>> おみなえし
窓からひゅぅひゅぅと、冷たい風が吹いて参りました。
季節は程なくして、秋になるので御座いましょう。
時刻はもうすぐ昼過ぎになる頃合いでしょうか。
私はまだ真新しい仏前を前に一度小さく身じろぎすると、ようやくゆるゆると起き上がりぼやけていた意識が次第にはっきりとしてきます。
見れば、周囲にあるのはからっぽになったウイスキーボトルと飲みかけのグラスのみ。
昨夜もまた深酒を致したまま、テーブルに突っ伏して眠ってしまったのでしょう。
周囲には飲みかけの酒瓶がいくつか転がっておりました。
こんな私を見たら、貴方は何と言うのでしょうね。
「いけないな」と窘めるので御座いましょうか。
「どうしたんだい?」とあの、困ったような笑顔を向けて、私を抱きしめてくれるのでしょうか。
貴方はどちらをするとでもなくただ、写真のなかで笑っているだけ。
貴方を失ったら、もう生きてはいけない……。
そう頑なに信じておりました私でございましたが。
(まだ、生きてる……)
まだ生きているのです。
呼吸をして、胸は鼓動を刻み、身体は温かく……それでも心は空虚なまま、まだ死ねないでいるのです。
深酒の代償か、鈍い痛みが頭をずくん、ずくんと攻め立てます。
非道い吐き気、そして目眩も私の中で渦巻いております。でも、それでも、貴方がいない苦しみの方がまだ大きいのでございます。
どうして、どうして……。
……幸せにしてくださると、そう言って、私をお嫁にしてくださったんじゃぁ無いんですか。
どうして、どうして……。
……誰よりも幸福をくださった貴方の存在が今、この世界にある何よりも私を苦しめております。
こんなに苦しいのに、こんなに悲しいのに。
どうして私は、貴方の所へ行こうともせず、ぐずぐずと生を貪っているので御座いましょう……。
「あなた……」
結局私はテーブルに突っ伏したまま、身動ぎせず泣いておりました。
涙を拭う事も出来ずただ、その雫が流れるのを任せる事しか出来ないのです。
……あなた、私は、貴方と会った時と同じ。か弱い、みじめな女なのです。
貴方とともに歩けたから、一人の女で居られたのです。
それなのに、それなのに……。
うつら、うつら。
抜けきらないアルコールの効果か、暫くそのまま微睡んでおりました。
冷たく吹き荒んでいた秋風も午後に入れば幾分か暖かさを取り戻し、部屋の中を春のように暖かくします。
それはまるであの人の腕の中にいるように暖かくて、優しくて……僅かな間ですが私を、貴方の腕の中にいるよう思わせてくれたのでございます。
けれども微睡みは所詮は微睡み。
夢幻にしかすぎませぬ。
ここに貴方がいないのも、委細承知しております。
だけど、それでも……。
(もう少しだけ、このままで……この温もりを……)
願うように日溜まりに抱かれる私の耳に、呼び鈴の音が、響いておりました。
誰かが来たようで御座います。
私ははっと目を覚まし、とりあえず鏡の前に立ちました。
……あの人はもうおりません。
ですが、あの人はいつも「綺麗な私」を愛してくださいました。
だから例えあの人がいなくても、あの人のなかにある私を人前では崩したくはない……。
そんな薄っぺらい虚栄心から身支度を整え、玄関に赴けばそこにはご用聞きの青年が、まだあどけなさを残す笑顔で笑っているのでした。
……ご近所の酒屋さんでした。
ここは田舎だからこうした配達もしているのだよ、醤油やお酒などを配達しているのだけれども、他にも困った事があったら何でも言って欲しいんだ……。
初めてあった時に彼はそのような事をもうしていたと思います。
そう、初めてあった時は本当に少年のままで、家の跡継ぎとして自分が、このような配達業務に追われる事がいかにも不満な顔でしたが、最近はどうでしょう。
この街には老人も多いし、自分のような足がなければいけない……。
そのような自覚に芽生えたようで、自らの仕事に「生き甲斐」を感じているように思えます。
……それに比べて私はどうでしょう。
生き甲斐はすでになく、しかし死にさえ選ばれない私は……。
「奥さん……無理、しないでください」
今は何も必要ありませんから……。
そう告げた私に、彼はそんな事を、言ってくれたような気がしました。
ですがどうしてでしょう。
こんな優しく暖かな言葉さえ上滑りして、全く耳に入らないのです。
他人の気遣いが、みじめな女にかけられる同情のように思えて受け入れる事など出来ないのです。
そんなひねくれた心持ちになってしまう自分が、醜く浅ましい女に思えて……。
(あなた……あなた、あなた……)
こんな事をしてはきっと、死に選ばれてもあの人の所になんていけない。
そう思っているのに。
からん、からん。
グラスの中で溶けた氷が滑りおち、そんな音をたてます。
琥珀色の液体はあの人の死を忘れさせはしない。
そんな事分かっているのです、分かっているのですけれども。
「もう一杯、もう一杯飲んでもいいかしら。ねぇ……あなた……」
虚空に向い手を伸ばせば、そこにあなたがいるようで……。
だから私は、今日も酔夢に溺れるのです。
あなたがいない寂しさを忘れる事ができなくても、せめてこの酔いの中で貴方のいない寂しさが紛れるように祈りながら。
そうしてまた、朝がやってまいりました。
昨晩の酒が抜けないまま重い身体を引きずれば、今日も案外と暖かいのでしょう。部屋には日溜まりが出来ており、そこから庭が望めるようです。
……昨晩はどうやら、雨戸を閉めるのを忘れていたようでした。
女一人になって不用心だと世間の皆様は仰るのでしょうが、その時私は自分の身体にも、命にも、何ら執着が御座いませんでしたから、そんな事とんと気にも留めなかったので御座います。
「まだ……生きてる……」
こみ上げる吐き気と目眩とを身体に刻みながら、ふらふらと日溜まりへ赴いたのはただの気紛れでした。ですが……。
「あ……」
そこにはまばゆいばかりの金色の花が、咲いておりました。
……おみなえし。
そう、それはあの人と初めて二人で出かけた時に咲いていた花……。
あの時の思い出を色あせず残しておきたいと、二人の思い出に植えた花……。
……私はこの子の事を忘れて自ら哀しみに浸っている間にも、この子はあの頃の思い出を背負って咲き続けてくれていたので御座います。
あの人の、面影を背負ったこの子が……。
「おみなえしの花言葉は……」
……永久。
そう形がなくても……あなたとの思いは……。
「……そう、そうよね。私が貴方を忘れてしまったら」
この哀しみも苦しみも全て忘れてしまったら、あなたのくれた喜びも全て無くしてしまうという事。そんな簡単な事が、どうしてわからなかったのでしょうか。
あの子はそれを忘れまいと、あの子の事なんて全く構ってやれなかった、愚かな私の前で咲き誇ってくれたというのに……。
「そうね、そうね……あなた……ごめんなさい、ごめんなさい……私、もうすこし……」
もうすこしだけ、がんばってみます。
おみなえしと、貴方の思いを胸に…………。
……崩れた髪を久しぶりに結い上げてみました。
あなたが好きだった化粧……赤い口紅なんてはずかしいと、今でも思うのですけれども。
貴方の愛した私でいれるよう、もう少し咲き誇ってみますから。
だから……。
「……おきれいになられましたね、奥さん」
ご用聞きの青年が、そんなお世辞を言ってくれるのが何だか嬉しくてくすぐったくて。
「お上手ね。それじゃぁ、何か頼んでおこうかしら……」
あれだけ人と接するのが苦しかった心が、幾分か軽くなった気がして。
秋の空は気紛れに天候をかえ、今日の青空も午後にはまた雨にかわるようですが、それでも。庭のおみなえしは美しく咲き誇っておりました。