>> ハナが、くれたもの。
動物園が、サーカスの連中と組むようになって随分たった。
サーカスと一緒になって、良かったのか悪かったのはか、正直俺にはわかんねー。
だけど、一つだけ俺にも分かる事がある。
それは……。
「ほら、シシド君。キミの服、洗濯しておいたから……」
洗い立ての衣服を籠に詰めて、ニヤニヤしながらソレを差し出すニンゲンのオス……。
名前は、確かキクチ。
キクチ……ナントカ。
下の名前までは覚えてねぇ。
コイツは、サーカス側のニンゲンなんだが、ハナの……。
俺たちの動物園で、飼育員をやってるハナって奴の手伝いをしたいからって、よくこうやって俺の世話を焼く。
俺の為を思って。
動物園の為を思って、本人はやってるつもりなんだろうが……。
「洗濯、なぁ……」
はっきり言って迷惑以外の何ものでもねぇ!
洗濯なんかしたら俺のニオイが取れて落ち着かねぇし、大体俺はあの「センザイ」とか「ジュウナンザイ」ってのの、フローラルな香りってのが大っ嫌いなんだ。
動くたびに、甘ったるいニオイがして、居心地悪いったらありゃしない。
「いらねーよ、そんなもんッ!」
預けられたカゴを勢いよく蹴り飛ばし、土埃をまき散らす。
動物園の、土と、干し草と……。
馴染んだ俺のにおいが、泥にまみれて服につく。
そう、そう、これ。このニオイ。
これが俺のニオイ……俺の、落ち着くニオイだ。
「あー、何するんだよシシド君ッ……」
キクチはがっくり項垂れるも、それでも洗濯は諦めた様子もなくまた俺の衣服を拾い集める。
「だーから、やめろって言ってるだろー、俺は洗濯なんかされたくねーの!」
「で、でも……洗わないと汚いし……」
「汚くねーだろ、おれのニオイだからなー!」
キクチの拾った衣服を握り、引っ張って取り戻そうとする。
……キクチはニンゲンだ。
本気を出せば俺の敵じゃねぇ。
だけど弱っちい奴は守るのが強ぇ奴の仕事。
俺は弱いモノイジメはしない主義だから本気で取っ組み合う事はない。
それに……キクチと、ケンカをするといつもハナの奴が何処か寂しそうにするんだ。
『……シシド君は、菊地君が嫌いなのかなぁ』
そんな事を呟いて、アイツときたらいつもガラにもなく俯いて悲しそうな顔をするんだ。
俺は……アイツのその顔を見ると、胸の中がちくちくムズムズ。
モヤがかかったみたいにスッキリしなくなる。
うっかり力が入りすぎて、キクチの身体を押し倒した時なんざ、ハナの奴は泣きそうな顔をしてキクチの傍らにいた。
俺は飼育員の、あの顔を見ると胸の中がスッキリしねぇから、なるべくキクチに本気は出さない。
そういう風にしているのだが……。
「ぐ、ぐぐ……ぎぎ……」
今日にかぎってキクチの奴、なかなか服をはなさない。
「くっ、はなせよ、ばーか……このっ!」
離さないと……おれ、本気出しちまうじゃねーか……。
本気出してお前怪我でもさせたら、また……またあの飼育員、泣きそうなツラして……。
俺の胸、苦しくなるじゃねーかよ……。
「何やってんの、シシド君! 菊地くん!」
俺たちの引っ張り合いをとめたのは、聞き覚えのある声。
飼育員の、ハナの声だった。
「あ、蒼井さん……」
遠くからでも怒りの分かる飼育員の怒声をきいて、流石のキクチも手をはなす。
ははは、情けない奴だ。
「ごめん、蒼井さん。俺……」
「もう……菊地くん、動物は自分のにおいが消えるのは嫌うんだよ。だから、無理に洗濯しなくても大丈夫だから……」
しかもハナの奴に怒られて、随分と応えているみたいだ。
ははは、俺の服を勝手に洗ったりしたからだ。
「でも、俺……皆の役に立ちたくて……」
項垂れるキクチは情けない声を出す。
相変わらずこいつはオスだってのに情けない顔もすれば態度も出すが……。
「もう……またそんな事いって、大丈夫。菊地君はサーカスでも役にたってる、大丈夫だよ!」
「そう、かな……?」
「そうそう、私の方が失敗ばっかりで……」
ハナの奴に励まされただけで、テレたみたいに笑いだす。
全く、分かりやすいオスだ……。
……それに、何故だかわかんねーけど……ハナが、アイツに笑っていると、何だか俺は胸の中がムズムズする。
焼けるように痛い、ムズムズした気持ちが……。
最近、特に非道いから、俺はこの飼育員が……ハナの奴が苦手なのだ。
苦手なのだが……。
「シシド君も! 乱暴は駄目だっていってるでしょ!」
と思ったら怒りの矛先が俺にも向いてきた。
全く、うるさいメスだと思う。
苦手なメスでもある。
だけどそれでもこの顔を見てないと、俺の胸はもっと苦しいのだ。
穴があいたみたいに、虚ろで空しいモンになるのだ。
一体俺の胸は、どうしちまったんだろうな……。
「うっせーな、悪かったよ。もうしねーもん!」
とにかくハナは、俺の胸をモジャモジャぐしゃぐしゃ。
モヤがかかったみたいに不愉快にするから、なるべく近づきたくない奴だ。
近づきたくない奴なんだが……。
「うん、それならいい。それに……」
そこでハナは俺の頭をモサモサと撫でると、強く両手で抱きしめた。
ハナの身体からする、甘いにおいが俺の鼻を擽る……。
「……それに、やっぱ洗濯しなくていいよ。シシド君は、私の好きなニオイがする……お日様のにおいがするよ……」
ハナの細い手、弱っちいニンゲンの手。
だけどそれが今は俺を、捉えて放そうとしない。
ハナにギュってされるのが、強い奴と同じように、何となく楽しくなる。
甘ったるい果物みたいなニオイも、ハナからするニオイなら気にならない。
俺のニオイが好き。
ハナはそう言ったけど、俺もハナのニオイが「好き」なんだろうか。
それとも……。
「何だよ、気易く触るんじゃねーよ、ばーか!」
ハナの手をふりほどいて、俺はアイツから遠ざかる。
胸の中のモヤモヤする感じも。
ハナが、キクチに笑っているとズキズキする痛みの正体も、結局俺にはわかんねぇ。
だけど……。
「ばーか、ばか飼育員!」
悪口言う俺の胸は、今は大きく高鳴っている。
強い相手とあった時と同じように、だけどそれとは違う、くすぐったいけど暖かな者が何かある。
病気なのか、それとも別の何かなのか俺にはわからなかったけど、ただ今はこの、ハナがくれた暖かな何かをもう少し楽しんでいたかった。