いていたようだ……どうやらぼくがもっと驚いて、感激してくれるとでも思っていたらしい。

 そんなに大きい男の人の女装に、誰が感激するんだろう?
 「あ〜、えっと、これはアレだ。そう……君を元気づけるための、サービスだよ! サービス」
 「あんまりいらないサービスですね、それ」

 「な、何だつれないなぁ……結構時間をかけて着替えたんだぜ、これ」
 「余計な時間の使い方しないほうが、いいと思いますよ……」

 「何だって、せっかくキミのために特別にあつらえたのにねぇ……」
 「誰がホームズさんの女装を見て喜ぶと思ったんですか、まったく……」

 そう言ってるうちに、ぼくは段々おかしくなって思わず声を出して笑ってしまう。
 そのぼくの笑顔を見て「やっと笑ってくれたね」とホームズさんもまた嬉しそうに笑うのだった。

 ……そう、この大英帝国に到着したばかりの頃は孤独だったけど、今のぼくは一人じゃない。
 知り合いもいるし、仲間もいる。
 そして遠くからは誰より心強い寿沙都さんの思いが、亜双義の意志がある。

 寂しがる必要なんて何もないじゃないか。

 「ありがとうございます、皆さん、ぼく……」

 皆さんにあえてとても、幸せです。
 ぼくの言葉を祝福するように、外では青い月が輝いていた。






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