>> 銀の棘






 ……永久とも思われる闇の微睡みから、今、俺は目覚めようとしていた。
 強烈な吐き気と目眩とが、俺を安息の闇から半ば強引に引きずり起こしたからだ。


 「うっ……ぇあっ、ぁ…………」


 目覚めてすぐに、嗚咽を漏らし、不快に蟠った胃袋の内容物を全てその場で嘔吐する。
 ……昨晩苦労して飲み下したものは、殆ど全て出てしまったのだろう。
 深く黒い汚水が、床板の上に飛び散る。

 昨日、苦労して抽出した毒も全て無駄に終わったという事か…………。


 「あーあ、また死に損なったみたいだね……」


 胃の内容物をひとしきり吐き出せば、半ば朦朧としていた俺の意識も幾分か冷静になる。
 闇の安らぎから目覚めた俺の眼前にあったのは、コンクリートに包まれた灰色の部屋と、歩けば軋む床板。
 そして、アンティーク調の椅子にこしかけた、俺と同じ顔をした男の姿だった。


 「……台所、見たよ。タバコ吸わないくせに1カートンもかって、今度はニコチンを飲んで死ぬつもりだったの?」


 俺と同じ顔を持つ男は、あきれ顔になりながら読みかけの本を閉じる。
 そして自ら首にかけたペンダントに軽く口づけをして俺を見据えた。

 ……十字架に似た、だがわずかに違うモチーフのそれは、俺たちが幼い頃から所属している「協会」のものだ。
 一応は「教義」があるが、宗教よりもよほど「組織」に近い……。

 教義を信じてひたすら祈りを捧げる信者たちも多いが、彼らは協会の本当の姿を知らないのだろう。
 知っていてこのモチーフに祈りを捧げられるのは、協会の上役と俺たちのような汚れ役……「銀の棘」の連中だけだ。


 「自殺は、教義の冒涜だよ…………兄さん」


 吐瀉物を前に口を拭う俺を見て、彼はそう、諭すように語る。

 ……そう、この男は俺の双子の弟になる。
 俺とは違い、教義を大義としてこの仕事を続ける事にさしたる疑問はもっていないようだった。

 元より……悩みというものはあまりもたない性分なのだろう。
 あるいは俺を見て「悩む事をやめた」のかもしれないが……ともあれ、深く考えずに「協会(うえ)」からの任務をこなしている。

 俺はまだ、弟のように割り切る事は出来ないが、いつか彼のように全て「仕方ない」と割り切って仕事が出来るようになるのだろうか。
 それとも俺が割り切るより先に、この命が潰えるのだろうか……。


 「致死量」


 コップに入ったコーヒーを……正確にいえば、抽出したニコチンに少しばかりコーヒーをまぜた毒を見ながら、弟は言う。


 「……致死量の半分も飲めてないじゃないか、兄さん。ほんと、兄さんはいっつもそうだ。死にたい、死にたいって何度もそうやって死のうとしているくせに、どこかで死に急ぐつもりはない」


 コップに残っていたそれをシンクに流し、綺麗に洗い始める。
 俺は何も言えず、ただその後ろ姿をみつめていた。


 「…………兄さんは、本当に臆病だね」


 弟は嘲るように言うが、その語調も表情も軟らかいのは、俺が死に損なったからだろう。
 俺はふらふら立ち上がると、身体についた吐瀉物を洗面台で流す。


 「もう一度言っておくけど……自殺は、教義に対する冒涜だよ。兄さん」


 冷たい水で顔をあらい、生乾きのタオルで拭う。
 振り返る俺の目には、さっきまで弟が読んでいた本が目に入る。

 ……それは、わざわざ日本から取り寄せた、漫画の類のようだった。
 殆どが男同士の……とりわけ、少年同士が恋愛という名において身体を貪り求めあう、そういった趣向の物語だ。

 仕事においてもそつがなく、どんな事でも俺以上にスマートにこなす。
 そんな弟がもつほぼ唯一といって良い歪んだ趣味がそれだった。

 この国の絵柄は日本のそれと比べればかわいげがないから、わざわざ日本から気に入った作品を取り寄せているのだというから本物だ。
 もちろん、同性への思慕もまた協会の求める教義に反する。


 「…………お前のそれは、冒涜じゃないのか?」


 弟が机に伏せた本をぱらぱらめくりながら皮肉のつもりでいうが、あいつは全く応えた様子も見せず、肩をすくめて見せるのだった。


 「あぁ確かにこういった本を持つ事さえ俺たちの教義では禁忌だよ。だけどそれでも実行にうつす訳じゃないだけマシだ。ましてや自ら命を絶つ最も冒涜的な事をしでかすより、ずっと、ずぅっとマシだ……違うかな、兄さん?」


 あいつの顔には笑みが張り付いてる。
 元よりこの手の言い合いで、俺に負ける訳がないと最初からそう思っているのだろう。

 実際確かにその通りで、いつもいつでも死に取り憑かれた俺ほど教義に反している人間はいないのだが。
 俺はそれ以上何も言わず、今日の「支度」をはじめた。

 今日の、協会のための奉公……その、準備を。




 無骨な鉄の塊の重みを腰に感じながら、殆ど人気のない小さな村へとやってくる。

 今日の奉公も、掃除だった。
 すでに殆ど仕事は終わり、噎せ返るような血の匂いがあたりに充満している。


 「ひぐぅ……ひぃ、ひぃっ…………」


 足を打ち抜かれた男は、逃げようにも逃げられないまま芋虫のようにもぞもぞはいずり回っていた。
 必死に何か語りかけているあたり、命乞いをしているのかもしれない。

 だが、俺はその言葉を理解する事ができなかった。
 ……こいつは、異教徒だ。俺たちの教義では「命」として認められてない存在だ。

 異端審問会のもと、異教徒を「見つけ次第狩り殺す」という目的をもって俺たち「銀の棘」は存在した。

 この地の平定は協会の意志。
 教義のため……それらの大義をもって、俺はいま言葉も知らない隣人の命を摘もうとしていた。


 「あぐぅっ……ぁ!」


 その呻き声を最後に、弾丸が眉間を貫く。
 一瞬の出来事だったはずだ。痛みを感じる暇もきっと無かった事だろう。


 「……よぉ、さっすが兄さん。すごい精度だな」


 隣では同じ顔をした男が、弾倉を入れ替えている途中だった。
 弟は俺が仕留めた標的を一つ一つ足で示しながら、うっすらと笑顔を浮かべている。


 「ほら、こいつも。こいつも、こいつもだ。見ろよ……殆どイッパツで殺ってる。兄さんはさ、本気で天才だよ」


 人を殺すのが上手いというのも天才と呼んでいいのなら、弟の言う通り、俺は確かにそうなのだろう。
 だが俺は別にそんな記録(レコード)はいらなかった。

 生まれ育ち教え込まれた教義についても、今は半ばどうだっていい。

 俺が生きているだけで、死体が増える。
 それは、それだけが……今はただ辛く、苦しく、鉛のように思い咎として心と体とにのし掛かってくるのだ。


 「……お前こそ、もう少し慎重に狙え」


 たった今、命の灯火を吹き消した男の躯を靴の先でふれる。
 ……俺たちの教義では、死体は穢れだ。そして、穢れにふれるのは禁忌とされる。
 半ばどうでもいいと思い、禁忌を犯して自らを殺そうとする俺だけれども、幼い頃から聞かされていた信仰は骨の髄まで染みついているのだろう。

 無意識に教義に則った所作をする自分を内心あざ笑う。
 あぁ、こんなにも憎たらしい教義は、やはり俺の中で大義であり、こんなにも俺に染みついているのだな……。


 「見ろ、足が千切れている。これだとかえって辛い思いをさせるだろう?」
 「……どうせ殺すんだぜ。苦しむも苦しまないもないだろ、兄さん」

 「あぁ……そうかもしれない、けれどもな……」


 その時、男の躯と向き合う俺たちの背後を黒い影が横切った。

 誰か、いる。
 そう思うが早いか、自然と身体が動いていた。

 ホルスターから銃を取り出し、引き金に指をかける。
 一連の所作に一切の無駄はなく、常人であれば俺が銃を抜いた事さえ、銃声をきくまで気づく事はないだろう。

 俺の抜き撃ちはそれだけ素早く、だからこそ協会は俺を「銀の棘」に組み入れたのだ。
 ……資質をもたない弟を、半ば無理矢理組織に入れる事で俺がここから抜けられないように仕組んで。

 集中して銃を抜いた時、俺の周囲で時間の流れがとたんに緩やかになっていく……。
 「超集中」と呼ばれるこの技術はある種の才能であり、弟の命を盾にしても俺を引きずり出したくなる程度には珍しい才能だったらしい。

 だが今回、俺は抜くのが早すぎた。
 そして標的は、あまりにも動くのが遅すぎたのだ。

 それ故に俺は、影の正体がはっきりと分かってしまった。
 母親が縫い付くってくれたのだろう。小さなうさぎのぬいぐるみを抱く、年端もいかない子どもの姿が…………。

 渇いた銃声が響き、錆びた血の匂いが漂う。
 銃口の先には、生きたいが故に逃げ出した命が途絶え、その向かいに死にたがりの俺だけが取り残されていた。


 「今回も終わったみたいだね、兄さん」
 「……あぁ」


 車からスコップを取り出し、俺たちは穴を掘り始めた。

 今日は、7つ。
 任務で殺した異教徒(少なくても俺たちはそう呼んでいる存在)は、皮肉にも俺たちの教義で神聖視される数と同数だった。

 俺たちは無言で穴を掘り、俺たちの流儀で埋葬する。

 また、今日も生き残ってしまった。

 死にたいはずなのに……。
 いつでも死ねる「銀の棘」に所属しているはずなのに、不思議と俺は。俺たちは、死ぬ事が出来ないまま、今日もまた生き延びた。
 いつの間にやら「銀の棘」でも初期からいるメンバーの一人として名を連ねている。

 一体俺はあと、幾人の異教徒というレッテルをはられた隣人を殺さなければいけないのだろうか。
 いつか誰か俺を留めてくれるのだろうか。
 あるいは、俺自身が幕引きを……。


 「今、どうやったら死ねるか考えてたろ、兄さん」


 弟の指先がかすかに触れる。
 そんなに顔に出ていたか……いや、仕事がない日となればほとんど自らの死について考えている俺だ。予測するのはそう難しい事でもないのだろう。


 「でも、死ねないよ兄さん。あんたは……どうしようもない臆病者だからね」


 薬莢をひろい、ポケットに詰め込んで弟は先に歩みはじめる。


 「あぁ……」


 そうだな。
 心で呟きながら、俺は影のように歩みはじめる。

 血と硝煙のにおいを身体にまとわせながら。
 今度こそ、上手く死ぬ方法を漫然と考えて。






 <もどりばこちら>