>> 留まる肉塊






 ……あぁ、すいません。別に言い渋っているという訳ではないんです。
 ただ、この話を致すのに何処から説明したらいいのかと思いまして……えぇ、順序立てて話をしてもにわかに信じがたいものでしょうから……。

 そう、そうですね。まず、私と先輩の話からしましょうか。

 私と先輩は、小さい頃からの顔見知りでした。
 いわゆる、幼馴染みというヤツですね。年は3つ……いえ、4つ程離れていたと思います。
 家はそう近くもありませんでしたが、同じ学区内という事もあり小学校時代はよく顔を合わせておりました。
 互いの家を行き来した事もあったかと記憶しております。

 先輩の家は……団地が立ち並ぶこの地域では珍しい庭付きの一軒家でしたが、それでも羨むほど立派な家ではありませんでした。
 というのも、先輩の家は遠目から見ると殆ど廃屋と思われても仕方ない程荒れており、庭と家との区別すらつかない体でおりまして、とても人が住んでいる風には思えませんでしたから……。
 先にお互いの家を行き来すると言いましたが、実際家にあがった事は数えるほどしかありませんでした。

 中のほうも外観通りのひどい荒れようで……傾いたテーブルのかわりに廃材なんかを積み上げておりましたし、天井からは蔦のような植物が天幕が如く垂れ下がり今にも落ちそうだったのを記憶しております。

 子供心に、いやこれで良く人が住んでいるとよく思ったものです。

 実際、4つも年上の先輩と遊ぶ機会が多かったのも、あの歪な家に住む先輩ですから同級生の親などはあまり遊ばせたがらなかったからかもしれません。
 子供というのは親の影響をよく受けるものですからね。

 そして私が孤独な少年だったのも、先輩にとって都合が良かったのでしょう。

 えぇ、私もどちらかと言えば大人たちから疎外された子供でしたから……そのあたり事情は私自身より皆さんの方がよくご存じでしょうし、この話とは無関係ですから省かせていただきますけれどもね。

 ともかく、私は幾度か先輩の家へ遊びに行く事がありました。
 同年代の子供たちからは蛇のように嫌われていた私ですから、一人でいる寂しさを紛らわすため同じように孤独だった先輩に付き慕っていたのだと思います。

 先輩は、そんな歪な家に住んでる割にすれたところのない少年だったと思います。
 ともすれば、大人の前で猫をかぶり叱られそうになるとするりと逃げ出す狡猾な少年らと比べれば随分と子供らしい、普通の子供だったでしょう。

 普通というのがどの程度の事なのか……物心ついた頃には石を投げられ唾を吐かれる生活になじんでいた私には今一つよくわかりませんが、少なくとも学園生活を営むに上でとりわけて異質な性格ではなかった……くらいに捉えていただければ結構です。

 むしろ先輩は、普通の少年少女と比べ純朴すぎたくらいでした。
 クラスメイトが外で遊んでいる時も、花壇の脇で虫や草花を眺めておりましたから……純朴、といえば聞こえもいいかもしれませんが、ひょっとしたら知恵が回らぬ性分だったのかもしれませんね。

 そんな先輩の家に遊びに行った時、いつも、いつでも目に留まるのがあの古びた「冷蔵庫」でした。
 先輩の家には、幾つもいくつも幾つもいくつも……おびただしい数の冷蔵庫があったのです。

 えぇ、おびただしい数です。
 廊下をはみ出し門の前にも、庭の草木の合間にも……一部屋に一つなんてものではありません。
 視線の先すべてに冷蔵庫があるような、そんな古びた家でした。

 先輩の母親が……今考えるとあの母親も、少しばかり心に影がさしていたのだと思いますが……母親が、粗大ゴミや廃材として捨てられていた冷蔵庫を、何処から拾ってきてはキッチンや床の間、寝室などに並べるくせがあるのだよと、先輩は言っておりました。

 冷蔵庫として使うつもりはなかったようで、電源が入りきちんと冷蔵庫としての仕事をしているものは、ほとんどなかったように思えます。

 実際、先輩の部屋に置かれた冷蔵庫はコンセントが抜かれており、かわりに漫画や玩具が詰め込まれた、玩具箱の役割をしておりました。
 遊びにいった時に幾度か先輩は冷蔵庫から漫画を一冊引っ張り出して読んでいたかと思います。

 おやつでもないかと勝手に冷蔵庫を開けたら、中からぐずぐずにとろけた肉の塊が出てきて悲鳴をあげた事なんかもありましたっけ。
 いやこれは、よそ様の冷蔵庫を勝手に開けて中を見ようなんていう浅ましい私が悪かったのでしょうが……。

 そう、そういえばあの日も私は冷蔵庫から出した漫画をむさぼるように読み、その隣で先輩が、テレビゲームなどをしていたように思います。

 うだるような夏の暑い日でした。
 先輩の家は庭中に草がはえ、町中にしてはず随分と涼しい方の家なのですが、その日はとにかくひどく暑くて、滴る汗を拭いながら漫画を読んでたと思います。そんな私に、先輩から声をかけてきたのです。

 ゲームに飽きて、私と遊ぶ気になったのでしょう。
 あの頃の私は、先輩にとって体のいいおもちゃでしたから。

 ですが私は漫画に夢中で、先輩の言葉など殆ど上の空。生返事ばかりして遊ぼうとしなかったので、そんな私にしびれをきらしたのでしょう。
 先輩はふとこんな事を言いだしたのです。


 「そうだ、おまえさ。消えたセーブデータ復活させる方法、知ってるか?」


 セーブデータ、と言われてもゲームなどなさらない皆さんはあまりピンと来ないやもしれません。
 ゲームをされる方でも、近年のゲームだと保存機能がもっともっと優れたモノが多いですから、消えてしまうデータといわれてもイメージ出来ないものでしょう。

 私たちの子供の頃は、セーブデータというのは消えやすいものでした。
 電源を入れた時、薄気味悪くおどろおどろしいBGMと共に、「これまでのデータは消えてしまいました」と、ブラックバックに文字だけが流れて淡々と告げられるのです。そうすると、それまで苦労して集めた宝石やら、倒した敵やら、得てきた名声などはすべて水の泡。また1からやり直しになるのは、子供心に恐怖でした。

 子供の1時間と、今の我々の1時間とでは、時間の流れその感覚も違います。
 やり直しになった時間がたかだか10時間程度だったとしても、子供にとっては数日失った虚無感というものがあります。

 だからもし、消えてしまったデータを取り戻す方法があるのなら是非知りたい。
 子供なら当然の欲求だったと思いますよ。

 それに、あの頃私はちょうど、一週間ほど根を詰めて勧めたゲームそのデータを失った頃でしたから、興味は一層高まっておりました。
 漫画をおいて先輩の方に目を向ければ、先輩は私にこんな事を告げたのです。


 「あのなぁ、冷蔵庫にゲームをいれておくと、データが復活するんだよ」


 ……聞いた直後、大きく落胆したのだけははっきりと覚えています。
 当時のゲームは、例えば特殊な操作をするとプレイヤーキャラクターが無敵になったり、通常はもってないアイテムをもって勧められたりという技が多くあり、先輩のいうデータ復活もそういった技の類だと思っていたので、あり得ない荒療治が冗談にしか聞こえなかったのです。

 ですが先輩は、何度でも何度でもいいました。


 「本当だよ、うちの冷蔵庫にゲームを入れておくと、データがなおったんだ。データだけじゃない。その漫画だって、破れたのが綺麗に元通りになったし、壊れたラジコンも……」


 今考えますと、当時のゲームというのはデータに僅かな欠損があった時に、データが削除するようプログラムされていたのだと聞きます。
 データが削除される以前に電源を切れば、データが削除されず……消える前の状態に戻る場合があると言いますので、先輩のデータが復活したのも恐らくそういう事だったんでしょうし、破れた漫画も壊れたラジコンも、当時機械などの修理工を勤めていた先輩の父親が内緒で直していたのだろうと容易に想像がつくので、さしてその言葉を異常だとは思っていませんでした。

 えぇ、異常だと思っていませんでした。
 だけど、私は気づくべきだったのです。


 「何でもなおるんだよ。冷蔵庫にいれておけば、赤いラジコンカーも……腹の破れたぬいぐるみも……それと、猫も……」


 先輩の部屋には猫が一匹、居着いておりました。その猫がある日腹ボテになったと思った一匹の汚いぶち猫を残して死にました。
 先輩は、死んだ親猫についてさして気にした様子こそ見せませんでしたが、生まれて間もない子猫をまるで弟か妹のように可愛がっていたのを覚えています。その先輩の愛する猫はいつもと変わらぬ様子で先輩の部屋でうたた寝をしておりました。いつもと変わらぬ様子で、いつもと変わらぬ汚いぶち猫で。

 だから先輩の言葉なんて私は、殆ど忘れていたのです。

 先輩が小学校を卒業してからは、私と先輩とは自然と疎遠になりました。
 元々4つも年が違いますし中学になってから先輩と学区も違いましたから当然といえば当然でしょう。

 時々バス停などで顔を合わる事もありましたが、一言、二言季節の挨拶を交わす程度の随分とよそよそしい関係になっていましたよ。

 ほとんど他人となっていた私たちの距離が再び近づいたのは、社会に出てからでしょうか。
 この土地は田舎ですから就職口も少なく、卒業後は就職の為都会へ出てしまう人が多いのですが私はこの街に残りずっと小さな仕事を請け負って生計をたてていました。

 この街を出なかったのは……そうですね。
 どこにいってもどうせ皆、私の母が犯した事件を知っていると思ったし、ここで何とか成功して子供の頃から白い目を向けてきた連中を見返してやろうという私なりの意地だったのでしょうか。

 もっともその結果については、あなたが今知っての通りですが……話がそれてしまいましたね。

 先輩と再会したのは、仕事に慣れはじめた頃でした。
 私の仕事場に営業として飛び込んできたのが先輩で……友達と離れ、一人でいる事の多くなっていた私は懐かしい顔と出会えた事が嬉しく、自分から話しかけていったのを覚えています。

 先輩が雇い主で、私は雇われ側。
 立場の違いはありましたが、子供の頃よりずっと親密なつきあいを幾ばくか続けさせていただきましたよ。

 とはいっても、数ヶ月に一度ないしは二度、居酒屋に誘われる程度の仲ですし、会話は大概他愛もないもの……上司の愚痴やら、テレビの話題。スポーツではどこのチームが勝ったの負けたの……そんな有り体な事でしたよ。話をするのは私の方が多かった気がします。

 えぇ、貴方も薄々勘付いているとは思いますが、私は何かと冗長に話し続ける性格でしたから、誰かを捕まえては延々と無駄口をたたいてしまう性分なのです。

 対して先輩は無口なほうで……いつも私の話を黙って聞くばかりでした。

 確かあの時も話す相手ほしさに先輩を居酒屋に誘ったように思います。飲んで語って暫く後、普段は口数の少ない先輩の方からこんな話をしてきました。


 「そういえば、キミは仕事で修理なども請け負っているんだったよな……」


 先輩の話は要約すると、家のパソコンが動かなくなった、というものでした。

 パソコンを触った事がある方ならご存じかもしれませんが、これというのは急に動かなくなった時、何処が悪いのか分かりにくいモノなのです。
 電源がつかなくなったとしたら、電源まわりがショートしているのか、それともパソコン本体のデータが消えてしまったのか、単なる操作ミスか充電がうまくいってないのか。そういった事さえ判別するのが、難しかったりする訳です。

 先輩のパソコンもそういう状況のようでして、機械が壊れてしまってもう修復さえ難しい状況なのか。それとも単なる操作ミスで簡単に修復出来る状態なのかも分からないようで、そういった修理に詳しい私に相談をもちかけたようでした。

 私も、一応はそういったものの修理で生計をたてていましたので、普段から愚痴を聞いてもらっていた恩義もあり、話を聞いてみたらどうやら、先輩のパソコンはデータ……パソコンを動かす為の情報、その一部が欠損していただけで、データーを入れ直せば何とか動きそうな状態に思えました。

 それなら、先輩の家に見に行ってあげましょうか……。

 自分からそう提案したのか、それとも先輩に頼まれたのかはもうあまり覚えてません。
 とにかく気付いた時、私は先輩の家に行く事に相成っておりました。

 20年近く訪れなかった先輩の家は、以前と変わらぬ場所に建っておりましたが以前のような歪んだ印象はありませんでした。
 草木はすっかり刈られ、小さな庭が見えるようになっておりました。

 玄関にはみ出すほどに積まれた冷蔵庫の形もありません。

 数年前、先輩が結婚する以前に建て直したのだという話でした。心の均衡を失った母を病院に入れた後は、冷蔵庫もすべて処分した、という話です。
 先輩が結婚したのだという話は風の噂で聞いておりました、確か娘さんも一人居るのだという事も……。

 家についたのは、もう午前0時に近かったでしょうか。室内は驚く程に静かだったのは覚えています。

 結婚した、というのは聞いていたのであの静寂は少々不気味に思えましたが、夜も更けておりましたし、皆もう寝ているのだろうと思いさして気にはしませんでした。

 室内はきちんと整頓され、ものが少なかったようには思いましたが、幼少の頃に見たあの崩れかけた家の面影は全くありません。
 整然とした廊下を通され、二階に上がればパソコンが一台置かれておりました。

 ……今考えるとあの整然とした廊下を、少しでも怪しんでおくべきだったのだと思います。

 だってそうでしょう。
 玄関には、先輩の靴しかなかったんです。結婚して、娘のいる先輩の家に先輩の靴しかなかったのですから……。

 家についてパソコンと向き合う私に、先輩はビールを注いでくれました。居酒屋では飲み足りなかっただろうと、気を使って出してくれたのでしょう。
 もう夏は過ぎておりますが、まだまだ残暑の厳しい頃。店を出てから30分近く歩いた事もあり喉の乾いていた私は、注がれるビールに口をつけました。

 ですが、到底その液体を飲み下す事などできませんでした。

 何故かって?
 ……臭いですよ。

 あの臭いを、何と形容していいのか私はすぐに思いつきませんでした。
 肉の、饐えた臭いとでも言うのでしょうか……熟れすぎた果実のように腐り始めた血肉の、臭いがしたのです。

 そう、あれは祖母の葬儀の時。香の臭いに隠された、紛れもない死の臭いでした。

 口の中に含まれた死の香りに、反射的に嘔吐を催した私でしたが、吐き出す訳にもいかず飲み下し、それから酒には手を付けず……表向きはもう飲めない振りをして、パソコン作業に没頭する事にしました。

 飲み下した液体は、まるで腹の底にこびり付くように残り、鼻には饐えた死の臭いが悪戯に爪をたてておりました。

 暫く作業をしているうち、先輩のパソコンが自分の考えているような状態ではなかったという事……単純にデータが消えているのではなく、ハードディスクそのものが……機械の中身そのものが壊れているのだ、という事が分かってきました。


 「駄目ですね、先輩。これは、もう壊れていますよ」


 私は簡単に、すでに中の機械が駄目になっているという事とこの状態だと新しいデータを入れる事が出来ないのだという事を告げました。

 修復は難しいだろう、壊れているのだから。

 私の説明に落胆するのかと思いましたが……あぁ、パソコンを使っている方はご存じだと思いますが、パソコンのデータが破損するというのはかなり大事なのです。何せそれまで蓄積した数年の情報が、全て消え失せてしまう訳ですから。


 「そうか、壊れているのか」


 それでも先輩はさして大事がおこった様子は見せず、いつものように穏やかな口調のままでした。
 注いだあの生臭い麦酒を飲み下し、なお冷静でさして慌てていなかったものですから、これは恐らくバックアップ……壊れる以前に大事なデータは保存していたのだろうと思っておりました。

 注がれた麦酒は半分残ってましたが、手をつけずにおきました。
 汗のように滴る結露が赤く見えたのは、気のせいだったに違いないと今でも思っております。


 「えぇ、壊れているのです。私じゃ手に負えませんから……修理はメーカーか購入した店にお願いしたほうがいいですよ」


 有り体の言葉を述べて修理を促す私をよそに、先輩は何やらパソコンを弄り出しました。
 コードを抜き、キーボードを重ね……パソコン本体を何処かに運ぼうと処理しているようでした。


 「先輩、どうするんですかそれ」


 私がそれを聞いたのは、もし修理に出すなら自分の仕事場にという思いもありましたが、その殆どが好奇心からだったのは否定出来ません。
 いきなりパソコンを片づけ出した先輩の姿が滑稽で、問いかけたのです。


 「冷蔵庫に入れるんだよ」


 その時まで、私は先輩が壊れた玩具を冷蔵庫に入れる人だ、という事を忘れていました。
 そしてその奇妙なクセが今でもなおっていなかった事もさして重要な事ではなく、ただ微笑ましい事だと思っていました。


 「冷蔵庫にいれてもパソコンは直りませんよ」


 先輩は冗談で言ってるのだと思っていましたので、私は軽く笑っていいました。
 すると先輩は……まるでサンタクロースの幻想を否定された少年のように絶望的な表情を、私に向けたのです。


 「なおる! 今までだってなおったんだ、絶対になおる!」


 それから二度、三度と直る、直らないの押し問答が続きましたが、最後は先輩に 「そんなに疑うなら見に来い」 と言われ、私は先輩が冷蔵庫にパソコンを押し込む姿を見る事と相成りました。

 何故こんな馬鹿げた茶番に付き合わなければいけないんだ。あの時はそう、そんな思いしかありませんでした。

 静まりかえった廊下は、妙に冷え切っていたように思えます。
 子供が居るにしては、静かすぎのでしょうが、私はまだ独身で子もない身の上ですから、それには気づきませんでした。


 「先輩、台所。過ぎましたよ」


 先輩が台所を過ぎ、暖簾の向こうからみえる家庭用冷蔵庫を無視して廊下の奥へ向かったモノですから、袖を引いてそう言いました。
 だけど先輩は穏やかに笑って 「その冷蔵庫は違うから」 等と宣いまして、さらに奥へと進んでいきます。

 先輩の家が歪んでいた頃は気付きませんでしたが、この家はかなり奥行きのある土地だったようでした。

 廊下は暗い事もあって、やたらと長く感じました。
 室内は相変わらず静かで、私と先輩の足音だけがぎしぎしぎしぎし響いていました。

 残暑が厳しい時期であるにも関わらず、どこからか冷気が流れ込んでおり、足下から寒気が襲ってきました。

 妙だな、と思った時闇の中に錆の浮かび上がった、重々しい鉄扉が現れたのです。
 大仰なかんぬきのついたそれは、巨大な冷蔵庫でした。

 皆さんが先輩の家に上がったのでしたら、きっとご覧になった事でしょうが先輩の家には業務用の巨大な冷蔵庫があったのです。

 先輩が、家を新築した時に増設したのでしょう。
 家の大きさからすると不釣り合いなくらいに巨大な冷蔵庫でした。私の記憶が正しければ、先輩は確か卒業後は営業関係の職種に赴いていたはず。

 料理人でもない先輩には、明らかに不似合いな大きさの冷蔵庫です。
 その時、私はようやくこの家の異質さに気付きました。


 「この中に入れるぞ。なぁ、扉を開けてくれよ」


 パソコンで両手がふさがっていた先輩は、私に扉を開けるよう促しました。
 その時私は、この異質な光景を前にどうしていいのか分からず、促されるまま扉を開けました。

 開けるしかない……そう、開けようとして気付いたのです。

 その扉がもう、何者かによって開けられていた事……廊下に流れ込んでいた冷気の正体が、この冷蔵庫から流れ出たものだという事にです。
 先輩が閉め忘れたのだろうか。それとも……。

 深く考える事を辞め、もうただ帰りたい気持ちばかり募らせながら、私は冷蔵庫へ入っていく先輩を眺めていました。


 「ついて来いよ。ほら、見てろ……」


 先輩にそう促されなければ、中に入る事なんてしなかったでしょう。
 ですが先輩は私にきちんと、壊れたパソコンをしまう姿を見せないと気が済まなかったようで、中に入るよう促します。

 やむを得ず中に入れば、冷気より先に異質なにおい……あの麦酒を飲み下した時にした、冷たい死のにおいがしたのです。

 あぁ、何だろうこの暗くて重い嫌なにおいは。
 気付かなければきっと私は幸せでいられると、そう思ったのは事実です。
 ですが私はあの時に、この生から外れた異質な臭いの正体を確かめずにはいられなかったのです。
 ここでその根源を確かめなければ、一生この臭いに怯えなければいけないような、そんな気がしたからです。

 ……実際、その根源を探った今も臭いが消える事などなかったのですけれどもね。

 さて、周囲を見回しましたが、中は思った以上に暗闇に満たされておりました。
 夜分遅くという事もあったのでしょうが、閉ざされた冷蔵庫は外界から遮断された完全な暗室だったのです。

 扉を開けたわずかな灯りのみを頼りに周囲を見回しても、辛うじて見えるのは先輩の背中だけ。
 それもただ輪郭がわかり、温もりで人がいるのが分かる程度の曖昧のものでした。

 あかり一つ持ってきていないのですから、当然といえば当然です。

 何とかしてこの場を照らす事は出来ないか……。
 そう思った私は、ポケットにライターを入れてた事を思い出しました。

 私は喫煙者でして……最近はめっきり厳しいご時世で人前で吸う事はないのですが、その時は煙草を取り出すフリをしてね、こう……炎を照らしたのです。


 「何だ、ここは冷蔵庫だぞ。火なんてつけるな」


 なるべく手早く火をつけて周囲の様子を伺ったらすぐに消すつもりでしたが、私のライターは重いモノでしたので、取り出し火をつけた瞬間先輩にそう叱責されました。


 「でも、暗くて先輩の手元が見えないんです……ご容赦下さいよ」


 そういって先輩の姿を照らすふりをして、右へ左へ。暗闇に包まれたその空間を素早く照らしました。

 その場所は……冷蔵庫であるにも関わらず、置いてあるのは殆どがらくたばかりでした。

 女の子……2,3歳の女の子が着るお姫様のようなドレスの破れたモノや、お飯事セット。
 コードの千切れたファックス付き電話。
 ブラウン管のテレビなども、あったかと思います。

 いや、それはきっとあなた方が詳しいと思います。もう先輩の家も、お調べになっているのでしょうからね。

 いろいろながらくたが詰め込まれておりましたが、はっきりと覚えているのは冷蔵庫だというのに、何ら食料らしいものが見あたらなかったという事でしょう。
 えぇ、先輩は冷蔵庫でモノを直すのを、本気にしてらしたのでしょうね。

 さて、炎の灯りで一寸先を照らせば、そこには私たち意外に二つ程大きな人影があるのに気付きました。
 むせるような臭いもどうやら、その影から漂うようです。

 はい、先輩の家に訪れた皆さんなら私の見たものはもうご存じでしょう。
 今更説明するのも憚られるので割愛させて頂けたら幸いなのですが……そうも行きませんでしょうから、要約させて頂きます。

 あったのは二つの肉でした。

 丁重に処理されていたのだと思います。
 両手を上に縛られフックにぶら下げられる二つの肉は……もう、半分以上腐り始めてはおりましたが、一つは男性の。一つは女性のものだというのは何となくわかりました。

 落ちくぼんだ目はすっかりとろけた液体となり、どす黒い涙となって頬にこびり付いておりました。
 わずかなボロ布をまとった服の上には、腐り爆ぜた肉を喰らいに来たのでしょうか。
 何とも知れぬ虫たちが蠢き、その足下には腹に残った宿便が、とろけた内臓とともに滴りおちて出来た黒い水場が出来ておりました。

 肉塊は二つ……。
 女性と思しき肉塊は、頭が割られていたのか、開いた傷から脳髄が零れそうになっていたのははっきりと覚えています。

 あぁ、この人は殺されたのだ……先輩に。
 直感的にそう思ったのは、彼女の指にプラチナの指輪がつけられていたからです。

 そしてやっと私はこの家で、まだ結婚して間もない先輩のこの家で、奥様の姿を拝見してなかった事。
 夜がまるで死に絶えたように静かだった理由に気付いたのです。


 「あぁ、これ……オヤジだ。あと、こっちが妻」


 呆然と……自分の表情は見えませんが、恐らく私はその肉塊をただ呆然と見つめていた事でしょう。
 指先がじりじりと熱くなってきたのにも、気付きませんでした。

 そんな私の視線にも気付かず、先輩は淡々としていました。

 あの時は異質さにおされてましたが、考えてみれば当然です。
 先輩は必ず、奥さんも父親も生き返るものだと思っていたのですから。

 壊れたものは冷蔵庫にいれればなおると、思っていたのですから。


 「猫が死んだ時も、こうしていればなおったのにオヤジは……」


 ……今思いますと、先輩の父親は私と同様、修理工などをやっておりました。

 簡単な玩具などはきっと、直していたのだと思います。
 死んだ子猫もきっと、似た子猫を連れてきたのだと思います。先輩の飼っていた猫は、よく見かける子猫だったですから。

 恐らくそう、冷蔵庫のものが直るというのは全て、先輩の父親が見せた子供に対する優しい嘘だったのです。


 「……でも、なおらないんだ。もう。最近はさ……何でだろうなぁ」


 先輩だって、少しはそれに気付いていたのだと思います。なおらなくなった玩具をかかえ、息をしない肉塊を抱えて、でもそれを見たくなかった。

 だから冷蔵庫にしまったのです。
 そうする事で全てを閉ざして、きっとそれが安息だったのです。

 ……私はそう、思ってました。


 「そうだ、もうなおっている頃なんだ……アイツが死んで……もう一週間はたつ。いや、あれは事故だったんだが俺のせいじゃない……あの子が……娘が死んだ時だって事故だっていうのに。うるさく言うから少し乱暴にして壊れてしまって俺のせいじゃない。壊れただけだから冷蔵庫に入れればいいんだ、冷蔵庫にいれれば……」


 先輩は虚空にむかって、何やら戯言のように呟いておりました。
 私でも意味がわかったのはそこだけ、あとは幾度も幾度も「冷蔵庫にいれたから大丈夫」「冷蔵庫があるから」と、ただそれを繰り返しておりました。

 壊れてしまっているんだな、もう。

 先輩の心がそこまで歪になっている事なんて、その時まで知りませんでした。
 私はとにかくこの場から逃げ出したい一心で、ゆっくり、ゆっくり後ずさりをはじめました。

 少しずつ、熱を帯びたライターの炎は確実に私の肉を焦がしておりました。


 「そうだ」


 先輩が声をあげたのと、火であつくなったライターを私が取り落としたのは、殆ど一緒だったと思います。
 自ら取り落とした火のせいで突如洗われた闇のなか、出口を見失った私の背後で先輩の声ばかり響いておりました。


 「そうだ、部品が足りないんだな。オヤジも、妻も、なおるのには部品が足りないんだ。そして、足りない部品は……今、俺の目の前にあるものな」


 先輩の意味する部品が何であるのか、すぐに察した私は焦りました。
 殺されると、そう思ったのです。

 ですが突如訪れた闇に目がなれない私は勝手がわからず、慌てて動いたばかりに足をとられ転倒する始末です。

 一方先輩は、私より暗い場所に居たのもあるでしょう。
 勝手知ったる我が家なので私より動くのは優位だったのもあるでしょう。

 床に伏せ狼狽える私の身体に馬乗りになると、この首に強く締め上げられたのです。
 私は見ての通りあまり大きな体はしておりません。
 皆さんからしても華奢でしょう。

 先輩も決して大柄な人ではありませんでしたが、それでも唐突で狼狽えていた私より幾分もアドバンテージはあったと思います。
 とにかく馬乗りになり押さえつけられた私は、殆ど抵抗など出来ませんでした。

 ただ締め付けられる苦しみに耐え、何とな逃れられないかと必死に締め上げる腕をかきむしって抵抗するだけだったと思います。

 ……先輩の腕には、私の残した引っ掻き傷があったそうですね。
 それは紛れもなく私のつけたものです。否定しません。ですからそれが罪に問われるというのでしたら、遠慮なく訴えてください。

 私は罪から逃れようという気は、いまさらありませんので。

 ですが上にのった男を払いのける程、私も力はありませんでした。
 したたかに酔っていたのもあったのですが、その時の先輩は本気で私を締め上げていたのでしょう。

 徐々に意識も薄らいできました。
 部屋全体を包んでいた冷気は全身を包み込み、残暑の潜む夜だというのにやたらと寒く感じました。


 ひたひたひたひたひたひたひたひた。
 その時滑る足音が、廊下の方から聞こえてきたのも、死に至る前の錯覚だと思っておりました。


 ひたひたひたひたひたひたひたひた、ひた。
 死に至る以前に見る走馬燈のような思い出、その一つに組み込まれた一つのシーンかと思っておりました。ですが。


 ひたひたひたひたひたひたひたひた、ひた。ひた。
 歪む足音を携えて、それは姿を現したのです。


 「おまえは……」


 手の力がゆるんだのがわかりました。
 先輩は立ち上がり、私に興味を失ったようにただ影を見つめておりました。思いっきり締め上げられて、半ば意識を失い欠けていた私は現れた影が現実のものだったのかさえわかりませんでした。


 「そうか、そうか……なおったんだな! オヤジと……お爺さんと、お母さんの部品がおまえにちょうど良かったんだな。そうか、そうか、やはり……冷蔵庫にいれておけば大丈夫だったな」


 その時先輩が何を見ていたのか、私にはわかりません。 ただ、小さい影が部屋へ滑り込んだ気は、しました。

 今、逃げなければいけない。

 とっさにそう思った私は、慣れてきた目がうつす微かな道を頼りに、転がるように部屋から出ました。
 部屋から出て、ただ夢中で走り出しました。走りながら漠然と考えたのは、この部屋に入る前の事です。

 そう、冷蔵庫の扉は開いていたのです。

 ただ閉め忘れたのだと思っていました。
 でも、あの扉は中に閉じこめられる人の事も想定していたのでしょうか、内側からも開くように出来ていたのです。

 中にいた、誰かが内側から開けた。
 先輩は影を見て、「なおった」のだといっておりました。

 背後から男の叫びとも、獣の咆吼ともつかぬ恐ろしい声が響いたのは、その直後だったと思います。

 ですが私は振り返りませんでした。
 振り返らず走る事しか、出来ませんでした。



 家に戻って泥のように眠り、気付いた時はすでに昼過ぎだったと思います。
 ですがもう、私は到底部屋から出る気にもなれませんでした。

 周囲にしばらく休みたい事を告げ、あの出来事が夢か現か判別出来ないまま数日を過ごしておりました。

 はい、先輩の元へただ一本電話をかければ全て終わる事なのですが、あの出来事を目の当たりにしてそんな気になれないという理由は、おわかり頂けるかと思います。

 ですが一週間もたてば幾分か冷静さを取り戻してきます。
 日がたつにつれ、私は、やはりあれは全て夢だったのだろう。そう思うようになり、闇に怯えず済むようになった頃でした。


 月のない夜の事です。

 熱気を帯びた風が頬を撫で、眠れない私は外の風を入れようと僅かに窓を開けました。
 外の風は肌にまとわりつくよう温く……そして、饐えた臭いを運んできました。それはそう、麦酒にまで浸食したあの、死のにおいでした。

 とっさに窓を閉め、鍵をかけ……何故この臭いがここにあるのか困惑しながら布団にもぐる私の耳に、誰かの足音が響いてきました。


 ずるり、ぐしゃ。ひたり、ずるり。


 私の部屋は一階で、アパートのなかでも、最も出入り口に近い場所にありますもので、誰か人がきたらその足音でわかるのです。
 長くこの家に暮らしているので、今はどの足音がどの部屋の住人か。概ね分かるようになってはいましたが、その足音は誰のものとも当てはまらない音でした。

 誰だろうこんな時間に。
 そもそもこのアパートには、夜遅くに出入りする人間は殆どいません。足音は私の部屋の前で留まると、遠慮がちに呼び鈴を押しました。


 ジリリリリ……ジリリリリ……。
 一度目は短く。


 ジリリリリリリリリリ……ジリリリリリ……。
 二度目は焦れたように、長く。


 ジリ、ジリリ、ジリ、ジリリリ、ジリ、ジリリリ……。
 三度目以後は乱暴に、連打するように呼び鈴は押されました。

 ですが私は気付かぬふりをして、ただ布団にうずくまっている事しか出来ませんでした。
 真夜中に呼び鈴を鳴らす非常識な来訪者など出なくてもいい、というのが建前でしたが、本音は怖かったのです。

 私は、ドアの向こうに何がいるのか分かっていたのですから。

 こうしてただ寝たふりをして、やり過ごそうとしているのがわかったのでしょうか。
 ドアの向こうにあらわれたものは、最初は遠慮がちに。だが次第に乱暴に、ドアを叩きはじめたのです。


 「おい、おい、寝てるんじゃない……わかるだろう、俺だよ。俺、ほら、お前に見せたいんだ。冷蔵庫にいれたら直るって、お前に見せたいんだ。パソコンはまだなおってないが……ほら俺はもうなおったんだ、ほら、ほら、見てくれよ。ほら、ほら……」


 ドアの向こうからは鼻にこびり付くような臭いが漂っていました。
 私はとうとう、ドアをあける事が出来ないまま震える事しか出来ませんでした。

 ……はい、後は皆さんご存じの通りです。

 私の部屋の前に千切れた腕のような肉片があり、私は人殺しの容疑がかかっているのですよね。

 全てを聞いて頂ければ分かりますように、私は誰も殺しておりません。
 死体の場所を聞いても勿論、お答え出来ません。ですけど、もし罪として裁かれるのであれば私はね、その方がいいと思います。

 何故かって、おわかりでしょう。

 先輩は、何処にもいないのです。誰も見つけていないのです。先輩だけじゃない、あの時消えた影も……。
 きっと先輩はまだ闇のどこかで私に、見せようと思っているのですよ。

 冷蔵庫にいれて、なおった身体の事を。

 だから私はここに居たいのです、ここの闇は、外の闇より幾分か安心ですからね。



 私の話は、これだけです。

 えぇ、信じていただけないのならそれで結構、何せ私自身が、全てを信じている訳ではありませんから…………。
 あぁ、もしよろしければ、何か壊れたものを冷蔵庫にいれてみてはいかがですか。そしたらきっと真実がわかると思うのです。


 あの夜の、真実がね。






 <もどりばこちら>