>> へし切長谷部と老審神者






 お呼びでございますかな、へし切長谷部様……。
 現れた男は白髪を綺麗に整え、きっちりとアイロンがけしたワイシャツとベストという出で立ちで背後に立つその背筋は、相当の高齢とは思えぬほど真っ直ぐに伸びており、淡く輝く月の下長い影を伸ばしている。

 モノクルの向こうから伺える目は糸のように細く深く刻まれた皺が垂れてきている為に笑っているよう見える事だろう。
 だがその瞳がいくつもの死地を見据え、数多の躯を乗り越えた色に染まっている事にへし切長谷部は気付いていた。

 老齢の男は自らが「審神者である」という事以外の素性を、あまり語ろうとはしなかった。
 常に穏やかに任務についての指揮を任せ、本丸でただ戦果を待つ……老いた身体では戦に参加する事が叶わぬ故に、指揮官としての座に甘んじているのだろうがその戦略理解は乱世をもって大躍進をとげた織田信長という魔王を知るへし切長谷部からして見ても、洗練されたものであった。

 そんな名采配を振るう軍師の姿も、日常はその影さえ見せぬ。
 戦場から戻ってきた戦士達に対してはいたって従順な従者であり、怪我をした剣士に対しては適切な処置を施す意志であり、日常においては生活管理を徹底し付きそう姿はその出で立ちもありまるで老執事を思わせた。

 そんな厳しい表情が多い半面、休憩時に安楽椅子へこしかけて抱っこをねだる五虎退を優しく撫でる姿などはおおよそ血腥さとは無縁の生活をおくってきた優しき老紳士にしか見えなかっただろう。

 それでもへし切長谷部が、彼こそ自分たちの誰よりも「命」に対して残酷に振る舞えるとそう確信していたのは、彼の足音があまりに静かだったからだった。

 振り返るまで傍に居る事に気付かせない程に静かな足音。
 刀を抜いた事にさえ気付かれない程の迅速な抜刀。
 そして古今東西、あまりにも「知りすぎている」軍略、暗殺術の数々……。

 語る事がない影の中、ほのかに漂う血の匂いをへし切長谷部は、感じられずにはいられなかった。
 そうそれは、かつて自らが使えていた「織田信長」が漂わせていたにおいであり、今でも自分の身体から拭い落とす事の出来ない血のにおいだったからだ。


 「お呼びでございますかな、へし切長谷部様」


 無言のまま老紳士を見据えるへし切長谷部の様子を妙と捕らえたのだろう。
 再び静かだが、やけに通った声で彼にそう語りかける。


 「あ、あぁ……いや……そうだな……」


 彼はどうやって話を切り出そうかと一瞬戸惑う素振りを見せたが、この老いたる鷹を前にしてあれこれ面倒な言い回しをした所で真意を隠す事など到底出来ぬとすぐに思い直し、真っ直ぐに彼の姿を見据える。
 張りつめた彼の気持ちを察したのか、老紳士は微かに眉を動かしたがすぐに冷静さを取り戻し、恭しい礼をしてから彼の方へと向き直った。


 「主よ、貴方に以前から、言いたい事があったのだが……いいな?」
 「はい、お申し付けとあらば」


 直立不動のまま、老いた審神者は静かな語調で告げる。
 月は相変わらず朧気な光を、窓辺へと届けていた。


 「いや……以前から思っていたのだが、主よ。貴方は……貴方は、俺達の主なのだよな」
 「左様でございます」

 「それだったら、そのように他人行儀な話し方をする必要はないんじゃないのか?」
 「と、申されますと?」

 「主である貴方にまるで、従者のような態度をとられるというのはどうかと思う、という事だ。主は我々を生み出した、いわば創造主……我らにとって『父』のような存在なのだろう。我らが仕えるべき主がそのように、我々にへつらうような態度をとられるとやりづらい……もっと砕けた呼び方をしてはもらえないか?」
 「どういう事でしょう、へし切長谷部様」

 「つまり、『様』はいらない、と。そういう事だ。前の主がつけた『へし切』なんて忌々しいあだ名もな。俺なら、長谷部でいい。すなわち、そういう事だ」


 老いた紳士はモノクルを縁に触れる。
 その表情は、不意に月が雲で隠れてしまってよく見えない。多少は、困っているのだろうか。


 「そのように仰せられましても、私は元来『主に使える身』であります故……」


 審神者である男はゆるゆると自らがモノクルの縁を撫で終わると、穏やかに口を開く。
 困っているのだろうと思ったが、流れた雲の隙間より差し込む光の向こうには張り付いたような笑顔をした老紳士の顔が見えた。


 「私にとってこの『審神者』という立場は、望んで得たものではございませぬ。言うならば、偶然手に入ったもの……本来の私めは主がなすべき事に助力をするただの従者にすぎませぬ。故に、前線に赴いて傷つき戦う皆様を前に『主君』として接する事など私のような卑しい身分の男には相応しくないと、そう思っております。ですから皆様とはこのような立場で……傷つき戦う皆様をお助けし、お世話するのが、己が立場と心得ております。故に、戦人である皆様を私めのような身分のものと対等に接する訳には参りませぬので……へし切長谷部様、お申し出は嬉しく思いますがどうかそのようなお願いは、ご勘弁の程をよろしく申し上げたいと……」


 まるで準備されたかのような長台詞を流暢に、かつ丁重に語る姿に相変わらず隙はない。
 彼が本来「主がなすべき事に助力する為の従者」としての仕事をしていたのは、恐らく嘘ではないのだろう。

 それ故にへし切長谷部は、この老いた審神者の態度や言葉に居心地の悪さを感じていた。
 同族嫌悪、とでもいうのだろうか……。

 彼は一つため息をつくと、老いた鷹から目をそらす。
 そして脳裏にこびりついた魔王の記憶、その鱗片をぽつりぽつりと語り出すのだった。


 「……俺は信長の刀であった」


 刀であった頃は心もなく、ただ主君・信長の傍らで見ているだけだった頃の記憶が自然と口から零れ出たのは妖しい月の魔力に魅せられたからだけではないだろう。


 「存じ上げております」


 静かに揺れる月の輝き同様、老いた紳士もまた静かに頷く。
 その姿を隣に、彼はさらに言葉を続けた。


 「俺の以前の主は……ろくでもない男だったと。少なくても俺は、そう思っている」
 「左様でございますか」

 「あぁ、左様だとも。そんなろくでもない男の寵愛を受け、多くのろくでもない企みを目の当たりにし、ろくでもない命令を受け、ろくでもない事を山ほどしてこの身体いっぱいに血を浴びてきた……へし切の名も誉が如く語られているが実際はどうだ。怯えて逃げる無力な茶坊主を切り殺したという無体な名だ」
 「私は、そのようには思ってはおりませんよ、長谷部様」


 老いた審神者の言葉は淡い月の光のように優しく彼を包み込む。
 だがその声は優しかった故に、へし切長谷部はより強く自らの闇を傍らに感じ、その優しさを拒絶した。


 「違うんだ、俺は!」


 肩に触れようとする老審神者の手を、彼は強く払いのける。


 「俺は! ……織田信長と大差のない、ろくでもない男なんだ。あの主と同じように傲慢で残虐で……それでいて自分勝手な、そんなろくでもない人でなしだ。だから……だからどうか俺を、あまり丁重に扱わないでくれ」
 「長谷部様……」

 「どうか俺に命を捨てる覚悟をくれ。主命を与えろ。敵の前に俺を差し出し、存分に血を浴びさせてくれ! ……俺は、貴方の忠犬。いや、あなたの道具だ。だから……存分に、使い潰してくれ。俺の命になど、価値はないのだからな」


 まるで吐瀉物をぶちまけるように、へし切長谷部は早口でまくし立てる。
 その姿を、老いた審神者はただじっと静かに眺めていた。


 「……それだけだ。わかったらもう……もう俺を」


 どうか人とは、思わないで欲しい。
 畜生のように扱い、道具として使い潰して欲しい。
 殺される価値こそあれど生きる価値などない自分には、それが相応しいのだから。

 その願いを口にするより先に、やわらかな感触がへし切長谷部の頬へと触れる。

 それは、老いた紳士の手であった。
 白手袋に覆われたその手は老いている故に枯れ木が如く細く節々の関節にあるくぼみが手袋ごしにも伝わったが、何故か温かくそして柔らかに思える。


 「心配なさらなくとも、大丈夫ですほ。長谷部様……私は貴方を、手放したりは致しませぬから」
 「あるじ……」


 触れられた指先から微かに感じる温もりに顔を向ければ、差し込んだ月光が老いたる審神者の穏やかな笑顔を映し出す。


 「だからどうか安心して、私の刀であってくださいませ……そしてどうか、どうかご自分の心を傷つけないでくださいませ、長谷部様。あなたの手が血で汚れるのも、全てはこの私めが望んだ事……貴方が気に病む事ではございません。貴方の罪はすべて、私が担って煉獄へと向かいましょう。ですから……どうか、ご自愛を。あなたは、何も悪くないのですから」
 「……違う、俺は」

 「元来、心なくただ道具として扱われていれば幸福であったはずのあなた方に、人の苦しみを教えてしまったのが、私めの罪でございます」
 「あるじ……」

 「あなたが戦場に立つにはあまりにお優しい方だというのは、存じ上げておりました。しかし私は……任務遂行の命がある故、貴方に心を与えずにはいられなかった……貴方の苦しみは、私が作り上げたもの。恨むのでしたらご自分ではなく、どうかこの私めをお恨み下さい。自らが殺せる力を持つ事を呪うのでしたら、その怒りも憤りも全てこの私めにぶつけてくださいませ……長谷部様。私は、そのための道具……審神者とは、そういうものでございますから」


 へし切長谷部の中にあった黒い蟠りのようなものが、僅かだが消え失せたように軽くなる。

 心を作ったのが、男の罪。
 それだからこそ、自分たちの従者として尽くす……。

 審神者の言葉は最もらしく聞こえた。


 「……あなたは、必要とされておりますよ」


 だが、その優しい声が耳に絡み胸に暖かなものがこみ上げる事実が、男の罪を否定する。


 「あるじ、あるじ……」


 それまでへし切長谷部を留めていた何かが緩やかにほどけていくよう、目には自然と涙が溢れいた。


 「主、貴方が……貴方の考えはそうだ、わかった。受け入れよう、だけれども……」


 心を作った事が罪だというのなら。


 「貴方も自分を、大切にしてはくれないか? 己だけが咎人の如く振る舞うのはやめて、一緒に……一緒に背負わせてくれ……そうでなければ……」


 仮初めの心が罪だというのならば、出会えた喜びさえも罪になってしまうのだから。
 こうして出会い、言葉を交わし、ともに死地を乗り越えて……違いを労り信頼する、そういった思いまで彼は罪にしたくはなかったし、またそういった喜びだけを与えられ、血に濡れた罪だけをこの老いた男に背負わすのはあまりに残酷すぎると、そう思ったから。


 「そうでなければ俺は……」


 だがその思いを紡ぐ言葉を、へし切長谷部は知らなかった。
 ただ止めどなく溢れる涙を受け止めるかのように、老いた審神者は男の身体を抱き留める。


 「俺は……あるじ、あるじ……」


 審神者の胸から、嗚咽が漏れる。
 老いた彼の手は相変わらず数多の死を知る血腥さが陰り、その目は沢山の躯を見据えてきた深い影を感じさせる。
 だがそれでも身体は温かく、その手は優しさに満ちていて……。

 へし切長谷部は泣き続けた。
 まるで長い長い悪夢を見ていた子どもがぐずるようににただ、泣く事しか出来ないでいた。

 老いた審神者はただその涙を温もりで受け止める。

 その罪の重さも、涙を流す恐怖も、言葉にならぬ感謝も全て老いたる彼には解っていた。
 だからこそ老いた審神者は全てを受け止め、また彼の忠臣もその胸で密やかに飼い続けてきた闇の全てをさらけ出す事が出来たのだろう。

 へし切長谷部はただ、声を殺しながら噎び泣く。
 その身体を抱き留めた老審神者は慰めるように、そして慈しむようその身体を支えながら、その涙の器となる。

 支え合う二人の影がより濃くなる中、月だけはやたらと美しく輝いていた。






 <心がへしへしするんじゃ〜>