>> 緋眼
初めて彼女と出会った時、冷たく輝く彼女の視線が氷のように冷たくて、それに囚われた俺は、その目が。その手が。その吐息さえもがただひたすらに恐ろしいと感じたのは、彼女が暗殺を生業とし、黒き聖餐さえ行われれば、罪なき人さえ容易に手に掛ける。そんな無慈悲な人間を前にしたからなのだろう。
そうとだけ、思っていた。
だが、今は違うのだと思う。
今になって俺は、あの時感じた恐怖の真意がよくわかるのだ。
あの時感じた恐怖の、その正体が……。
記憶が廻る。
箱のように狭い馬車に押し込められ、囚人として護送された時の記憶だ。
……雪深いスカイリムの土地で、ノルドには「猫」と呼ばれ蔑まれるだけの俺が国境を越える危険まで犯してこの地にきた理由は他でもない、俺にはもう頼れる仲間も、故郷と呼べる土地もなかったからだ。
人生の大半を、大都市の裏路地でゴミのようなものを拾い生きてきた。
盗みに躊躇いもとまどいもなかったのは、生きていくためだ。
けれども、そういった生活が長く続けられるはずもない。
俺は、街の浄化を名目に行われた貧困街(スラム)狩りで追い出され、寄る辺のないまま逃げまどい……そうしているうち、仲間と呼べる存在は、あるものは投獄され、あるものは切り伏せられ、またあるものは俺も知らない何処かへと消えて……。
気づいた時は一人になり、国境を越えていた。
それがどんなに危険な事だったか……裏路地でその日の食い扶持にも困るような俺には、とんと見当もつかなかったという事情(わけ)だ。
そうしてウルフリックの一団に巻き込まれ、縄にかけられ、断首台へと送られる事になったその時でもさして抗おうと思わなかったのは、帝国兵の屈強な守りを前にしてはたとえ逃げ出しても逃げ切れる事はできない。そんなあきらめもあったのだがそれ以上に「自分は殺されるだけの事はしてきた」その自覚が、あったからだろう。
それにもう、俺はすっかり疲れ果てていたのだ。
故郷もなく、身よりもなく、仲間もなく……何もない浮き草として漂うだけのこの運命が、明日も明後日も続くのなら潔く首を落としてもらった方が、幾分か心地よいだろう。そう思っていたのだ。
……処刑という扱いであれ、刑罰で首を切られるのなら一応は誰か弔ってくれるのだろう。
墓をたててもらえる分、野ざらしで死ぬより幾分かマシだ。
そうとさえ思っていた。
だが、俺は生き延びた。
スカイリムを変えると息巻いて、ウルフリックとともに野山を駆り帝国に反旗を翻していた勇ましいノルドの戦士は死に、死にたがりの俺が生き延びてしまったのだ。
炎が立ち上がるヘルゲンの砦から逃れ、かび臭い洞窟を抜け……。
死にたいはずだった俺なのに、いざ自由を得るとどうだろう。まだ生きたいという図々しい欲望が頭をもたげてきて、結局俺は死からも逃げ出した。
そうして、自由の身となった俺は……自由になっても生活そのものは、以前の貧困街にいた頃とさして変わらなかった。
大都市のかび臭い下水道で寝泊まりするような真似こそなくなったが、拾った武具で身辺を整えて。
各都市の出すおふれに従い、山賊退治や財宝探しを続ける日々は、向かう場所が洞窟や遺跡に変わっただけで、街でゴミをあさっていた頃と、大きな違いなどなかっただろう。
とどのつまり俺は、以前の場所でも、このスカイリムでも何も変わる事の出来なかったクズだったのだ。
家族もない、身よりもない、故郷もない、居場所もない……。
そんな根無し草のままだったのだ。
だがそんな俺でも、誰かとのわずかな繋がりが欲しくて、人の頼みはよく引き受けた。
それが良い結果になるにせよ、悪い結果をもたらすにせよ……ただ、誰かに声をかけてほしくて、俺はそれでこそ「何でも」した。
心触れ合うような良い事も。
この手を血で染めるような悪い事も、それでこそ……何でも。
そしてアストリッドと出会ったのだ。
狭くかび臭いあの小さな小屋で……暗殺を生業にしているというのに、やたらと澄んだ眼をした彼女と……。
「殺しなさい。そうしたら、自由にしてあげるわ」
腕を縛られた三人の男女は、それぞれ自分勝手にわめき立てていた。
理由は様々だが、皆一様に「死にたくない」と訴え、俺に媚び諂う。
妙に湿っぽい小さな部屋で、三人の命を秤にかける俺を、彼女はじっと見据えていた。
闇の中に浮かぶ目……。
あの日はそう、やたらと紅い月が出ていて、窓からもれるその紅い光は、彼女の澄んだ瞳を赤々と照らしていた。
彼女が見守る狭い箱の中で、俺は初めて自分の意志ではなく、強要され人を殺した。
アストリッドは言った。黒き聖餐が行われ、俺の前に差し出された子羊たちは皆、誰かから死を乞われた罪深き人間なのだと。
だが、俺からすれば見ず知らずの他人だ。
誰かにとって罪人でも、俺にとっては咎のない人間だった。
それを、俺は、この手で、殺した。
全ては保身の為だった、そう思っていた。
だが……。
「オマエさんは、時々そうやってぼぉっと短刀を眺めている時があるようだな」
石の椅子に腰掛けながら燃えさかるたき火を前に短刀を眺めていた時、仲間である男がそんな声をかけた。
ローブを目深にかぶりいつも表情が読めない彼は、名をフェスタスと言ったか……それ以上の事はお互い聞かなかったが、噂好きの面々からかつては教壇にもたっていた、名のある魔術師なのだと聞いていた。
あまり素直な性質ではなく、俺を見れば悪態ばかりついていた気がしたが……よく彼には、声をかけられていた風に今となっては感じる。
俺の事を気にかけてくれていたのか、それとも俺を警戒していたのか……今となってはもうわからないが。
俺の手にある短刀はいつもぴかぴかに手入れされ、鋭い輝きを放っていた。
刃先には血の一滴も残さず、錆はもちろん指紋さえない。鏡のように磨かれた刀身は、よくノルドから「猫」と呼ばれる俺の毛むくじゃらの顔を映している。
「それだけ磨いても、磨き足りないもんかね?」
あきれる程に手入れをされた短刀を見て、フェスタスはあきれた風に笑った。
魔術師の彼には、俺の手にあるそれがただ磨かれたナイフ程度にしか見えなかったのだろう。だが、俺には見えていた。血肉を吸った赤い彩りが。苦渋にあえぐ人々のうめきが。
……あの時俺は、この短刀に映るこの彩りと喘ぎにかすかな美しさを感じていた。
そう、全てはアストリッドに、この場所へ招かれた時から……。
「……気が向いたら、聖域にきなさい。歓迎するわ」
彼女は俺を歓迎するといった。
どこにも行くあてもなく、用が済めばぞんざいに扱われる誰かの手駒でしかなかったしがない冒険者の俺を「歓迎する」といったのだ。
……それまで、夢に見るのはいつも同じ光景だった。
木箱のように狭い護送用の馬車にゆられ、今にも殺されようとする死刑囚だった頃の夢だ。
故郷を追われ、石を投げられ。松明を掲げ住処を暴かれて、逃げるようにこの場所に来た。
だがそこにも安寧はなく、相変わらず根無し草として旅から旅に生きるしかなかったこの俺を、はじめて迎え入れた場所。
それがここ……聖域だったのだ。
もちろん、この場所に来た当初は皆俺の事を訝しむばかりだった。
スカイリムの外から逃げるようにやってきた亡命者……どれだけ腕がたつかもわからない新人として、冷たい視線が注がれたのは今でもはっきりと覚えている。
頼りになるかわからない猫人(カジート)の若造が転がり込んできた……。
皆、そうとでも思ったのだろう。
だがその点でいえば、俺だって同じだ。
俺だって聖域(ここ)の連中を、相当訝しんでいた。
大体のところ聖域(ここ)の連中に、統一性というのはない。
アストリッドの夫はスカイリムにも多いノルドの人間だが、その正体はウェアウルフだし、魔法使いは破壊魔法の美学ばかり語りいつもエンチャント台と錬金台の間だをうろちょろしている。ダンマーに、レッドガード。伝説だと思っていたシャドウスケイルの生き残りだとかいうアルゴニアンまでいる。
その上、女の子どもだと思っていた少女は吸血鬼になり、成長しないままもう300歳を越えているというのだから怪しむな、という方が難しい。
だが、そんなはみ出しモノの俺たちは、だからこそ早くうち解けた。
みんなどこかに孤独があり、みんな心に軋みがあり、みんな過去に歪みがある。だからこそ分かり合え、語り合え、そして共に生活する事が出来ていたのだ。
「……殺してこい。お前なら、さして難しい事じゃないだろう?」
殺しの多くは、ナジル――自分の事は多く語らない、レッドガードの暗殺者だ――から、口頭で伝えられた。
最初はあまり気乗りしなかった任務も、いつしかさして苦にならなくなっていたのは聖域(ここ)が自分の居場所になり、仲間が俺の家族になっていた……そんな、思いを抱くようになったからだろう。
寄る辺ない俺に、居場所ができたのだ。
そしてこの場所を、家族を守るためならば……そのためならば、俺はどんな残酷な振る舞いでも出来たし、無抵抗の相手でも躊躇いなく手にかけるようになっていた。
俺は、家族のための刃となったのだ。
口煩い狼男を、小言ばかりの魔術師を、やたらと繊細なダンマーを、多く語らないレッドガードを、いつも俯いてるアルゴニアンを、300歳の子どもを、ペットにしては大きすぎる蜘蛛を、そして……アストリッド、彼女を守るための刃に……。
家族のために、その大義は俺のもっていた暗殺者の資質を尖らせていき、刃を彩る罪深い血の色も誇りとかわって、心地よく俺を酔わせていった。
全ては聖域のため。全てはその躍進のため。
そして、家族のため……俺は与えられる任務をがむしゃらにこなしていった。それが正しい事だと信じて。
だけど……。
だけどそう、希望というのはいつもわずかに光がさしたかと思えば、手を伸ばした時にその前で忽然と消えてしまうのだ。いつも、いつも、いつもそうだ。
……罠にかけられた俺がいないうちに、聖域は数多の兵へと取り囲まれ、まさに陥落する寸前となっていた。
どけ、どけ、どけ、どけ……。
囲んでいた衛兵たちを手にかけて、血と泥にまみれて進む俺を出迎えたのは木の上で無数の矢を受け磔となって息絶えたかつての仲間の姿だった。
「フェスタス…………」
それでもマジカがつきるまで、必死にこの兵士たちに抗ったのだろう。
ローブの裾は焦げ、息絶えた彼の指先はまだ魔術の印を結ぼうと伸ばされていた。
もう二度とこの口から、俺に対する皮肉も。卓越した魔術の詠唱も聴けないのだろう。
燃えさかる聖域を前に、俺はただ膝をつく。
俺はこの場所を守りたかったんじゃないか、この場所を守る為に彼女に……アストリッドに従ったんじゃなかったのか……。
聖域は、失われる。
故郷はもう、戻ってこない。
頭でそれは理解していた。だが現実を認めたくなくて。
このまま生き残ってしまうくらいなら、聖域とともに焼け落ちた方がどれだけ楽だろう……そうとさえ思った俺は、無謀なのを承知で今まさに焼け落ちようとする聖域に飛び込んだ。飛び込んで、夢中に兵を切り伏せ……煙が立ちこめるなか、何とかナジルを助け出し、そして…………。
……また、死にたがりの俺は生き延びてしまった。
「よかった、無事だったのね」
俺の傍らで、300歳の少女が微笑む。
「お互い、悪運が強かったようだな」
額をこづいて、ナジルが笑う。皮肉屋で滅多に表情を出さないナジルがあぁも笑ってくれたのは、あれ以来見た事はない。
結局俺は、生から抗えないようだった。
故郷である居場所をなくし、家族もたった二人になった。
そんな抗えぬ運命を背に俺は彼女の……アストリッドの、最後の言葉を聞いた。
「アストリッド! 生きていたのか、アストリッド……」
俺が見つけた時、すでに彼女の身体は焼けこげ木炭のように朽ち果てていた。
ただ誰かに自らの思いを吐露したい……その精神だけが、彼女を生きながらえさせている。そんな風に思わせた。
「私は……私はね、カジートの坊や……私は、ただ……」
私はただ、怖かった。恐ろしかったの。
息も絶え絶えに語る彼女の心は、最初俺が彼女に抱いた気持ちと同じものだった……。
……そう、俺は。俺たちは、最初からそうだった。
俺は彼女の中に自分の心を見いだし、彼女は俺の瞳の奥に、自分の心を抱いていたのだ。
迫害、孤独、軋み、歪み、それらの感情が一緒くたになり、すべてがその瞳の奥底に封じられていた。
俺たちはあまりに似ていたから、お互い同じような恐怖を抱いていたのだ。
そう、俺が恐れていたのは彼女が恐れていたものと同じ。
居場所を失う事を恐れて。
そして、俺が望んでいたのは彼女のそれと同じ。
ただ居場所を、家族を守る事だけを望んだ。
俺たちは同じ感情を抱き、合わせ鏡のように似た運命を辿っていた……はずだった。
俺は、俺たちは全く同じ思いで動いていたのだ。たった一つの小さな家族を守りたい、ただその一心で。
……だが何処でやり方を間違ったんだろう、何処で。
どこで俺たちの幻影は、すれ違ってしまったのだろう……。
ふと、気が付けば背中が温かい。
振り返れば今の相棒が……ナジルが俺と背中をあわせている姿が見えた。
「どうした、相棒。ぼぅっと短刀ばっかり眺めるのは楽しいか?」
「そうだな……」
短刀は相変わらず、鏡みたいに綺麗に磨かれている。
だがその刀身に以前のような血の彩りは見えない……。
「ははっ、心配するな……これからもっと大きくなるぞ。聖域(ここ)は」
ファルクリースの聖域を失った後、俺たちは拠点をドーンスターへと移し新たな任務についている。
ナジルはこれでかなりの野心家だ。
この場所も、夜母も……聞こえしものである俺をも利用して、きっと今まで以上の栄華を求め奮闘する事だろう。
あるいはそうする事でアストリッドの供養になる。
ナジルはそう、考えているのかもしれない。
「そうだな……じゃぁ、行こうか」
俺は静かに頷くと、短剣を……アストリッドの形見である短剣を携え、夜母が望むまま街へと赴く。
その日の月は、やたらと紅い光に包まれていた。
そう、初めてアストリッドと出会った時と同じように、やたらと紅い月が。
……さぁ、アストリッド、見ていてください。
俺は貴方が残したものを、こうして守ってみせますから。
だから今は安心して、静かに休んでいてください。
今暫く貴方に、闇の静寂という名の祝福を。