>> 絆【あんそく】





 その日は非番で、一日ごろ寝をして凄そう。
 そう決めてソファで寝ころび、立ち上る紫煙の形を目で追いかける。

 日常の中にある、永久とも思える静寂。
 俺のその静寂を破ったのは耳障りな呼び鈴と聞き覚えのある一つの声だった。


 「笹塚さん、居ますか〜?」


 明るく屈託のないその声は、今巷を賑わす女子高生探偵、桂木弥子のものだ。

 一見ただの少女だがその実力は確か。
 俺の前でも幾度か事件を解決しており、あのxi事件でも一役買っている。

 最も世間ではその事より、アヤ・エイジアの事件や彼女自身の食いしん坊っぷりの方が有名なようだが、何をしに来たのだろうか。
 いや、何をしに来たにせよ、居留守を使う訳にもいくまい。

 彼女が事件解決の協力をしているのは確かだし、何より彼女はまだ子供だ。

 子供が、傷つくのは見たくない。
 彼女は特に、だ。

 ドアを開ければ、嬉しそうに笑う彼女の姿があった。


 「あ、笹塚さん。良かったぁ、近くに来たからちょっと顔を見に来ました。笹塚さん、一人でしょ。たまには手料理とか食べたいんじゃないかなーって思って、お料理作りに来たんですよ」


 彼女はそう言いながら、両手いっぱいのビニール袋を持ち上げる。
 中に入っているのは白滝にネギに椎茸、すき焼きの材料のようだった。

 以前彼女が病室に見舞いに来た時は、持参した土産の誘惑に負けたらしく中身はほとんど食い尽くされ、俺への土産は足ばかりという惨状になっていたが、さすがにまだ料理になる前の材料段階だと極端なつまみ食いはしないのだろう。

 両手のビニール内には、きっちりと材料は残っている。


 「あ、あの。本当は2,3品作る予定で材料かってきたんですけど、途中でつい、その……」


 前言撤回。
 どうやら途中で喰っていたらしい。


 「あ、そ……腹壊さないようにな」

 「大丈夫です、牛肉は生でもヘーキって言いますし」


 食べたのか、牛肉を。すき焼きなのに。


 「それに、おはじき30コ食べても全然平気でしたから。お腹は丈夫なんです、私」


 確かに腹は丈夫そうだが、別の臓器は大丈夫なのだろうか。
 何にせよ、エンゲル係数が高そうな娘である。


 「しかし、どういう風の吹き回しだい。弥子ちゃんが料理をつくりに来るなんて」
 「えっと、実はうち。お母さんが働いていて、忙しいと帰ってこない日が結構あるんですよね。最近はそれが続いて、たまには誰かとご飯食べたいなーって思って。そう思ってたら石垣さんに会って、そしたら笹塚さん今日は非番だって言うから来てみたんですけど……迷惑でした?」

 「いや、そういう訳では……」
 「やったぁ、それじゃ、お料理作らせてもらいますね」


 彼女はそう言うなり、持参のエプロンに着替え台所に立った。
 薄桃色のエプロン、その裾が揺れる。

 彼女が俺の部屋に来たのはその日が初めてであったが、何故だろう。
 その立ち姿は、何故か懐かしい。


 『いいよ、兄貴。今日はあたしが作るからさ』


 俺の脳裏に一つの影が浮かぶ。
 この光景、見た事あると思ったが、そうか。

 俺が無意識に彼女を傷つけまいと振る舞っていた理由を改めて気づかされる。
 いや、最初から気づいていたが気づかないふりをしていただけか。

 気づいてしまうと、思い出してしまうからだ。
 失っている事を。

 そして、願ってしまうからだ。
 もう――失いたくはないという事を。


 「あつっ、あっつぅーい」


 熱した鍋に手が触れたのか、右手をぱたぱた振り動かす。


 「大丈夫か、弥子ちゃん」


 俺はその手を掴むと、赤くなった指先を口に入れた。
 口に含み、互いに視線があい、その時ようやく俺は自分のしている事に気づく。

 しまった。
 過去の情景を思い出しつい妹を扱うみたいに振る舞ってしまったが、彼女は俺の身内ではない。


 「悪い」


 慌てて手をはなす俺を、彼女はしばらく赤くなって見つめていた。


 「い、いいんです。笹塚さん。その――」


 沈黙。
 気まずいような、気恥ずかしいような、だ。
 苦手な沈黙でもある。

 だが、その沈黙は彼女の腹からする「ぐぅ」という音ですぐに笑いに変わった。


 「あ、もぅ。こんな時に私のお腹ッ。においに反応してつい――」
 「いや、いい……そういう所が、君らしい」


 程なくして、鍋から暖かな湯気と食欲を誘う臭いが漂ってきた。


 「これであとは、春菊さんをいれて少し煮立てばできあがりでーす。あ、笹塚さん。あと少しでできあがりますから、良かったらお風呂にでも入ってきてくださいよ」
 「風呂……?」

 「どうせずっとゴロゴロしてたんでしょ、シャツがしわしわでくたびれたみたいで、ちょっとかっこわるいですよ。せめてお風呂にでも入って、しゃきっとしてから、ご飯食べましょう」

 「だが、俺は昔から飯を食ってから風呂に入るんだが……」
 「じゃ、食べてからまた入ればいいじゃないですか。笹塚さん、そうじゃなくてもタバコ臭いんですから」


 何となく釈然としない気はしたが、あれこれ言い争っても意味はないだろう。
 俺は彼女に半ば押し切られる形で、風呂へと追いやられた。

 元々、湯船につかってじっくりと風呂に入るタイプではないのだが。


 「ちゃんと、しんまで暖まってくださいよ!」


 なんて、ちょくちょくドア越しで声をかけられたのでは入らない訳にはいかない。
 かといって風呂につかっているだけというのも味気ない。

 俺は以前、何処かの神父から聞いた心を落ち着かせる方法を試してみる事にした。


 「確かそう、素数を数えると心が落ち着くんだよ。」


 素数とは1とその数以外では割り切る事の出来ない、孤独な数字である。
 その神父は素数を数えると勇気がわいてくるのだという。

 変な性癖だ。


 「素数か……考えて見ればどういうのが素数だ。3と、7と、11……」


 冗談で薦めてみた遊びだったが、以外と面白い。


 「えぇと、300代の素数はなんだ……」


 気づいたら300過ぎまで数えていた頃。(ちなみに特に心が落ち着く事も、勇気がわく事もなかった)


 「あの、すいません、笹塚さん……その、もう出てもいいです、すいません……」


 力無い弥子ちゃんの声で、なんとなく、すき焼きはもうこの世にないのだと悟った。


 「気にするな、弥子ちゃん。別に俺はすき焼きがなくとも、塩と焼酎だけあれば……」


 そう言いながら風呂からあがる俺の目に最初に入ったのは、すでに食い散らかされたすき焼きでもなければ、それで申し訳なく頭を下げる弥子ちゃんの姿でもない。


 「祝、笹塚刑事完全復活。快気祝いおめでとうパーティ」


 と、手作りで描かれた横断幕だった。


 「弥子ちゃん、これは……」

 「えと。笹塚さんとは、事件の時色々お世話になって……xiはあんな事になっちゃったけど、あの時笹塚さんが居てくれたから、私たちとっても助かって。 それで、怪我がなおってからちゃんと復帰のお祝いってしてないなって思ったんでパーティしようと思ったんですけど」


 テーブルには彼女の手料理他、恐らく彼女がかってきたであろうスナック菓子やケーキの類も綺麗になくなっていた。
 結局、予想外の事が一つあったが、あとは予想通りだったという事だ。


 「ごめんなさい、つい……」


 まぁ、その点は料理を作りに来たという時点でもう覚悟していた事だ。


 「いや、いいんだ……」


 俺がポンと頭を撫でる。
 彼女はその手が頭に触れると、何故かビクっと身体を振るわせたが、すぐに俺の手に敵意がないのを知ったのだろう。

 照れくさそうに笑って見せた。


 「……なんか、笹塚さん」
 「ん、なんだ」

 「いえ。その、なんでも」
 「歯切れが悪いな。言いかけて言わないのは一番気になるんだ。言って見ろ」

 「え、えーと……なんか、笹塚さん。お兄ちゃんみたいだなぁ……って。私、兄さん居ないけど。お兄さんが居たら、笹塚さんみたいな人だったらなって。 そ、それだけです。あの、ごめんなさい。変なこと言って」


 そう変なことでもない。
 俺にとっても彼女は、妹みたいに大切な……。


 「あ、すき焼きは食べちゃったけど、うどんすきもやろうと思ってかっておいたうどんもあるんです。これで、せめてうどんすきしましょう。ね」


 彼女はそう言いながらうどん玉をすき焼き鍋にぶち込んでいく。ざっと十人前はありそうだ。
 だがきっと、俺の口に入る分はないのだろう。

 賑やかで穏やかでいつも笑っている、俺とは真逆の娘だが。
 この賑やかさ、苦痛ではない。この穏やかさは心地よくさえある。

 静寂ではない日常。
 もう味わえないと思っていた、が……。


 「弥子ちゃん」
 「はい?」

 「ありがとう、な」


 そう言われ、彼女はまた屈託ない笑顔をくれる。
 この笑顔だけは、護る価値がある。何を犠牲にしてももう、失いたくはない。


 忙しい日になった、が。
 それは穏やかな休日だった。




 <笹塚さんとヤコちゃんまじ年齢の離れた兄妹っぽい。(戻るよ)>