>> テラスの席で





 それは、ある喫茶店(カフェ)での出来事だった。

 その日の私は朝から厄日で、朝食のトーストが炭のように焦げていた琴を皮切りに、通勤中に犬に吠えられる和、今日くる予定の書類は雪で届かないわ、買ったばかりの外套は馬車に泥水を跳ね上げられすっかり汚れてしまうわと全くろくな事がなかったせいで、午前中にまでは終わると思っていた仕事が思いの外長引いてしまったのだ。

 何とか昼食は胃に放り込む事が出来たが、行きつけの喫茶店でアフタヌーン・ティーを楽しむ余裕は到底ないだろう……だがそれでも、午後の紅茶を楽しまずに1日を終えるのは倫敦(ロンドン)市民として頂けない。そう思った私は行きつけの喫茶店に向かうのを諦め、普段は入らぬその喫茶店で午後のひとときを楽しむ事にした。

 選んだその店は赤煉瓦作りの小さな店だったが、調度品も上品な良い雰囲気の店だった。
 大通りに隠れるようにある店だったから今まで見落としていたが、普段行く喫茶店に劣る事もない静かな佇まいのその店が売りは焼きたてのスコーンと、倫敦の町を見渡せるオープンテラスだそうだ。

 倫敦の町並みを眺めながら紅茶が楽しめるといえば聞こえがいいのだろうが、生憎この倫敦は「霧の町」と呼ばれる程頻繁に霧が沸き立つ街でもある。

 幸い今日はいつもより霧が薄いとはいえ、それでも先を見通すには到底向いているとは思えない程に外は霧がかかっていた。その上、今の季節は冬……寒い中に凍えて紅茶を飲むという酔狂な輩は早々いないだろう。

 しかし生憎、今はアフタヌーン・ティーの時間だからだろうか。
 喫茶店はどの席にも人がひしめき合っており、肩と肩とが触れ合う程一杯になっていた。

 私は別に人見知りをする訳ではないが、パイプさえやれない程にひしめき合う中で紅茶を楽しめるほど鈍感な人間でもなかったから「致し方ない」そう思って、店主自慢のオープンテラスに行く事にした。
 幸い寒さはそれほどではなかったが、やはりこのまとわりつくような霧はお世辞にも美しい光景ではない。

 程なくして出された紅茶は温かく、焼きたてのスコーンも思わず唸る程に美味であったが、紅茶もスコーンも文句のつけようがない出来だったが故に、ますますこの不愉快な霧にうんざりした。

 これなら肩が触れる程の窮屈なカウンターで飲んでいた方が幾分かマシだったろうか……。

 そんな事を考えながらカップの淵を指先で撫でると、霧の中にこの陰鬱なかすみの世界に到底似つかわしくない、花の咲いたような艶やかな薄紅色が目に飛び込んでくる。

 フリルのついたドレスやジャンパースカートという類の服ではない。
 まるで1枚の布を身体に巻き付けたような衣服と、ズボンのようにもスカートのようにも見える裾がふわりと広がった下衣とは、あきらかにこの国の装いではない。

 おそらく、異国の土地が者だろう。

 我が国が多くの領土をかかえ、他国より「日の沈まぬ国」と呼ばれて世界の中心ともいえる役割を担ってからもう随分長い。異人を見る事も珍しくはないのだが、あの衣装は初めてみるものだ。
 以前、友人の使用人が印度(インド)の出身だといい我々とはまた違う服を着ていたが、あの衣装はそれとも違う。彼女の顔立ちからすると東洋人だが、さて、東洋にあのような艶やかな装いをする国などあったのだろうか……。

 突然現れた薄紅色の花を目の前に、もっていた本を読むのも止めあれこれ憶測を巡らせていれば、程なくして彼女を見付けたのだろう。頭からつま先まで、カラスのように真っ黒な服を着た青年が、耳慣れないイントネーションの言葉で叫んで手をふると小走りで彼女のもとへと近寄っていくのが見えた。

 その刹那、それまでどこか不安げな表情をした少女の顔から、喜びと安堵とが入り交じった笑みがもれる。
 その笑顔はまるでつぼみであった花が開いていくような暖かさに包まれていて……隣にいる男をよほど信頼しているのだろうという事は、あきらかであった。

 黒衣の男もまた、彼女と同郷の人間なのだろうと私はさっした。
 身体のラインがよくわかる真っ黒な服の傍らには、湾曲刀(サーベル)とも決闘に使う刺突剣(レイピア)とも違う、刀剣と思しき長モノに真っ赤なハチマキが巻き付けられている。

 年頃の男女が二人、しかも同じような東洋人だ。
 恋人同士か、あるいは夫婦の移民か何かだろうと思ったのだが、それにしては少し様子が違う風に思える。

 東洋人は我々より若く見えるからその年齢は計りかねるところだが、それにしても随分若く思える。しかし、二人の間には互い恋心に燃え周囲の目さえも恐れない若者特有の無謀さがは感じられなかったのだ。

 むしろその落ち着きは、まるでビジネスパートナー……秘書と会話する株式仲介人といった様子にさえ思える。
 だがその二人は単純な「ビジネスパートナー」として見るほど冷えた関係でもないように見えた。

 本人たちが気付いているかまではわからないが……話しをする二人の笑顔は希望に満ち、幸福そうで……お互いの肩は触れ合う程に近いのだ

 それは、男が確かに少女の事を尊敬し、少女が確かに男をまた信頼していなければ生まれない距離だったのだろう。


 「なるほど……」


 無意識に呟いて、私は口もとに手をやる。
 恋人のようでもあり、友人のようでもあり、相棒のようでもあり……そしてその全てである関係。なるほど、そういうものも、あるのかもしれないな。

 そんな事を考えているうちに、二人は霧の中へと消える。
 その姿を見送ってから、私も静かに店を出た。

 上等の紅茶を飲んだ時より、何故か暖かな気持ちを抱いて。





 月日の流れはあっけなく私を飲み込み、気付いた時にあの喫茶店で不可思議な東洋人の男女を出会ってから数ヶ月の時が流れていた。

 その日は別段厄日で仕事が推していた訳でもなかったのだが、私があの喫茶店に訪れたのは、紅茶とスコーンが上等だっただけではなく、ひょっとしたらまたあの二人を見る事が出来るのではないか……そんな淡い期待があったからだろう。

 以前来た時は冬だったが、今は日差しも心地よい。
 霧も以前より薄かったので、店内は開いていたのだが私はまたオープンカフェの席を陣取る事にした。

 そうして本を読み、紅茶を楽しみながらひょっとしたらあの道の向こうから花のような少女が現れるのではないか……カラスのように黒いあの青年と連れ立って、この倫敦の町並みを寄り添うように歩いているのではないか……そんな僅かな期待を抱いて街頭に目をやるが、そう毎回うまくいくはずもなくティータイムは静かにすぎていった。

 だがしかし、期待していた男女の姿は現れない。

 愛情ではない。
 だが友情をこした絆を感じる二人の東洋人……その奇妙な関係に心打たれて再び会えるのではないかと期待していたのだが、どうやら徒労だったようだ。

 そうして立ち上がろうとする私の前に磨き上げられた革靴のように真っ黒な衣服をまとった青年が現れたのは、まさにその時だった。

 背筋のよい歩き方と腰に下げた立派な刀剣とは裏腹に、所在なさげに目が泳いでいる。
 誰かを待っているのか、よもやあの少女を……。

 そう思って眺めていれば、程なくして彼の目の前に現れたのはまだ年端のいかぬ少女だった。
 おおよそ子供と呼んでも差し支えのない、愛らしい娘だ。

 よもや、彼の子供かと思ったがそれにしては少女は大きい。
 もう10歳かそこらになっているだろう。青年は10代か、あるいは20代頭くらいに見えたから、いくらなんでも親子ではあるまい。

 それに少女がこの国の人間だという事は、綺麗な上流階級のアクセントで放たれた英国語から伝わってくる。
 彼らの会話は流石に聞こえないが、あの様子から察すると以前の少女は…………。

 ……今は、ここにいないらしい。

 あるいは、もうこの街にもいないのかもしれない。
 青年の所在なさげな様子は、彼女がそばにいないからだろうな、と私は勝手に推測した。
 幸い、青年の英語は流暢で会話には困っていない様子だった。

 だが、同郷の知り合いがそばにいないのはやはり心許ないのだろう。
 すっかり温くなった紅茶をすすりながら二人を眺めていれば、その二人が間を割って入るよう長身の男が姿を現す。

 ……あの青年と少女の保護者といったところか。
 現れた長身痩躯の男は、何やら一方的に二人へまくし立て大げさに身振り手振りを交えている。

 先に「長身の保護者」と感じたが、この三人の様子だと保護者はあの東洋人と少女の方で、一等に大人であろう長身痩躯の壮年がよっぽど子供っぽく見えた。
 そういえば……あの長身痩躯の男は何処かで見た気がするのだが気のせいだろうか……。

 あれこれ思慮を巡らせながら三人を眺めていれば、どうだろう。
 不安そうな青年の目が、見る見るうちに輝いていく。その瞳の奥には、今は傍らにいない少女の姿もうつしているような気がして……。


 「……良き倫敦の旅を、異国の人」


 私が無意識にそう呟いていたのは、きっと彼と彼の奥にいる少女の幸福を願わずにいられなかったからだろう。

 長身の男と少女とに連れられ、霧の街へ消えていく青年を眺めて、私も喫茶店の席を立つ。
 その日霧はいつもより薄く、空は抜けるような晴天の光が降り注いでいた。






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