>> ハムチーズハチミツ
一体いつから眠っていたのだろう。
窓から吹き荒ぶ冷たい風に頬を撫でられようやく目を覚ました私は、周囲がすっかり暗くなっている事で自分が少し長く寝過ぎている事に気が付いた。
「あぁっ、しまった……研究ぅ……巨人っ」
まだ記憶も曖昧のまま本能的に立ち上がれば、ばさり。
そんな音をたてて肩から「何か」が落ちたような気がする。
だけどここは戦地のまっただ中とも言える城壁の外だ。
今は幸いにして日も落ちているのだが、だからといって油断はできない。
外の世界は巨人の巣窟で、私たちはここでは巨人たちに弄ばれる玩具に過ぎないのだから。
寝惚けたまま目をこすれば、眼前には開かれた窓からの風景が見えた。
すでにすっかり日は落ちている。巨人たちからあまり目立たないようにするため、松明の炎も殆どない。
ただいくつかの室内からほんの僅かに灯火の光が揺れ動くばかりであった。
「あぁ、そうか……何時の間にか、夜になってたんだ」
私は深くため息をつくと、そのままへたり込むように椅子へともたれかかる。
夜ともなれば――より正確に表現をするのなら、光さえ浴びなければ。といったところだろうが――巨人は身動きをとらず眠りにつくという事を、私は私自身の研究でよく知っていたからだった。
日中は壁の外にいるだけで気が休まる事などないが、光のない今ならそれほど警戒する事もないだろう。
私は椅子にもたれたまま、窓から運ばれる心地よい風を胸一杯に吸い込んだ。
しかし、一体どれくらい眠っていたのだろう。
机においたメモ帳は書きかけのレポートが眠る前そのままの形で放り出されていた。
他の仲間達からはこの研究メモの半分以上が私の妄想だと受け取られているようだが、私自身決してそのつもりはない。
研究・実験に誇りもあるし、命を賭して皆が残した記録の全ても役立てている。巨人との戦いにおいて最も大事な情報を、私は綴っているつもりだしその自負もある。
だが、今日の私は少し疲れすぎていたようだ。
眠りにつく前にされた走り書きは到底読める風には出来ておらず、ただ蚯蚓が這い回っているようにしか見えなかった。紙もインクも貴重だというのに、随分と勿体ない事をしたものだ。
確か今日は、半ば日が傾きかけた時間に思考をまとめようと椅子に座った所までは覚えているのだが……。
この時期にしては暖かな西日の温もりに抱かれ、日頃の疲れもあってか、そのまま微睡みに誘われうっかり眠ってしまったのだろう。それから先の記憶はぷっつりと途切れている。
「知らない間に疲れてたんだなぁ」
私は頭を掻きながら、知らずに大きなため息をつく。
だが、巨人の襲撃がなかったのが幸いだ。
もしうっかり眠ったまま襲撃をされたのなら、私の命も危うかった事だろう。
安堵を覚えて気がゆるんだその時、私の腹が一度「ぐぅ」と音を立てて自己主張する。
……そういえば、今日はまだ夕食を食べていない。
どれだけ眠っていたかは解らないが、皆はもう食事を終えてしまったのだろうか……。
「全く、ご飯を食べるんなら私も呼んでくれればよかったのに……」
私は一人頬を膨らませると、皆が集まる食堂へとおりていった。
ドアからは微かに明かりが漏れているが、皆が集まりにぎわって食事を楽しんでいるような気配はない。
壁の外では食事こそ数少ない娯楽の一つである。
しかめっ面のまま食卓を囲み、無言のまま干し肉やら、石のように堅いパンやら、殆ど塩気のないスープやらを飲める奴なんて早々いないのだ。
きっともう他の面々は、食事を終え各々の部屋に戻ってしまったに違いない。
私は自分が思っていた以上に長く寝ていた事に気付いて、苦々しく呟いた。
「まいったなぁ、そんなに遅くまで寝てたなんて……まさか、みんな食べられてないよね。残り物でもあるといいんだけどなぁ」
私は心許なげにそう呟くと、明かりの漏れる食堂そのドアを開けた。
粗末な木で誂えたテーブルと椅子。
その上には鈍い銀色に輝く燭台と赤々と燃える蝋燭の炎がある。
その向こうに、彼はいた。
同年代の男として見れば、その身体は遥かに小柄といっても言い過ぎではないだろう。
だがその鋭い視線は見るものを圧倒し、どんな大男でも黙らすような気迫をまとっていた。
何処か人を突き放したような風貌と物言いをするこの男は常に人となれ合おうとはせず、一線の距離を常に保っている。
だからといって、決して白状な訳ではない。むしろ仲間を、犠牲者を追悼する気持ちは誰より持ち合わせている。
それが彼……リヴァイと言う名の男だった。
「兵士長」あるいは「兵長」という役職も、「人類最強の兵士」という呼称もすべてこの男を指す。
その名の通り彼は多くの巨人たちを駆逐し、追い立て、そして殺す。そんな技術に関しては人並み以上のものをもっていた。
それ故に彼は時に羨まれ、時に恐れられて。期待と羨望と、それらとはまた違った異質な視線で出迎えられる事が多かったのだ。
彼は一人、古びた椅子に腰掛けると木製のカップを傾けていた。
なみなみと注がれた液体は深く赤い色をしている……。
「よぉ……ようやく起きたのか?」
カップの液体を一口飲み下したリヴァイは、鋭い視線をこちらにくれる。
「あ、あぁ……うん。ほ、他のみんなは?」
抑揚のない語調で問いかけるリヴァイの言葉に自然と緊張をし、思わず声がうわずる。
だがリヴァイはそんな私の様子にもとんと無頓着といった様子でカップを傾けていた。
「もう飯食ってとっくに寝てるぜ。今日はお前が一番最後だな」
テーブルの上はすでに綺麗に片づけられていた。
リヴァイは潔癖な所があり、ゴミや汚れ物を放置しておくのを許さないタチなのだ。
恐らく食後すぐに食器やら食べカスやら全てを綺麗に片づけさせたのだろう。よく見れば床にも塵一つ落ちていない。
……このぶんだときっと、私の食べる夕食も残ってはいなそうだ。
「そうかぁ……」
深いため息をついて椅子に腰掛ければ、リヴァイは無言で立ち上がる。
あれ、リヴァイ……何処にいくのさ。
そう口にする前に、彼はすっかり暗くなった食堂の奥へと消えた。燃料も貴重だから、余計な火を焚くことはなく殆どの部屋が夜ともなると暗くなるのだ。
普段は時間ともなれば仲間たちが押し掛け窮屈なくらいに思えるこの食堂も、一人でいると広く、やたらと静かに感じられてどうにも居心地が悪い。
リヴァイもあまり下らない雑談を喜ぶ性格ではないし、夕食もないのならこのまま居座っても仕方ないだろう。
何となく居心地が悪くなってきた私はそろそろ自分の部屋へと引き上げようかと、そう考え腰そわそわし出した。
そんな私の前に再度リヴァイが現れたのは、まさにその時だったろう。
片手には柔らかそうな白いパンを……もう片方の手には肉厚のハムやチーズが抱えられていた。少量だが、ハチミツのビンまである。
「あ、リヴァイ……それ」
「黙ってろ」
リヴァイはそれ以上私に何も語らせず、慣れた様子でナイフを手元で回す。
そしてパンに切り込みをいれ、ハムはいつもより厚切りに。
それにチーズを挟んだかと思えば、たっぷりのマスタードソースにピクルスもたっぷりはさんだサンドウィッチを作ってくれた。仕上げに僅かだがハチミツまで乗せている。
どれもこれも、食料の乏しいこの場所では贅沢な食材ばかりだ。
……ひょっとしたらどこかから盗んできたか、調査用の資源を誤魔化してもってきたのかもしれない。
そうとは思ったが空腹だった私はあえて多くは聞かず、彼の作る豪勢なサンドウィッチに目を輝かせるばかりだった。
「ほらよ」
やがてできあがったそれを、リヴァイは無造作に皿ごと近づける。
私のために作ってくれた、特性のサンドウィッチだ。
「あ……ありがとう、リヴァイ」
私はお礼の言葉もそぞろにできあがったサンドウィッチを頬張っていた。
肉厚のパンとピクルスの酸味、マスタードの辛味……それらをハチミツがまろやかにし、舌の上へ転がる……。
「う、うまい……これすっごくうまいよリヴァイ!」
驚きと喜びが入り交じった目を向ければ、リヴァイは私のカップにいっぱい赤い液体を注いでいた。
ワイン……のように見えたが、どうやらそれはブドウの果汁らしい。
「ワインになる前の未熟なブドウを搾った果汁だ。全然で酔う訳にもいかねぇだろうから物足りねぇかもしれんがな」
一杯に注がれた赤い液体はなるほど、若いブドウの香りがする。
リヴァイは元の席に座ると、かるくグラスを持ち上げて乾杯の仕草を見せた。
「あ、ありがとうリヴァイ……でも、なんでその……私にこんなに……」
こんなにも良くしてくれるのだろう。
リヴァイはこれで仲間を大事にする性分だが、それでもこんなに丁重にもてなされたのは初めてだった気がする。
だがリヴァイは私の質問に逆に驚いたようだった。
しばらく目を白黒させると、やがて呆れたように軽くため息をつきながらビンの底に残ったハチミツを味見でもするように自らの口に運んでいた。
「なんだ、自分で忘れてンなら世話ねぇな……」
それからゆっくり立ち上がり、未だ疑問がはれないといった表情でリヴァイの姿を見据える私を前に不器用に笑うと。
「……ハッピーバースディ、ハンジ・ゾエ」
……聞こえるか聞こえないかの微かな声で、そう呟いて。
微かにハチミツが塗られた唇を私のそれと重ねてから、それからはもう何も言わず黙って部屋より出ていった。
「あっ、あぁ……」
私の唇にハチミツの甘さと、リヴァイの温もりとが残る。
あぁ、そうだった。
この所日々巨人に追われ研究に没頭してすっかり忘れていたけれども、そうだ。私は……私には、誕生日がきていたのか……。
食事を終えて、食器を片づけ早々に部屋に戻れば、床に何かが落ちているのに気づく。
そういえば、起きた時に「ばさり」と何か落としたような気がしたが……拾い上げればそれは、普段リヴァイが着ている上着だった。
きっとリヴァイは最初から、私を待っていたのだろう。
私だけに振る舞う特別メニューをこっそり準備してくれていたのだけれども、きっと私が寝ていたから、そのまま寝かせておいてくれたのだ。
寒さで冷えて凍えないよう、自分の上着だけを置いて。
「あはっ……何だろう、こういうの……」
唇の上に、疼くような温もりと甘みが蘇る。
こういうのは少し、照れくさいけど……悪い気はしない。
私はその上着を抱くと、かたいベッドに身を投げた。
明日、何といって彼にこの上着をかえそうか……そんな事を、考えながら。