>> あなた色の幸いを






 この図書館に来たとき、ぼくは自分の物語を紡ぎ出す事ができなかった。

 宮沢賢治。
 その名をもつ作家が残したその世界は、青白い色に包まれた幻想的な世界で……いつも夜明け前のような寒々しさと、夜明けを待つ希望のようなものと、夜明けなどこない絶望なようなものと。
 それらがまぜこぜになった感情を写し取ったような作品ばかりだったから……。


 ……ぼくには、書けないと、そう思ったんだ。


 ほんとうのさいわいとは、どこにあるのだろう。
 物語のなかのぼくは、幾度も幾度もそれを語る。


「本当に幸せを見つけにいこう!」


 いつしかぼくの口癖も、そうなっていた。
 以前のぼくが、ずっとずっと探し求めていた「ほんとうのさいわい」というものが、何だったのか。
 今のぼくにははっきりとわからなかったから、だからこそそれが何なのか、知る必要があると思った。

 何故ならぼくの……宮沢賢治の物語、その本質は「ほんとうのさいわい」だと、そう思ったから。
 あの青白く燃えながら輝くガス灯のような世界は、彼の描いた「ほんとうのさいわい」がある場所に違いないと、そう思ったから……。


『こっちに来て、君は作品を書いてないんだね』


 転生してすぐ、未明に言われた事に正直ぼくは驚いていた。
 あの時ぼくはただ曖昧に笑って。


『こっちの世界には、光さんもいるし、朔先生もいるし、みんなでマンドリンを弾いたり手品を勉強したり、レコードもあるし、色々やることが多くって』


 ぼくはそうやって誤魔化したつもりだったけど。


『書けないんじゃないのか? 君は以前のような作品が……』


 未明には、お見通しだった。
 ……そう、ぼくにはあの青白い命の色を作品に落とし込む自信が、ない。
 それはぼくがきっと「本当の宮沢賢治」とは違う魂の形をしているからで、本当の彼が刻んできた記憶を、見てきた世界を、その思い出を知らないからで……。

 けっきょくは、つくりものだから。
 そういう気持ちが、どこかにあった。

 ほんとうのさいわいとは、どこにあるのだろう。
 物語の中のぼくは、何度もそう問いかける。時にそれに触れる場所まで近づく。
 だけど、ダメで。いつも幸いは、まるで手で汲み取った水のように零れて消えてなくなってしまうんだ。

 最後にジョバンニが一人だったように。
 気付いた時に、わかり合えると。まるで自分と同じような考えで「ほんとうのさいわい」を共有できた相手……カムパネルラを、失ってしまうように。

 宮沢賢治は、「ほんとうのさいわい」に至る事が出来たのだろうか。
 ぼくは、「ほんとうのさいわい」を織り込む事が出来るのだろうか……。


 ……以前、中也さんと星を見ていた時に、聞いた事がある。


『中也さん、ほんとうのさいわい、って、何だろうね』


 あの人は帽子を深く被ると、一度目を閉じて。
 それから記憶の中に沈んでいた、大切な大切な宝物を取り出したような目をして、ぼくを見ないでこたえてくれた。


『本当の幸いか、そうだなァ……それは、手に届かないもの。星のようにきらきらと瞬いて、近くにあるけど、手を伸ばして触れると崩れてしまう、砂糖菓子のように脆いもの。だけど、ただ傍にあるだけで幸いで、そのあまい香りとならんでいるだけで、ただ、ただ、幸福で……時々、またきらきらしたものを見ると。あるいは、あまい匂いを嗅ぐと、その時を思い出すような……そうやって与えられたもの。そういうのが……俺にとっての『ほんとうのさいわい』だろうな』


 何かを懐かしむような目で、優しい声をしていて……。
 ……同時にそれが、彼にとって二度と手に入るものではないのがわかったから、あぁ、だからきっとこの人は、ぼくの詩が好きなんだろうと、そんな風に思ったんだ。


 ぼくの、宮沢賢治の詩は、そういうところがあるから。


 手の届かないところにいってしまった幸福。
 自らの「生」を修羅として定め、人ではなく、だが畜生でもない場所で人を羨むように見る……世界は誰も、ぼくを理解してくれない。そんな圧倒的な孤独。
 そしてその孤独を慰めるような、ただ青白い、青白い世界。


 今のぼくは、どうなんだろう。


「……本当の幸せって、何だろうね」


 南吉と遊んでいる時、ふとそんな言葉が出たのはきっとぼくがどこか求めていたからだろう。
 ぼくの名前であり、ぼくとは違う「宮沢賢治」の見た世界の事を。


「みんなと、遊んだり。お菓子を食べたりするのは、幸せだよ」


 屈託の無い笑顔で、南吉はいう。
 そうだ、そういうのは楽しい。幸せとは、楽しい事だろう。

 だけど彼の作品は、喜びと幸福はまた違うところにある気がする。
 それは物語の中で突然の死が訪れるという自然界の現実を彼が文章でスケッチしている所があるのと、そうした死と生が曖昧のなかでも、生きている限り幸いを求めているものが多いからだろう。

 そう思うと、ぼくは死ぬ程の恐怖をここでは考えない。
 浸食者は恐ろしいけど、ぼくたちの司書さんは優秀だからぼくたちが壊れないように上手に浸食者から庇ってくれるから、ぼくらは安心して戦いに赴けるんだ。

 彼はどうだったんだろう。
 司書さんが語る彼は……概ねぼくの記憶と思いを抱いていた。違うところがあるとすれば、遠き岩手で未だ作物を育てる事にリスクが大きく、寒い夏のせいで食べるのに困り、飢えで死ぬような人があった頃だという事だ。

 夏は強い日差しの中で。
 冬は凍えるような雪の中で、彼が見た青白い光とは何だったのだろう。
 彼が求めた本当の幸いとは、何だったのだろう。


「案外、近くにあるのかもしれないよ」


 同じ事を問いかけた時、光さんはそういって笑った。

 ……そうだったのかもしれない。
 彼にとって、「ほんとうのさいわい」は近くにあったのかもしれない。あの青白い世界の中にもすでに、ほんとうのさいわいがあったのかもしれない。

 でもそれは、彼にしか書けない。
 ぼくには……書けない……?


『きみは、宮沢賢治の記憶や記録を引き継いでいるが、彼ではない。彼の根本である部分は、宮沢賢治という人物そのものが封じてしまっているから、再現するのは名うての錬金術師でもとても難しい事なんだ』


 ぼくの脳裏に、以前の司書さんの言葉が思い出される。
 ぼくが、作品を書く事ができないこと。ぼくの思い描く世界と「作家・宮沢賢治」の世界があまりにも違うということ。
 そういう事を話した時、司書さんはハッキリこういったんだ。


『君は宮沢賢治の名をしているが、完全に宮沢賢治じゃない。だけど、君の中に宮沢賢治の欠片が輝いているのは間違い無くて……そして今の君が、過去の宮沢賢治を模倣する必用もないんだよ』
『あたらしいせかい、あたらしいばしょ、あたらしいかちかん』
『そういうところできみは、きみにとってのほんとうのさいわいを探すといい』


 静かに笑って、司書さんはいう。
 こんどこそ、みつけられるかな。ぼくの問いかけに、あの人は何とこたえただろう。

 あぁ、でも……。
 ……身体の中に暖かい光が注がれるような気がする。

 ぼくは宮沢賢治、童話作家だ。
 とはいえ、子供のための作品を書いていたという気持ちはない。

 ただ、ぼくには書く事が必用だった……青白い世界で、本当の幸いに焦がれて、この世界と同じ色の星を探す……そんな一人の傍観者であり、探求者であった。

 いまのぼくは、宮沢賢治、童話作家だ。
 誰かのためではなく、ぼくのために、ぼくとこの図書館のために、ほんとうのさいわいを、ボクなりに描く事がひょっとしたら出来るんじゃないだろうか。

 あなたができなかったことを、ぼくが。
 あなたであるぼくが綴る事が……。


「そうだね、近くにあるのかもしれないね」


 ぼくは自然と笑っていた。
 ほんとうのさいわいは、どこにあるのだろう。
 正直ぼくにも、まだわからない。けど。

 彼の探した青白いせかいの中にある「ほんとうのさいわい」と、また別の色を探して、ぼくは作品に向かう。
 ぼくは、ぼくの「ほんとうのさいわい」を見つけるために。 






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