>> 体内へ回帰へ向かう夢






 きっとこれは夢なのだろう。
 彼女がそう思ったのは、その世界が酷く現実離れしたような。あるいは、現実の世界から切り離された書き割りの世界のような感覚を覚えたからだろう。


 鈍色の雲が、まるで緞帳のように一面を覆っていた。
 家もビルも全て灰色に染まっているのは、太陽の光が届かなかったからだろうか。
 そんな中、唯一ほのかにオレンジの光を放つ建物に、彼女は吸い寄せられていった。

 あぁ、きっと電灯に集まる蛾や羽虫なんかは、こんな気持ちなんだろう。
 夜の闇の心細さに耐えかねて、こうやって僅かに光を、色を感じる場所に集まるのだ……そんな事を考えながら。


 その建物は、レトロな雰囲気の喫茶店だった。
 結構な広さではあるが、人の気配はない。
 ただカウンター席にマスターらしい人物が一人、フラスコをひっくり返したようなサイフォンでコーヒーを沸かしている姿が見えた。

 適当な席に座れば、誰もいないと思っていた所にウェイターが現われる。
 まだ注文も見ていないのだが、何となく注文を見たところで意味がない気がしたので無難にアイスティーを頼む。

 そうしているうちに、外は雨が降り始めた。
 雨はすぐに土砂降りになり、喫茶店で流れているジャズだかスキャットだかの音楽すらもかき消してしまう。

 帰りはどうしようか。
 これだけの雨なのだから暫くしていれば止むだろう。喫茶店で時間を潰せばいい。
 コンビニでもあれば傘を買えばいいし、家まで濡れてもいいだろう。

 そんな事を考えていた気がするが、総じてあまり気にしていなかった、というのが正直なところだろう。
 たかが雨だ、歩みを止める理由にはならない。

 それにしても、アイスティーはまだだろうか。
 そう思ってテーブルを見れば、いつの間におかれていたのだろう。幾つもの氷がいれられたアイスティーがテーブルの上に置かれていた。
 結露で濡れたグラスがすっかりコースターを汚している。

 もってきたのなら、一言でも言えばいいのに。
 それとも雨が声すらかき消してしまったのだろうか。

 そんな事を思い顔をあげれば、目の前に一人の女が座っていた。
 相席なんて聞いていない。
 そう思ったが、さっきまで誰もいなかったはずの喫茶店は、今はどの席も家族やカップルで賑わっている。

 雨を逃れて人が来たのだろうか。
 いや、考えても意味はない。きっとそういう時間なのだ。半ば諦めて前の女を見る。

 女は、身重のようだった。
 ゆったりとした白のマタニティドレスに、大きなつばつきの白い帽子はオレンジの証明のせいでまるで夕暮れのように色づいて見える。
 顔は、はっきりと見えない。
 だがまるでお姫様が被るような大仰な帽子も、フリルのついたようなマタニティドレスもさして違和感なく着こなすだけの器量はあるように思えた。

 あぁ、淑女とか……そう呼ぶにふさわしい、育ちのいい女性なのだろうと彼女は思った。
 同時にこの女は、好きじゃないとも。

 彼女が本能的に嫌いな「女」と同じ女の気配が、身重の女から感じたのだ。

 本能的に感じるにおい。
 自分は「不幸」であると、思っている女。そしていずれ黙っていても誰かが助けてくれると思い込んでる女。
 不幸である自分にどこか陶酔し、周囲さえも「不幸な自分」をアピールするための道具、あるいは演出としか思わない女。

 彼女の嫌いな女のにおいだ。
 そう思った矢先、その女は聞いてほしいような大きな声で。だが、独り言のように呟いた。


「この子は、生まれてきてはいけない子でした」


 見れば、彼女は灰色のおくるみに赤子のような何かを包んでいるようだった。
 いや、灰色に見えたのはオレンジの照明のせいで本当は白やブルーというような鮮やかな色だったのかもしれない。
 だがその時の彼女には、女がグレーのおくるみに赤子を包んでいるように見えた。

 赤子の顔は見えない。
 声さえも聞こえない。

 この女は、赤子を産み落としたのにまだマタニティドレスを着ているのだろうか。
 それとも、未来に産まれる赤子を抱いているのだろうか。

 何となくだが、あのおくるみは『からっぽ』だったんだろうと思う。
 鳴き声もしないし、人の気配もない。人形か、何かを抱いてこれから産まれる赤子の悲劇を勝手に語っていたのだろう。

 いかにも自分が「悲劇のヒロイン」でありたい女のしそうな事だな、と彼女は鼻で笑っていた。
 そんな彼女の様子に気付かないのか、女はさらによく通る声で続けた。


「この子は生まれてきてはいけない子でした」


 あぁ、これはきっと『なんで』とか『どうして』とか素性を聞いて欲しいタイプの面倒臭い女だろう。
 あいつに、そっくりだ。

 彼女はガムシロを一つまるまるいれて、ミルクを二つもいれるとキンキンに冷えたアイスティーを無造作に啜る。
 味のしないアイスティーは、砂を吸うようなイヤな感覚に包まれていた。


「この子は……」


 女はただそれを繰り返す。
 あぁ、本当にウザったい。どうせそこまで腹がふくれたら「産む」しかないだろう、それくらい中学生の彼女だって知っている。
 日本の医療体制なら、臨月の近い妊婦の赤子はきっと無事に産まれるだろう。
 もし死産だったとしたら、きっとこの女は 『私はこの子を産んであげられなかった』 とでも言うのだろう。

 あぁ面倒くさい面倒くさい面倒くさい。
 普段はそう思うだけだが、きっとここは夢だ。好きな事を言ってしまおう。
 そう思うより先に、口が動いていた。


「お言葉ですが、その子は生命の本能として【生まれてくる】以外の選択肢が与えられない状態で産声を上げ、あなたの手に抱かれていると思うのですが、違いますか?」


 女は黙っていたが、こちらを見て居たように思う。
 ただ顔ははっきりと見えなかった。きっと、つばの広い帽子なんか被っていたせいだろう。


「えぇと……赤ん坊に、自分の人生を選ぶ権利はありません……ですから 【生まれてきてはいけない子】 という表現は、妥当ではないかと。そうですね…… 【私が、生まれた時から生きるのにリスクを負わせてしまった子】 とか…… 【生まれてきた事を私と、周囲とが歓迎しなかった子】 というのが妥当かと。えぇ、少なくとも、自分の人生をまだ選べない赤子に【生まれてきてはいけない】と責任を押しつけるのは、いささか身勝手に思えますけど」

 アイスティーは相変わらず砂をすするような味がする。
 ただかき混ぜるとカランカランという氷の透き通る音だけが心地よく響いていた。


「あなたとお子様にいかなる面倒事、やっかい事、不貞、その他が降りかかっているかは存じ上げませんし、あなたがそれを【辛い】と思うのなら、私はそれを否定しません。
 多者からたとえ【そんな事で】と思うような些細な事でも、貴方にとっては世界の終わり、死に至る絶望だったりする事はよくある事ですから……。

 しかし、それにしたって仮にでも子供を産み、母になるという人間が、テメェで生んだ子供を最初から不幸にするような声かけをして育てては、そりゃ真っ直ぐには育ちませんよ。
 ましてやあなたは、生まれてこなければ良かったと思う程にその子に対して枷を負わせている訳ですから……どうするんです?
 世界でたった一人、愛してくれる可能性がある人が貴方しかいない世界で、あなたがその子を恨んだら、誰がその子を祝福してくれるんですか?』


 黙りを決め込んだ人形のような陰気な女。
 あぁ、本当に何もかもよく似ている。

 あの女に、そっくりだ。

 彼女は殆ど怒鳴るように、唾を吐きかけるのと同じようにただ言葉を吐き出していた。


「……本当はまだ産んでないんでしょう、マタニティドレスを着ているし、腹もふくれてる。臨月だ。きっとそう遠くなく産まれるんでしょう、その『産まれてはいけない子」とやらがね。
 あぁ、あなたがそうして悲劇のヒロインを演じていたいのなら構いませんが、その小道具に赤子という別の人格、別の人生をもつ存在を巻き込むのは頂けませんよ。

 母親だからとかじゃなく、人間として、子供と親の人格は別である事。
 そして、子供は親の人生を飾る小道具ではない事くらいは理解していてください。
 あなたがそうして俯いて、子供に呪いの言葉を吐く事による先にある運命は概ね三つ。

 ・あなたと同じように世界を呪う事しかできない子供と共倒れ
 ・呪いの言葉しかはかない貴方からの脱出

 ……おや二つでしたね。
 まぁいいです。

 そういう風になるなら私としてはこう思いますよ……最初から産まないでおいてくれ、ってね」


 気が付いたらアイスティーはカラになっていた。
 2,3個の氷が融けて時々音をたてる。


「身勝手な怨嗟の言葉をかけるなら、愛してあげてくださいよ。簡単でしょう。
 ごめんね、をありがとうと言いかえるだけ。生まれてきてはいけなかったを、生まれてきて良かったに言いかえるだけ。
 いつまでもスポンジみたいに中身のない言葉ではいずれそれがハリボテの愛情だと分かってしまうでしょうが、メソメソと顔も上げない女の子として育つより幾分かはマシに思えますけど」


 まずい、アイスティーに、イヤな女。
 最低の喫茶店に来た。


「まぁ、私には関係ないですけどね。それでは」


 彼女は席を立つ。
 会計を求められる事もなく、外に出る。
 雨は、降っていなかった。




 目覚めた時、いつもの部屋だった。
 外は曇り空で、雨を含んだ黒い雲がまるで緞帳のように降りている。
 起きたというのに、夢と同じような風景とは皮肉なものだ。

 彼女は起き上がると身支度をして、自分でトーストを焼き、目玉焼きを焼き、アイスティーをつくる。
 夢の中で飲んだ砂のようなアイスティーの味を払拭するには、正しくアイスティーを作るのが良いと思ったからだ。

 そうしているうちに、彼女の母が起きてくる。


「いつも悪いわね、私の身体が弱いから」


 そういって彼女に申し訳なさそうに頭を下げる。
 身体が弱いというが、健康診断では至って問題はないのを彼女は知っていた。ただの低気圧なことも、スマホのゲームに入り浸って夜更かししている事もだ。
 単純に寝不足で起きれないだけだろうが、それさえ彼女にとって「自分が可愛そう」の演出になるのだから驚きだろう。


「別にいいよ、自分のためにしてる事だから」


 それは実際その通りで、彼女の朝食に母親の分はない。
 もう少し小さい頃は母の愛情を乞うて、母に誉めてほしくて、そうやって作っていたのだが、つくるたびに 「私がふがいないから」 とか 「ごめんね私のせいで」 とか。
 そうして自分の可愛そう話、苦労話をする母に対して、期待する事をやめてしまったからだ。

 母は、元々いいところのお嬢様だった。
 いや、いいところのお嬢様というより「田舎の成金」というイメージが正しいだろう。
 本当に品位があるというより「なまじあぶく銭を稼いでいるため、勘違いをしている世間体をもつ」というのが彼女の「母の家」に対するイメージだった。

 そんな田舎のお嬢様が、都会のお嬢様学校に出て、都会のつまらない男につかまって、逃げられて。
 そうして産まれたのが彼女である。

 母は今でも「父になるべき人物」が迎えにきてくれると、どこか思っている所があった。
 そんなはずないだろう、認知しても養育費すら払ってないと聞いている。
 会った事のない父親だが、今頃他の女と結婚して、自分の知らない弟か妹がいるのではないかと彼女は感じていた。

 その時、ふと何かを思いだしたように母はこんな事をいうのだった。


「あなたは、私の恩人によく似てるわ」
「恩人?」


 初めて聞く言葉に身を乗り出せば、母は続ける。


「酷い雨の日にね、私はあなたを身籠もっていて、もうすぐ産まれるって頃にね。雨を避けるためにはいった喫茶店で、あった人よ」


 既視感。
 偶然か、必然か、それとも。


「その人は、あなたくらいの年代の若い子だったけど。身重の私が、産むか迷っていた時に、子供に罪はないから産みなさいって言ってくれたのよ」


 言った覚えはない。
 彼女は確かに言った。

 「悲劇の道具にするな」「産まないのも手段だ」「祝福しろ」

 何も守れてないじゃないか、この女は。
 何も守れてない、自分だけを守ろうとして、何も、何も変わってない。


「ふふ、だったらきっとその恩人は今頃笑ってるでしょうね」


 あなたという女が、愚かすぎて。
 彼女はそう言うと、アイスティーだけを飲み早々に家を出た。

 母と同じ空間にいるのは、もう耐えられなほど痛々しく、だが滑稽でもあった。


 外に出る。
 重く垂れ込めた雲は、間もなく雨を降らそうとしていた。






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