>> 長い昼休み
程なくして10月を迎えようとしていた。
風は夏の暑さも忘れ、彼岸も過ぎた事から肌寒く思える日も多くなってきている。
だが、風は鋭さを増しても光の恩恵は相変わらず暖かく、昼ともなれば体育館の天窓から零れる僅かな光でさえ汗ばむ程に暑くなる。
別段、誰かに乞われて練習をしている訳ではない。
けれどもその日、月島蛍は自ら望んで体育館へと来ていた。
昼休みが始まったばかりの体育館は、本気で上の大会を目指す熱心な運動部員たちの他にも、一時の休息を求めてステージの上でおおよそ学生らしい談笑を楽しむ集団やら、別段運動部などにいる訳ではないが、休息時間に軽く身体を動かそうと思いたち遊技に近いバスケやバレーのまねごとをする生徒やらが一同にごった返している。
「……こんな所じゃ」
練習には、ならないな。
誰に聞かせるつもりもない独り言は最後まで語られる事もなく、月島は滴る汗を拭いながら人目につかない場所へと腰掛けた。
普段なら「ツッキー、ツッキー」と呼び付き慕う山口の姿はない。
朝の練習で先輩である菅原に声をかけていたから、きっと何処か別の場所でレシーブの練習でもしているのだろう。
「全く……」
皆どうしてそこまで熱心に練習を続けられるのだろうか。
熱意をもって練習にどれだけ打ち込んでも、才能の壁、体格の差、その他もろもろの要因がいつかその努力を容赦なく押しつぶす事を知っていた月島は、本気で挑むチームメイトたちを何処か冷めた目で見ていた。
だが不思議な事に、冷めた目で見て、距離をおこうとしている自分に苛立っているのもまた事実だ。
あのように頭を空っぽにして、何も考えずに全てをなげうちバレーに打ち込む事が出来たのならどれだけ心持ちが楽だったろうか、と思う事もある。
「ん……」
体育館の片隅で背を伸ばせば、天窓から入る明かりは心地よく彼の頬を撫でる。
月島はバレーだけではなく、勉学にも励んでいた。スポーツに熱中する事が必ずしも悪い事だとは思っていなかったが、それで勉強を疎かにしたら将来、自分が本当にやりたかった事が出来なくなる……そんな気がしていたからだ。
だが、部活は早々に切り上げているとはいえ勉学との両立は身体に堪えるのが正直な所だ。
まだ学生、年齢は若いがそれでも。
(無茶をしているよな……)
深夜に近い時間まで机にかじりつき、眠い目をこすりながら早朝の練習に加わる……。
以前の自分だったら想像しただけで鼻で笑いたくなるような生活は、確実に彼の身体に疲労を蓄積していった。
……それにしても、心地よい光だ。
体育館の開けっ放しの扉から吹きつける風はすっかり秋めいて少し寒いくらいだが、日溜まりの中にいればその冷たい風も心地よい。
火照った体をさますような冷たい風と、疲れを癒すような日の温もりは知らない間に月島を、僅かな間夢の世界へ誘った。
『兄ちゃん……兄ちゃん』
夢の中で、月島はまだ小さい子どもだった。
自分より遥かに大きな……今は自分の方が背が高いのだが、あの頃は自分よりずっと大きく見えた兄の背中を必死に追いかけて歩く。
兄は一度振り返ると、こちらに向けてボールを投げた。
いつも使っている、練習用のバレーボールは使い込まれておりボール全体が薄汚れて毛羽立っているが、それこそが兄が弛まぬ努力をした証だった。
『兄ちゃん……』
月島は知っている。
兄がバレーに懸命に打ち込んでいたという事も……懸命に打ち込んだが、それが結果に結びつかなかった事も、格好悪い自分を見せたくない一心で、格好悪い嘘までついていた事も。
『蛍。俺はさ、お前の前では……』
兄の影は何か言いかけるが、逆光になっていて表情はよく見えない。
唇が僅かに動くのはわかるが、その言葉は聞こえない。
『兄ちゃん……待って、待ってよ兄ちゃ……』
……置いて行かれるのが怖くて自然と早足になるが、すでにこちらを見ていないその背には届かない。
『兄ちゃん……ぼく……ぼくは……』
呼べば呼ぶ程遠くなっていく兄の背中を追いかけて……。
「兄ちゃん……」
瞼をあければ、兄がすぐ目の前にいた。
穏やかに笑って、こちらを見ている……。
いや、兄がここにいるはずがない。
兄は自分よりずっと年上で……もうこの学校には、通っていないのだから。
夢を、見ていたのだ。
そう認識するより先に、目の前の影が声をかけた。
「よぉ、おはよう月島……悪いな、休み時間中に」
目の前にいたのは、澤村大地……自分が所属する排球部の主将を務める男だった。
自分の兄とは体格も一回りはちがうだろう。だがその物腰や語り口調などはまれに、兄に重なる部分がある。恐らく排球部の主将として何かと他人の世話を焼く、そんな兄貴肌な性質が自分の兄と重なるのだろうと月島は何となく考えていた。
「あぁ……先輩」
涙を拭うのをごまかすように汗を拭く。
気づけば昼休みももうすぐ終わる頃だろう。あれだけいた生徒たちの数も、すっかりまばらになっていた。
「いや、探したぞ。まさか一人でこんな所で練習してるなんてな……」
茶化すようにいう澤村から、月島は視線を逸らす。
「別に練習とかそんなんじゃないです」
実際練習にもならなかったのだから嘘ではないだろう。
しかし澤村は、さぞ知ったかのように頷くとゆるゆる立ち上がる月島と並んで歩き始めた。
「いや、お前が少しでも練習しようって思ってくれて嬉しいよ。月島は体格に恵まれているんだから、練習すればもっと思い通りのプレーが出来るはずだからな」
思い通り……。
その言葉に違和感を覚える。本当だろうか、という疑惑が芽生える。
自分の兄はあれほどに懸命に打ち込んでも、その舞台に立つ事さえ許されなかったというのに……。
「……別に」
月島はそれ以上何も言わず、校舎の向こうにある空を見た。
抜けるような秋晴れの向こうにある雲は灰色に染まり、重苦しく垂れ下がって見える。
この麗らかな陽気も程なく終わり、冷たい冬が迫っているのだろう。
彼のそんな後ろ姿を見て、澤村は一度ため息をつく。
そうして「そういえば」とわざとらしい前置きをすると、綺麗にラッピングされた紙袋を差し出した。
「お前がどう思おうかは勝手だけどな……必要とされている事は、忘れないでくれよ」
振り返ればその手には、綺麗な模様入りの紙袋が握られていた。
『お誕生日おめでとうございます!』『ツッキーおめでとう! ツッキー!』
『お前より絶対高く跳んでエースになるからな!』『……おめでとう』
『おめでとう』『おめでとう』『おめでとう』……。
部のメンバー全員分のメッセージがぎっしりと、煌びやかな模様の上から油性ペンで書かれている。
それぞれちがった『おめでとう』はひしめき合いながら、それぞれ彼の生誕を祝っていた。
「…………誕生日おめでとう、月島。そして、排球部に来てくれて、ありがとう」
いつも何処か厳しさを感じる澤村の笑顔が、今日はやたらと暖かい。
月島はそれを受け取ると「ありがとう……ございます」聞こえるか聞こえないかの僅かな声でそう告げてから、逃げるように走り出した。
「おい、月島」
後ろから澤村の声が聞こえるが、振り返る事が出来ない。
……それでなくても今日は澤村を前に『兄ちゃん』だなんて、柄にもない言葉を口走ってしまったのだ。
歓喜と戸惑いに溢れたこの不器用な笑顔まで、彼に見られたくなかったから。
「……ありがとうございます、って……みんなにも言っておいてください」
しばらく走って、表情が見え辛くなるまで距離をとると、月島は振り返り再度、澤村に声をかけた。ここからは見えないが、澤村はきっと笑っているのだろう。
手を振りながら一度、大きく頷く澤村の姿を見て、月島はどこか安心している自分に気が付いた。
予鈴がなる。間もなく午後の授業が始まるのだろう。
長い昼休みがようやく終わろうとしていた。