>> 抱(いだ)き抱(だ)きしめ




 澄んだ空は、手を伸ばせば触れる事が出来るのではと思う程に近くに思える。
 一つ、溜め息をつけばその息は氷るように白く宙を舞って消える。

 グラドを発ってから、もう何年たっのだろうか。

 ……敗戦国として。
 長く混乱状態にあったグラドを離れる民も多かった。

 だが先の戦で活躍したデュッセル将軍はじめ、ノールやナターシャ。
 まだ新米兵士だったアメリアなども率先して祖国の復興に尽力し、次第にグラドはかつての繁栄までとはいかないながらも、人が暮らし平和に笑いあえる時間を取り戻そうとしていた。

 街にはかつてのように荷馬が行き交い、商人たちの活気ある声が響くようになる頃。
 俺はひっそり、グラドを離れたのだ。

 ……グラドを離れた理由は、自分でもよく分からない。

 街が復興し、かつての賑わいを取り戻す最中、自分が出来る事ももうあまり無いと。
 そう思ったからかもしれない。

 戦の最中。
 軍人としての任務に背き、グラドへと槍を向けた自分が祖国へ住む義理がないと、そう思ったのもあるかもしれない。

 すでにあの国には兄も……家族も、王も。
 俺が尊敬し、この身を賭してでも守ろうと思えるものが全て無くなってしまった、その虚無感もあるのかもしれない。

 渦巻く思いに答えは出せぬまま、俺は大陸を旅していた。

 定住する土地はもたず、飛竜に……。
 ゲネルーガとともに風が吹く場所へ気が向くままに飛び、時たま村を荒らす輩の相手や商隊の護衛などで日銭を稼ぐ……。
 傭兵、あるいは冒険者と呼ばれるような生活をしながら、あてのない旅は続いていた。

 いつか自分の胸に渦巻く思いに答えが出たら、祖国に戻る事もあるのだろうか。


 「……兄貴」


 一人で考えていると、いつも兄の。グレンの顔が思い浮かぶ。
 兄はいつも、判断が迅速かつ信じたモノに対しては強靭な意志で立ち向かっていた。
 いつも迷いなく敵へと向かい、グラドを守る槍の役を担っていた。

 だが俺は……兄ほどは優秀な騎士でも、軍人でもなかったのだろう。
 立ち止まり、迷い、憂う事が山ほどある。

 この旅も、そんな俺の未熟な思いからさせたものだった。
 己の思いを貫く為にグラドを離れたはずなのだが……いつも考えてしまうのだ。兄ならどうするのかと。兄ならもっと正しい事を導き出すのではないか、と。
 もうどこにも、兄はいないというのに……。


 『ねぇ、何をしているのクーガー。何処にいくつもり? 一人は危険だわ。一緒に行きましょう』


 俺が一人、そんな思いを抱いて目を閉じれば決まって浮かぶ顔があった。
 艶やかな青い髪と無垢な笑顔をもつ少女……。

 世間というものをおおよそ知らないのであろう。
 誰に対しても対等に接しようとし、人は誰でも友達になれると、そう信じている世間知らずのお嬢様。

 フレリアの王女、ターナ姫の姿だ。


 『ねぇ、クーガー。また暗い顔をしているのね。一人であんまり考えこんでは駄目だわ。わたしに話して、辛い事があったら、一緒に支え合いましょう?』


 一介の兵である俺にも、分け隔てなく接しようとしていた。
 俺が少ししかめっ面をしていただけで、やれ腹が痛いのかだの、具合が悪いなら薬があるだの大げさに騒いでいた記憶もまだ新しい。


 『クーガー、ほら外は寒いわ。それなのに、そんな格好していては駄目よ。ほら、これ。わたしのものだけど、兄さまも使っているものだから男の人がつけても大丈夫だと思うの。これを首に巻くといいわ。きっと暖かいから、ね?』


 ……そういえば、今俺の首を暖めているこのストールも彼女から貰ったものだったか。
 無邪気で、無垢で、天真爛漫。
 子供のような、だが何処か放っておけない彼女の笑顔が、俺の心に寒さを忘れさせた。

 彼女は、今どうしているのだろうか。
 祖国フレリアで姫として、愛されているに違いないが……。


 『あはっ……見つけたわ、クーガー』


 思い返せば彼女はよく、俺の姿を追いかけていた気がする。
 いや、どんな兵でも分け隔てなく接し、同じ年頃なら友達になれると信じて誰にでも気軽に話しかけていた彼女だ。(最も彼女は友達作りが苦手で人見知りもするようで、上手に話しかけている事はまれだったが)

 特別俺と親しくしていた、というワケではない。
 だがよくそうやって、昼寝している最中や人と離れて食事をしている最中に俺の姿を探し、顔をのぞき込みに来ていた。


 『クーガーはいつも、お昼寝をしているのね?』


 飛竜を駆る俺はその機動力から、夜営の際に見張りを任されていた。
 その為、行軍の最中は昼に仮眠をとる事が多かったのだが、彼女はそれを知らなかったのだろう。

 最初はあまり気にしなかったが、度々見つかっては起こされるので、一度そう告げた事もあったか。


 『姫、俺は夜に警備をしているんだ。寝られる時には寝ておきたい……出来れば邪魔はしないでくれるか?』
 『けいび? クーガーは、夜に見回りをしているのね? ……もう、駄目よ一人でそんな事しちゃ危険だわ! 飛竜だって夜目がきくわけではないでしょう、今度からわたしも一緒に行くわ!』


 ……俺が危険な事をしている。
 それを知ると自分の事のように心配して、そんなワガママを言い出して俺やヒーニアス王子を困らせた事もあったか。


 『クーガー、クーガー、どうしてそんな遠くでご飯を食べているの? みんなと一緒に食べた方が美味しいわよ、はい、一緒に食べましょう!』


 グラド兵の俺が傍にいれば、軍のモノも気まずいだろう。
 そう思い、わざと人を近づけないようにしていた俺に、彼女は当たり前のように俺の隣に座ると一緒に食事をし始めた。


 『クーガー、今日はね。このスープ、わたしが作ってみたの。シレーネに教わって……ねぇ、味はどう? わたし、料理なんて殆どしたことないから……』


 差し出されたスープに口をつけるまで、不安そうに俺の横顔を眺めている瞳を今でも傍に思い出す。
 ……あの時差し出されたスープは、少し塩気が足りないものだった。


 『あぁ、悪くない。だがもう少し、塩がきいてればもっと美味かっただろうな』


 姫の前なのだからお世辞でも「美味い」と言うのが普通だったんだろうが、元より宮仕えなんてしたことのない俺だったから、思った事を素直に口にしていた。


 『もう、せっかく頑張って作ったのに、美味しいって言ってくれないのね……』


 悲しそうな顔をしてスープを見るターナの沈んだ表情を思い出せば、今でも胸が痛くなる。
 ……そう、あの頃だったか。
 彼女の笑顔を見れば自分の顔も自然と綻び、彼女が悲しそうな目をすれば俺の心が痛みはじめたのも……。


 『でも、いいわ。みんな、わたしが姫だからって気を使って本当の事はいってくれないのだもの。でもクーガー、貴方は本当の事をいってくれた……わたし、貴方が美味しいって言う料理がつくれるよう頑張ってみるわ。美味しい料理をたべれば、みんな幸せになれるものね』


 それからターナはしばしば、作った料理を俺に味見させたりもした。

 料理など滅多にした事はない。
 彼女はそう言ったし、実際に姫という身分だ。これまではする必要もなかったのだろう。

 だが根が真面目なお姫様だ。
 最初は拙い料理ばかりだったが、その味も少しずつ良くはなっていった。
 彼女に料理を教えている、シレーネという女性もなかなか料理上手だったのだろう。

 最も、フレリアの料理はグラド育ちの俺には少し薄味だったからか。
 最後まで俺が美味いという事は無かったのだが。


 目の前にくべた薪が、ぱちりと音をたてて弾け飛ぶ。
 隣ではゲネルーガが、その身を丸め寝息をたてていた。

 竜であるゲネルーガには、この土地の気温は少々冷たすぎるのかもしれない。
 いつもより動きが鈍く思える……。

 俺もあまり寒さに強いワケではない。
 そろそろ南へ飛び、暖かな土地でこの腕を振るうか……。

 しかし、一体何時までこんな旅を続けるつもりなのだろうか、俺は。

 自分の迷いが晴れるまでか。
 それとも、自分の罪が。グラドを裏切った罪が消えるその時までか。

 いつ来るかも知れぬその時の為に、俺は彷徨い続けるのだろうか。
 この世界を、大地を……。


 『あっ、見つけたわクーガー……もう、駄目よまた一人で難しい事を考えていたんでしょう? 駄目よ、一人でそんな顔してはだめ。わたしも一緒に考えるから……わたしは、世間知らずで甘やかされていたお嬢様だわ。でも、クーガー。あなたと一緒に悩む事は、出来ると思うの。だから……』


 差し出された細い手が、微かに震える姿を思い出す。
 ターナー姫の笑顔はいつも温かく、孤独であろうとする俺をその場から引きずりだそうとした。

 何故だろう、今日は彼女の姿ばかり思い浮かぶ。
 彼女の笑顔が、ワガママをいう時のふくれっ面が、闇を見れば怯えるか弱い目が、俺の隣で震える、小さな身体が。
 そして、震えながらも果敢に立ち向かおうとする勇気あるあの後ろ姿が……。

 目を閉じれば彼女の姿は、色鮮やかに描かれた。

 ……いや、今日だけではない。
 思えば俺は、彼女の事を思い出さなかった日など一日とてなかった。

 グラドにいる時も、旅している時も、目を閉じれば浮かぶのは天馬とともにある彼女の姿ばかりだ。

 だが彼女は姫で、俺は一介の兵士。
 しかも敗戦国の騎士だった男だ。

 身分違いにも程がある……。


 「……さぁ、そろそろ行くかゲネルーガ。次はもっと南に行くぞ、ここは少し寒く……昔を、思い出すからな」


 俺がゲネルーガに声をかけるより先に、ゲネルーガは何かに反応したようだった。
 首を高くあげ周囲の様子を伺うと、天に向かって嘶いてみせる。

 何かを警戒するように発せられた竜の咆吼は、天をつんざくばかりの勢いで当たりに響き渡った。


 「おい、どうしたゲネルーガ? 敵か!」


 こんな場所に人がいるとは到底思えないが、野生の動物なら山ほどいる。
 何か危険な動物が近づいている……ゲネルーガが、それにいち早く気付いたのだろうか。

 武器をとり周囲の様子を伺う俺に、ゲネルーガが再び咆吼をあげた。
 敵が近くにいるのか……。

 一度はそう思ったが、ゲネルーガの嘶きが普段と違うので敵ではないのだと察する。


 『ねぇ、クーガーお願いがあるの!』


 そう、この鳴き方はあの時、ターナに頼まれた時の嘶き方そのものだった。


 『わたしたち、天馬や竜を駆る人間は、空に出ると弓兵に狙われやすいでしょ? だから、わたしの天馬……この子は、アキオスっていうのだけれども。アキオスと、貴方のゲネルーガが声をかけあえば早く発見出来ると思うの。どう、いい案だと思わない?』


 弓兵は天馬や飛竜にとっては天敵……空を滑空する俺たちでも、弓相手では射落とされる。
 だから俺は彼女のその案を名案だと思い、すぐに承諾したのだ。

 ゲネルーガも利口な奴で、弓兵を見つければすぐに嘶くようになった。
 それから、ターナとも相談し、ゲネルーガとアキオスで幾つか嘶き声をきめ、戦が終わる頃には有る程度の通信が出来るようにはなっていたか。
 今のゲネルーガは、その時アキオスにはなっていた嘶きと同じ声で鳴いていたのだ。

 どこかに弓兵でも潜んでいるとでもいうのだろうか。
 まさか、こんな厳しい山脈では、人などだれも来るはずないのだが……。


 「クーガー! クーガー、クーガー、クーガー!」


 程なくして空から、アキオスの嘶きと愛らしい少女の声が空に響いた。
 まさか、この場に彼女が居るはずない。

 そう思っていたが……。


 「クーガー!」


 天馬がまだ大地へ降り立たないうちに、少女は俺の元へと飛び込んでくる。
 風にゆれた髪からあまい香りが漂い、抱き留めた身体は柔らかくそして温かい。


 「まさか……姫。フレリアのお姫様か?」
 「そうよ。もう、わたしの顔忘れちゃった? あはっ……見つけた。クーガー、やっと……わたしやっと、貴方の事見つけたわ……」


 突然現れた少女を前に困惑しながらも、俺は彼女の身体を抱きしめる。
 久しぶりに見るターナは幾分か大人びた表情を見せるようにはなっていたが、眩しいばかりの笑顔は変わらず俺の心を癒す。


 「何でこんな所にいるんだ、姫。国は? ……王は、姫がこんな場所に来る事、許しはしなかっただろう?」


 フレリアの王が、娘のターナ姫を溺愛しているのは隣国でも有名だった。
 グラドとの戦の時も相当立腹したと聞き、あれから姫を家出させぬようにとかなり警備も強化したと噂ではきいていた。

 こんな辺鄙な土地に一人で来るはずはないのだが……。
 だが目の前にいるターナは、間違いなく俺の知るフレリアの姫・ターナだった。


 「当たり前よ、お父様はわたしが外に出る事だって反対だったんだから。だからわたしは勝手に抜け出してきたの」
 「何でそんな真似を……」

 「あなたに会う為に決まってるでしょう、クーガー……密偵を雇ったり、冒険者に頼んだりして、あなたの足取りを追いかけて、やっとこの場所にいるって突き止めたの! だからわたし、もう待っていられなくて……あなたに会いに来たのよ」


 そういえば、と俺は思い出す。
 先の戦その最中、彼女は俺にこんな事をいってくれたのだ。


 『ねぇ、クーガー。もし行くあてがないのなら、フレリアに来ない? フレリアに来て、騎士になってほしいの。わたしの……』


 あの時、俺は気乗りがしないと言った。
 それは、グラドを復興させた後の身の振り方を考えたくなかったから、というのもあったし、何よりこれ以上ターナの傍にいたら本気になってしまうと。
 そう、思ったからだ。

 ターナは、フレリアの姫。俺が好きになっていい相手ではない。
 この、身分違いの思いを抱えたまま彼女の傍らで槍となり、その生活を見守るのは俺はきっと耐えられない。


 『俺は、グラド復興を終えたら旅に出るつもりだ。アンタと会うつもりもない』


 たしかに俺はそう告げた。
 だがターナは、俺を諦めるつもりはなかったようだった。


 『だったらわたし、貴方を必ず見つけ出すわ。あなたを見つけて……わたしの騎士として、迎えてみせるから……』


 だが彼女は強情だった。
 思いの外気の強い姫様だと思ったが……まさかこの俺を、本当に見つけ出すとは、な……。


 「それは、ご苦労な事だな。姫、だが……俺は、もう騎士になるつもりはないんだ」


 愛した祖国はもうない。
 そして、愛した女性も手に入れる事はできない……。

 こんな思いを抱えて騎士になるなら、このまま寄る辺なき身として生きる方が幾分か楽だろう。
 そう考えていた俺の腕を、ターナの細い指先が留める。


 「何で? 何でそんな事をいうの、クーガー。わたしは、諦めないわ。わたしは、貴方に傍にいてほしいもの」
 「だが、俺はアンタの傍にいたくはない……いいだろ、もう俺の事は忘れてくれ」

 「嫌よ! 忘れられるワケないわ、貴方はとってもいい人だもの……ねぇ、どうしてそんな事言うの? クーガー、わたしは、貴方に何か悪い事をしたかしら? わたし、あの戦いであなたとなら一緒にやっていけると思ってた。あなたなら安心して背中も預けられるって、そう思ってた。だけどクーガー、貴方はそう思わなかったのかしら。あなたにとって、わたしはやっぱり世間知らずでワガママなお姫様だったかしら……?」


 そんな事はない。
 俺の中で貴方は、とても眩しい光だった。

 孤独であろうとする俺を、いつも優しく照らしてくれていた。
 だけどそんな俺の思いを引きずり出そうとするなんて、貴方は無邪気で天真爛漫で眩しいけれども、だからこそ残酷な人だ……。


 「俺だって……貴方の事を、忘れた事なんてなかったさ。姫」
 「そう、だったら……」

 「……だから分かるだろう。姫、貴方が他の誰かと幸福になる姿を、黙って見守れる程俺は素直な男じゃないんだ」
 「えっ。何をいってるの、クーガー。わたし……」

 「俺は、貴方を愛してる……心から、な」


 愛してる。
 自分でも思わぬ程簡単に、その言葉は口から滑り落ちた。

 突然の告白に、ターナは驚きとも戸惑いとも見てとれる表情で俺に困惑の眼差しを向ける。
 墓の中までもっていく思いのつもりだったが……だが、零れてしまったのなら仕方ない。


 「わかるだろう、お姫様。目の前で愛する女が、釣り合わない身分の女で……俺の手が届かぬ場所で、誰かと結婚し。幸せな家庭を築いていく。俺はそれをただ見て、隣で守るだけだ。無様に思いを引きずって……な。生まれながらの騎士として教育をちゃんと受けていれば、あるいはそれが幸せと。そう思えていただろう。だが、生憎俺はそんな出来た騎士じゃなくてな……アンタが他の誰かと幸せになる姿を、黙って見ていられる程上品な奴でもない。だから……一緒にはいられないんだ、わかるだろう? わかったら、もうこの場から去ってくれ。これ以上俺を、無様な男にしないでくれ……」


 だが、ターナは立ち去ろうとしなかった。
 暫く俺の顔を見つめると、やがてまた穏やかに笑い、俺の腕に絡みついた。


 「そう、よかった……」
 「何を言ってるんだ、お姫様。さぁ、もう帰ってくれ、俺は……」

 「わたしも、あなたの事が好きよ、クーガー。勿論、この好きはお父様やお兄さまを好きだっていう意味とは違うわ。ね、クーガー。わたし、貴方に恋をしているの……信じてもらえないかもしれない。だけど、本当よ。わたし、あなたの事が好き。子供っぽい恋心じゃない、大人の好きって意味よ」
 「何を……」


 そうやってからかっているのだろうと、思った。
 身分の違い……いくら世間知らずのお姫様でも、俺と彼女に埋められぬものがある事くらい、知っていると思っていたからだ。


 「やめてくれ、これ以上俺をからかわないでくれ。そんなに俺を、無様な男にしたいのか?」
 「いやよ、逃げないでクーガー!」

 「逃げてなど……」
 「だめよ、クーガー。あなたはいつもそう、自分で全て抱え込むふりをして、結局は逃げているだけなの。みんなの思いから……責任から。でももう、逃がしたりしないわ。だから聞いて、わたしの思いを……あなたが居なくなってから、わたしがどれだけ辛かったのかを……」


 彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
 女の涙は武器だというが……俺の足を留めるには充分な楔には成り得たようだった。

 彼女は俺の腕にしっかり絡みつくと、零れる涙を拭う事もなく淡々と語り始めた。


 「グラドの復興がはじまってすぐに、わたし何通も貴方に手紙をかいたわ。だけど、あなたはあちこち飛び回っていて、いつも手紙は戻ってきた……わたしの手紙は届かなかったけど、あなたがグラドの復興に力を尽くしているって事は、ナターシャの手紙やマリカの噂話、アメリアが遊びに来てくれた時に教えてくれたわ。会えないけど、この空の下で貴方が祖国のために頑張っている……わたしはそれが嬉しくて、会えないのも寂しくなかった。だけど……」


 と、そこで彼女は一度涙を拭う。
 愛らしい顔が、今はただ悲しみにばかり包まれていた。


 「だけど、グラドの復興が軌道にのったころ、急に貴方が姿を消したって聞いたの。……わたし、どうしようって思った。もう貴方に会えなくなる、そう思ったら、心が張り裂けそうだった。今まではグラドの空をみれば貴方が居たけど、もう空を見ても貴方はいない。そう思うとわたし、悲しくて苦しくて、毎日泣いてばかりいたわ。ご飯だってちゃんと食べられなくなって、頭がどうにかなりそうだった……わたし、それでやっと貴方に恋しているんだって気付いたの。ほんと、馬鹿ねわたし。離れただけじゃなく、失った時にやっとあなたの事が好きだってわかったんだから……」


 絡みつく腕から、彼女の鼓動が伝わる。
 高鳴る音が、俺をからかう為でもなければ家臣を得る為の嘘ではない事を告げる。


 「だから……だからクーガー、わたしの傍にいて。わたし、貴方と一緒にいたい……」


 嘘偽りのない真っ直ぐな瞳が、俺の心を捉えた。
 だが、嘘がない故に俺は困惑する。

 ……ターナは俺を好きでいる。
 俺だってそうだ、ターナの事を愛している。できればこの身を賭しても守ってやりたいくらいに。

 しかし、それが許されるのだろうか。
 ターナの父も、兄も……きっと許しはしないだろう、だが……。


 「姫。俺は……俺も、貴方の事は好きだ……だが……」


 言葉がうまく続かない。
 彼女の傍にいたい気持ちと、身分による常識とがただ胸に渦巻く。


 「クーガー……お願い。貴方の気持ちをおしえて。あなたは、わたしと一緒にいるのは、嫌?」


 だが彼女のただ一つの言葉が、俺の迷いを断ち切った。


 「嫌なものか! 俺は……ターナ、君の傍にいたい」


 再び、言葉がこぼれ落ちる。
 ターナの言葉は、不思議だった。いつもそう、俺の心を素直にさせる。そしてこうして、俺の本音をほんの少し引き出すのだ。
 何かと胸に秘め思いを抱えようとする、俺の心を。


 「……やっと、ターナって呼んでくれたのね」
 「あ、その。悪い、姫……」

 「ううん、いいの。わたし、貴方にターナって呼ばれたかったの。他の人たちは仲良くなると、みんな気軽にターナって呼んでくれた。なのに、貴方はいつまでたっても姫、姫って……わたし、それはとっても寂しかったのよ」
 「だが、姫。俺は一兵士だ。やはり身分の違いがある、人目も……」

 「今、ここはフレリアじゃないわ。フレリアじゃないから、わたしは姫じゃない……ターナでいいわ、クーガー。いいえ、いまはただのターナでいさせて、わたし……今は、あなたのターナで居たいから……」
 「……姫、いや……ターナ」


 絡んでいた手は自然と触れあい、互いの吐息は静かに重なる。
 柔らかな唇の、肌の……身体の温もりを確かめるよう俺たちは固く抱きしめあっていた。

 ……フレリアに戻ったら、もうこうして触れあう事も許されないのだろう。

 だからせめて一時だけ。
 だが永遠になれる思いをここに刻もう。

 もしいずれこの身分が、俺達を引き裂いても……。


 「ねぇ、クーガー。わたし、貴方がわたしの騎士でいてくれるなら、お嫁さんにはならないわ。お父様がもし輿入れを望むようなら、わたしを何処かに連れ出してね? わたし、あなたと一緒なら……きっと、何処でもやっていけると思うの!」


 その言葉はいかにも、世間知らずのお嬢様だった。
 他国への結婚……姫である彼女がそれから逃れるのは、容易な事ではないという事。それさえもまだ分からないのだろう。

 だが……。


 「勿論だ、ターナ……もう誰にもキミを渡したりするものか……」


 だがそれでも俺は、彼女の身体を強く抱きしめる。

 先に何があるかは分からない。
 何時まで彼女を守る事が出来るのか、俺にだってわからない。

 だけど今あるこの思いは、思い出は、彼女の笑顔は、紛れもない本物だろう。
 一生分の思いを抱いて、俺は彼女を抱きしめた。

 この先何があろうとも、決して色あせる事のないたしかな思いをこめながら。



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