>> 現世の男と常世の娘
……バスをまっているのですか?
生憎、バスは今し方行ってしまったばかりで次のバスがくるまで一時間はありますよ。
それでもお待ちになりますか?
……あぁ、そうですか。
1時間くらいなら本でも読んで待つというのですね、それもいいと思います。
失礼を承知でお聞きしますが、一体何の本をお読みになられているのですか?
あぁ……遠藤周作がお好きなのですね。
私も以前、生徒たちに彼の作品について教えた事があるので、何処か懐かしく思えます。
えぇ、これでも以前は教師をしておりました。
いえ、過去形ではないですね。今でもこの小さな島で、教師をしておりますから。
……。
…………もし、お時間よろしければ、私の話を聞いて頂けないでしょうか。
奇妙に思えるかもしれないのですけれども、貴方に話さなければいけないような、そんな気がするのです。
……。
…………そうですか、ありがとうございます。
それでは次のバスがくるまでの間、少しだけ私のおしゃべりにお付き合い下さい。
あれは……もう何十年も昔のようにも思えますし、つい最近だったような気もします。
今でも慣れた教師とは言えませんが、その頃の私はまだ新米でした。
教師2年目にしてはじめて担任となり一つの教室を受け持つ事になったのです。
「せんせい! ……せんせい!」
教師になってはじめて担任となった40人の生徒たち。
彼女はその中の一人でした。
顔立ちは他のクラスメイトたちと比べてもどこか幼く、あどけない印象の少女で短く切りそろえた黒髪に藍色のヘアピンをつけていたのを、今でも覚えています。
校舎に向かう長い、なだらかな坂道で手を振って走ってくる彼女の黒髪はいつもまるで宝物を見付けたような笑顔で輝いておりました。
彼女の笑顔はいつだって日の光を浴びていたからか、本当にきらきらと輝いて見えたのを覚えています。
……名は、もう忘れてしまいました。
しかし机はいつだって一番前の席で、いつも本を読んでいる生徒だったのは、よく覚えています。
今の貴方と同じように、遠藤周作や中島敦……海外ではO・ヘンリーやフランツ・カフカなどが好きだったようで休み時間ともなるといつだって文庫本を取り出して読んでいる姿は、今でも鮮明に思い出せます。
……文学少女だったのか、ですか?
そうですね、本が好きだという意味では文学少女と言えるのかもしれません。
ですが彼女は成績こそ悪くはなかったものの決して優等生ではありませんでした。
不良とも違うのですが……独自の世界を持つとでもいうのでしょうか。
終わった物語の「それから」を考えるのが好きな空想家で……。
お世辞にも空気を読むのが得意ではなく、突然思いついた事を熱を込めて話すために、クラスでは浮いた存在になっていたのが正直な所でしょう。
それでも彼女の成績は著しく悪かった訳でもなく、たまに自分の世界に夢中になってしまう事を除けば際だって素行が悪い生徒ではありませんでしたし、結局の所学校という場は、留年しない程度の成績をとり、きちんと出席日数を確保して、校則に違反しなければ空想がすぎる少女が過ごしていても問題としない場所だったのです。
ですから彼女はさして問題のない生徒と、教師たちの間ではそう扱われておりました。
私も……。
私もそう、そうですね……。
少々、気になる所はありましたが、とりわけ重大な問題があるとは、思っていませんでした。
情熱的な空想家ではあるものの、彼女は明るく朗らかな性格で友達も少なくはなかったですからね。
「先生、この前先生が勧めてくれた本なんですけどね……」
その頃、私は学校まで自転車通勤をしていました。
親元を離れ一人暮らしをしていた私は、どうせ配属されるなら街にも親しもうと、学校のすぐそばにあるアパートを借りていたのです。
彼女は私のアパートと比較的近い場所に住んでいたようで、登校時などで私の姿を見付けては一緒に学校まで向かうという事がよく、ありました。
「……そういう風に終わってたでしょう? でも、私あの時主人公が……そうやってたら、もっと素敵な終わり方だと思うんです。どうかな?」
彼女は読んだ本の後日談や、もしもの世界の話をするのが好きでした。
私も彼女の作ったハッピーエンドになる悲劇を聞くのは……それが、その作者が伝えたかった事と真逆の結果となったとしても、嫌いではなかったのです。
そうやって登下校の途中に何度もこうして顔をあわせては、一緒に学校までの道を話しながら歩いていました。
本の話題じゃない時は、大概が他愛もない話……。
駅前のパン屋ではハニートーストが美味しいだの、隣の家の軒下で猫が子供を産んだだのといった、とりとめもない話が多かったように思いますが、本当はどんな話をしていたのかよく、覚えてはおりませんでした。
ただ、楽しい……。
その思いだけは、はっきりと今でもこの心の中に、形となって残っているのです。
さて、彼女は大変な読書家だという事は先にも申し上げたかと思います。
ですが、彼女は「自分の本」というのは殆どもっていなかった様子で、大概は図書室の本を借りているか、誰かからもらった古い本を、それでこそボロボロになるまで、何度も何度も読み返していたのです。
……これは後で知ったのですが、彼女は学校に通うのもやっとの境遇だったのです。
幼い頃、育ての親である父が……あまり良くない死に方をして。
以後、親戚を点々とし……学校へは、援助を受けて通っているようでした。
それでも彼女の笑顔はいつだってかげりはなく、新米教師で不安だった私をいやしてくれていたのです。
「あ、これ、先生がこの前授業で教えてくれた本ですよ!」
ある日の事、彼女は私が授業でふれた作品をもってやってきたのです。
そう、今貴方が手にしているのと同じ本……遠藤周作の数ある著作の一つにすぎない本なのですが、彼女からしてみれば「初めて私が教えた作品」でもあったのでしょう。
「先生の授業を受けて、興味が出てみて……自分で、もう一回読んでみようと思って!」
彼女はそう言いながら、図書室で借りた小説を私に差し出しました。
……海と毒薬。
お世辞にも10代半ばを過ぎた頃合いの少女が競って読むような題材ではなかったと、今でもそう思います。
だけど彼女はその作品を、幾度も借りては読み。また借りては読むを繰り返していたようでした。
そんなに好きなら、プレゼントしてやろうかと思った事もあります。
ですが。
「いいんですよ、先生! 図書室にいって、色々な本を見て、その中からこの本を連れて来るのが楽しいんです、わたし」
彼女はいつもそういって、屈託のない笑顔で――本当に、何の邪念もない無垢な笑顔で笑うのでした。
「先生、教えてほしい事があるんですけど!」
……何時からだったでしょうか。
「先生、先生の好きな本とか教えてもらえますか? オススメの本じゃなくて、先生が好きな本がいいです」
いつも彼女が隣にいるようになったのは。
「先生、先生はどんな食べ物が好きですか。私、料理苦手だけど先生が好きなものなら作ってみようかな、って思ってるんです」
気付いた時、彼女が隣にいるのが当たり前になっていました。
とはいえ、その頃はやましい事などなく、周囲からも熱心な生徒と教師との関係くらいに見えていたでしょう。
私は――学校ではそれほど、目立つ教師ではありませんでしたし、目立たないようにも、していましたから。
というのも、私は元より教師になるのにあまり前向きではなく――子供が好きだったという訳でもなければ、熱心な教師により導いてもらえたという訳でもなく、ただ、成り行きとでもいいましょうか。
たまたま受験した学校で教育に携わる授業を受け、それが自分の中ではうまくいった学科であり、そのままの流れではじめただけの事で――志があったとか、尊敬する恩師がいたとか、そういった類の事は全くありませんでした。むしろ時間内をどれだけ暇をつぶせるか考えるような、ダメな男だったと思います。
そう、私は情熱とは無縁の怠惰な教師だったのです。
あまり熱心ではない私は当然、生徒にとって「うるさく言わない教師」でしかなかった訳ですから、誰も私に興味をもつ生徒などいないと、そう思っていたのですが……。
唯一彼女とだけは自然とそんな会話をするようになっていました。
無気力だった私にほんの僅かな原動力をくれた少女と会話を交わすようになった、ちょうどその頃です。
『先生のクラスにいる、あの生徒は色々な噂があるようですよ』
教師だったか。それとも別の大人だったか。
その噂を耳に入れたのが誰だったのか、今となっては覚えていません。
『育て親から虐待を受けているようです』
『父は――借金を苦にして、自分から――』
『それから養父に育てられているようですがその養父から――』
ただ、彼女の噂は日に日に多く、大きくなっていったのは今でも暗い感情として私の心に染みついております。
噂は噂、事実ではない。下世話な大人たちが憶測と興味をもって勝手に大きくしていくものだ。
頭でそう思っていました。
けれども、彼女の身体には見逃せない程の痣があって……。
……目を赤く腫らした彼女の姿を見るのも一度や二度ではなかったから――思い当たる事が、多すぎたのです。
何とかしてあげられないだろうか。
彼女の為に、何か私に出来る事は――。
いつしか私は、彼女をその束縛された環境から救い出す方法を模索するようになっていました。
例え生徒が傷ついているとわかっていても……学校という機関と教師という立場は、案外に無力です。
大人であるというアドバンテージがあるだけ。
結局模索していても、何も変えられないまま月日は過ぎ去っていました。
彼女の身体には痣が増え、身体には疲労が色濃く浮かぶようになっていました。
何も出来ない自分がもどかしくて。
それだっていうのに。
「いいんですよ、先生。私、今幸せですから!」
毎日、毎日、陰る事のない笑顔を見せる彼女のその顔が眩しくて。
私は何とか出来ないものか。何とかならないものか。
様々な機関をまわって、頭を下げて……。
徒労に終わると分かっていながら、彼女の為に尽力しつづけていました。
「……何で、そんな事してくれるんですか?」
ある日の放課後の事でした。
黄昏時の教室で……いえ、あれは教員室だったかもしれませんが……私は彼女にいつものように、授業でわからない所を教えている最中だったと思います。
「先生ですよね。私の事……いろいろな場所に、掛け合ってくれているの」
……彼女の問いかけに「知らない」とこたえたのは、それまで情熱を知らなかった私の密かな行動を知られるのが何となく気恥ずかしかったからでした。
それでもそんな嘘、彼女にだってすぐにわかってしまって……。
「何で嘘つくんですかぁ。この前きた、調査員の人がいってましたよ。……先生ですよね?」
彼女はそう言うと、不思議そうに私の顔をのぞき込むのでした。
彼女にとって、誰かが自分の為に尽くしてくれるという行動が不思議だったようです。
生徒が困っていると聞いて助けないのは教師として失格だと思ったから……。
模範的な回答で誤魔化そうとした私の目を、彼女は真っ直ぐ見据えておりました。
「でも、今まで、誰もそんな事しませんでしたよ」
それは、きっと事実だったのでしょう。
あるいは何とかしようと努力した教師もいたのでしょうが、身にならなかったに違いありません。
今までの先生は今までの先生で……私は、私の考えで貴方の力になりたいと思っていますよ。
当たり前のように告げれば、彼女もまた当たり前のように驚いて相変わらず私の目を捉えるのです。
「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」
それは、それまで「見て見ぬふり」をされてきた彼女にとっては当然の疑問だったのでしょう。
「私のために、無理しないでいいんですよ、先生。私はどんな事があっても、ずっと私でいられますけど。先生がもしこれで問題になったら、先生じゃなくなっちゃいますからね」
……無理なんてした事は、ありませんでした。
いや、全く無茶をしてなかったといえば嘘になります。だけども私は……。
……私は、彼女の笑顔が見たかったのです。
辛さを笑顔で覆い隠そうとする彼女の、本当の笑顔が。
「好きだからですよ、貴方が。私は、貴方が……貴方の笑顔が、好きなんです」
それは、教師であれば口にしてはいけない言葉だったのでしょう。
今でもなぜ、私がその言葉を秘めておけなかったのかわかりません。
若気の至りといえば、そうだったんでしょうが……。
それでも。
「もう、そんな笑顔で無理しないでください。辛いなら辛いと言ってくれればいいじゃないですか! 悲しいなら悲しい顔をして、泣いて……そういう顔をすればいいじゃないですか! 何でも笑顔で覆い隠して、無茶をして、私は……そんな貴方を見るのが辛い。だからです……」
言わずにはいられなかったのです。
この気持ちを抑えたまま、彼女と接するのが苦痛だったから。
「先生……」
私が内に秘めていた思いを吐露したその時。どんな非道い痣をつくった時だって、どんな非道い仕打ちを受けた時だって、いつも穏やかに笑っていた彼女が……。
「せんせぃ、せんせぃ……せんせぇ……っ」
はじめて、涙を見せたのです。
その目から大粒の、真珠のような涙を。
初めて見る彼女の、笑顔意外の表情に戸惑った私は、ただ彼女を抱き留める事しか出来ませんでした。
抱いた彼女の髪からは、軽やかな花々と同じにおいがしました。
笑顔を見たい人だったのに、非道い事をしてしまった。
そう思った私でしたが、彼女は笑って言うのです。
「ご、ごめんなさい先生。わたし、嬉しくて……」
……嬉しいと、彼女はその時言いました。
自分の耳を疑って、彼女の姿を見つめれば……。
「だって……好きな人が、私の事を好きだっていってくれたから…………」
そう。
涙は悲しい時だけじゃなく、嬉しい時にも出るもの。
その時彼女は、うれし泣きをしていたのです。
私が漏らした言葉、それは彼女がずっと望んでいて……そして、得られないと内心どこかで思っていた言葉だったのです。
「二人の時は、名前でいいですよ! むしろ、なまえで呼んでください。私、自分のなまえ好きですから」
それまで彼女を抱き留めていた手は、自然と彼女の手を握っていました。
私から握ったのか。それとも彼女が握ったのかは覚えていません。ただ。
「それじゃ、先生。デートしましょう、デート! 学校でもいいじゃないですか! いきましょ」
……黄昏時だった教室も、気付けばすっかり日が暮れ、生徒も誰も残ってないようでした。
その日は私が見回り役だったので、教師もまた私しか残ってなかったでしょう。
彼女は暗闇の校内を走り回り、無邪気にデートを楽しんでいました。
空想家の彼女にとって薄暗い校内でも、何処でも、華やかなデートの場所になるのです。
ぐるり、校内を一回りしてまた元の場所に戻った時。
「はぁっ、はぁ……楽しい。わたし、今日すっごく楽しいです!」
何もしてないも同然のそのデートで、無邪気に笑う彼女を見て、私はもっと彼女を幸せにしてあげたくて……。
「……先生?」
……気付いた時。
私の世界は、彼女ばかりになっていました。
口付けをした瞬間、彼女は恥ずかしそうに身動ぎをして。
でもすぐ、はにかんだように笑うと、そのまま静かに身を寄せ…………。
……私の、全てを受け入れてくれたのです。
わかっています。
教師として、大人として、越えてはいけない一線を越えたのですからきっと私は咎人なのでしょうね。
ですが……。
私の腕の中にある彼女は今にも壊れそうなくらい細くてか弱くて。すぐにでも助けてやらないと、そのまま粉々に壊れてしまいそうだったから。
「……結婚しましょうか」
つなぎ止めておきたかったのです。彼女を。壊れてしまいそうな彼女が、本当に砕けてしまわないように。
「えっ? 先生、もうプロポーズですか? ……卒業をまってからじゃないと、駄目なんじゃないですか」
「かまいませんよ。教師をやめてもいい。どこか、遠くの島にでも行きましょう。誰も知らない教会で小さな結婚式をあげて……」
「あはっ、小さな離島とか面白いですね。先生は魚をつったり、畑耕したりしてくらして。たまに、島にいる小さい子に読み書きとか教えてあげるんですね」
「そうです、そして隣には貴方がいる……悪くないと思いませんか?」
「あはっ……幸せすぎて、神様が嫉妬しちゃうくらいですよ」
子供じみた空想なのはわかってました。
でも、その時は……例え空想でもその時は、彼女をそんな幸福に導いてあげたいと、本気でそう思っていたのです。
「そうだ」
私は自分の荷物から、何か彼女に証になるものを。彼女を幸福にする為の誓いの意味合いもこめて、プレゼントしようと思い立ちました。
指輪でもあれば一番良かったんでしょうが……。
生憎といいますか、告白も突発的で行動も成り行き任せなものでしたから、あったのは髪留めだけ。
それも、以前妹が遊びにきた時に忘れていった、十字架を模した髪留めだけでした。
「これ、プレゼントです……今日の約束に」
「えっ?」
「……間に合わせでこんなつまらないものですが、いつかちゃんと指輪でも買いますから」
「そんな! いいんです、私はこれでいい。これだけでいい……」
西日を浴びて鮮やかに輝く銀色の髪留め髪留め。
それを手にした彼女は、幸福そうに笑っていました。
「ありがとうございます、私、とっても……とっても幸せです!」
その笑顔は何ら偽りのない、彼女の本心からの笑顔だったと。私は今でも、そう思っています。
……そんな生活がゆるゆると、続くのだと思っていました。
ですが、私の幸福は一本の電話で突如うち切られたのです。
『先生ですか? 貴方のクラスの生徒が……』
そこから電話の内容は、殆ど覚えていません。
事故でした。
自動車に轢かれ……打ち所が悪かった、という事です。
見る影もないボロボロの姿であれば私もあるいは、諦めがついたのでしょうが…彼女の姿は驚く程綺麗でした。
しかも、触れればまだ温かいのです。
心臓は脈打ち、体温はかわらず、目の前には私の愛した少女そのままの姿で横たわっているのです。
私への連絡は、彼女がもっていた荷物の中にある生徒手帳からのようでした。
私がきた時に、家族らしい人間の姿はありませんでした。
どうやら彼女の育て親は、彼女にかけた保険金には興味があるものの、彼女の生き死ににはあまり感心がないようだったのです。
誰より先に到着した私は、彼女の荷物を受け取りました。
鞄の中に入ってたのは、教科書と筆記具、それに小説。
そう、今ちょうど貴方が読んでる作品と同じものです。
私がはじめて教えた作品だからと、彼女は最後までその本を借りていたのです。
貸し出しカードには、彼女の名前ばかりが並んでいました。
それと、手帳がありました。
手帳には丸く可愛い字で、彼女の小さな思いが綴られていたのです。
『今日は先生にほめられた!』『今日は先生が笑ってた』『今日は先生が』『先生が……』
その手帳には、沢山の思い出が。
でも、私の事ばかりが綴られていたのです。
そしてもう、この手帳に新しい字が綴られる事がないのです。
目の前で息をしているのに。
脈打つ心臓があるのに、体温があるのに、彼女はもう目を覚まさない……。
脳死。
それが彼女に下された診断でした。
まだ彼女を失った事を受け入れきれてはいなかった私に、「臓器提供」の話を持ちかけてきたのは、皮肉な事に医者を志していた私の兄でした。
彼女は脳死状態。
脳は死にもう彼女という人格として目覚める事はないのでしょうが、その心臓はまだ脈打っているのです。
この心臓で、助かる誰かがいる。
だから彼女がもし、臓器提供を望んでいるのなら……助けられるのかもしれない。何処かにいる誰かを。
兄は概ねそのような事を、説明したかと思います。
移植のカードは、最初に荷物を見た私がもう見つけていました。
でも……。
切り刻まれる? 冗談じゃない!
彼女の体温はまだ温かいんだ。
彼女の心臓はまだ脈打っているんだ。
ほんの少し寝ているだけで、不意に目を覚まして。
「あ。おはよーございまーす。私すっごく長く寝ちゃってたみたいですよー。遅刻ですかね?」
だなんて。
いつもの調子で起きるに決まっているんだ。
脳死だなんて……。
もう二度と、彼女に会う事が出来ないなんて……そんな出来の悪い冗談、何処にある。
一体どこに……。
「そんなもの、何処にもなかった」
誰にも彼女を傷つけられたくなかった。
ついそんな嘘が口に出そうになる前に、彼女の囁きが聞こえてきたような、そんな気がしたのです。
「……先生、駄目ですよ。嘘は」
彼女は珍しく、怒ったように私に言うのです。
「教師が嘘付いちゃいけませんよ。それに、いいじゃないですか、私がバラバラになっても! 私、また先生にあいに行きますから……バラバラになったら、それだけ沢山の私に会えますよ!」
……脳死である。
二度と目覚めない彼女の、そんな声が聞こえたのだ。
幻聴だろうとは思うのだけれども……。
「……兄さん、これを。これが、彼女の意志です」
ドナーカードを手渡して、後は全て兄に任せる事にしました。
「ありがとう、先生」
最後にそんな言葉が聞こえたのは、私の希望だったのか、それとも……。
逢魔が時――。
夢と現が混じり合い、常世と現世が揺らぎ、人とあやかしが出会う頃。
夢とも、現実ともつかぬ時間に聞いたあの言葉は――。
「現世の男」と「常世の娘」触れてはいけない世界で聞いた、最後の言葉だったのかもしれません。
あの一瞬はこの世の摂理にあってはいけない瞬間だったのではと、今でも思います。
でも、私はそれでも幸福でした。
――その一瞬で私は永遠を生きていけるのですから。
……彼女は。
文字通り、血や骨、内臓から筋肉の筋にいたるまで肉体の全てをほとんど他者に提供されたと言う事です。
バラバラになった彼女は、私の瞼に安らかな笑顔を残したまま、永遠に届かぬ場所へ去っていったのです。
……。
……長話をして、すいませんでした。
あなたの読んでいた本を見て、かつての彼女を思いだしたもので……。
えぇ、彼女の臓器、血や骨が誰の元へと行ったのか、今の私に知る術はありません。
でも、別にそれはかまわないのです。
世界の何処かで、彼女の欠片を持つ人が微笑んでくれているのなら……。
……ここは、小さい島でしょう。
小さな教会もあります。
彼女と戯れに話した夢……その気持ちを引きずって、今の私はここで教師をしています。
彼女とともに過ごす予定だった平温な生活を送って、私は概ね幸せですよ。
どこかで、船の音が聞こえてくるようですね。
新緑が時々、はやし立てるようにどっと揺れて風も心地よいでしょう。
今年の夏もきっと、暑くなる事でしょうね。
……そろそろバスの時間ですね、お忙しい中聞いて頂いてすいませんでした。
あぁ……何も言わないでも結構です。
あなたの笑顔を見れただけで、私は充分幸せですから。
それでは、良い旅路を……。