>> 海との境界
新鋭の建築デザイナーが設計したと言われるこの街一番のモダンなビルだとこの場所が言われた事も今は昔。
そのビルにかつての面影はなく、周囲の建物に押しつぶされるようひっそりと建っていた。
八階建ての鉄筋作りというのは当時としては斬新だったのだろう。
けれどもその自慢の高さも今となってはさしたる珍しい事ではなくなり、彩りとしてそえられた壁面のタイルは排ガスなどですっかり汚れ全体的に灰色がかって見え、時の流れを感じさせる。
だがもうそのビルが薄汚れてしまった事も、もはや誰も気にしないのだろう。
このビルがかつて最もモダンであり、周囲にくらす人々から羨望を浴びていた事も、もう誰も知らないのだから。
そしてきっとこのビルはいつか老朽化がきて、取り壊されるのだ。
実際そうなった時、付近の住民やら、このビルの関係者やらが、感慨に耽った言葉を一言二言述べるのかもしれないけれども、そんな思いや言葉があってもどうしようもないんだと言うように、いつかはこの建物を無骨な重機が押しつぶしてしまうのだ。
そのビルの屋上にある錆のういたフェンスの上に、ぼくは腰掛けて空を見ていた。
周囲は無数の高層ビル群がまるで迫る壁のように反り立っているこの場所だが、錆びて煤けたこのフェンスをのぼりさえすれば海が見える事をぼくは知っていたのだ。
錆のういた、脆く危うい、今にも折れそうなフェンスの上に立ち上がれば、遠方に群青色の海と青い空とが広がる。
広がるが、決して混じりはしない似て非なる青は互いに並びながら、どこまでもどこまでも続いていくのだろう。
折しも昨日からの強風のせいで海はひどく時化ているのか、うねる波は白く激しく、強い潮のにおいがここまで届きそうな程だった。
きっと今日は終日こうして、この波は深い青をその身に宿したまま波打つのだろう。
いずれはこの空の青さをも、絡めとってしまう程に。
きしむフェンスの音を身体に感じながら、ぼくは今度は足下を見る。
今の時刻は7時45分。早朝と呼んでも差し支えのないこの時間はいつも、駅前は黒い頭の群でごったがえしていた。
7時50分には電車が出る。
それから、7時53分にも、7時55分にも……。
黒い頭の群たちは、まるでそれが当たり前であるかのように黒い頭を揺らしながら駅へと吸い込まれていく。
ぼくは何とはなしに幼い頃、母につれられて行った牧場で見た羊たちを思い出していた。
あぁそう、あれは牧場のイベントで、牧羊犬に羊を追わせて、羊たちはそれが当然のように一直線に走っていたのだっけ。
あの時羊たちは何を思って、他に走れる場所がいくらでもある道を規則正しく一列に走っていたのだろうね。
足下にある黒い頭の群を見ると、ぼくは何とはなしに子どもの頃抱いた疑問を思い出す。
そして、こうとも思うのだ。
この黒い頭の群は当然のように同じ道を同じ時間に列をなして歩いている……。
それが彼らの規律であり、常識であり、マナーであり、道徳であり……つまりは彼らの自我なのだろう。
もし彼らのその日常に「駅の途中にあるモノを必ず盗む」という規律が組み込まれたら、彼らはそう、するのだろうか。
もし彼らのその日常に「駅の途中でいらないゴミを必ず捨てる」という規律が組み込まれたのであれば、彼らはそう、するのだろうか。
もし彼らのその日常に「人間を殺す」という規律が組み込まれたのであれば、彼らはそう、するのだろうか。
それが彼らの規律であり、常識であり、マナーであり、道徳であれば……彼らはそう、するのだろうか。
そう、するのだろうか。
海は相変わらず深く暗い色を携えてのたり、のたりと穏やかに波打っている。
あぁでもこの穏やかな波に絡め取られたらどんなに藻掻いても、足掻いても、もうどうしようもないまま、光さえもろくに届かない深淵へと引きずり込まれてしまうのだろう。
そしてぼくはそう。
規律であれば、常識であれば、マナーであれば、道徳であれば……。
己の倫理の中にある正義やら自己の意志やら感情やら何やら一切合切を飲み込んで、きっと曖昧に笑うのだろう。
曖昧に笑ってこの身を委ねてしまうのだろう。
そうまるで、足下に連なる黒い頭の群のように。あるいは波に抱かれた腐った木片のように。委ねて、揺られて、漂って、彷徨って……そうして、沈んでいくのだろう。
果てもなく、光もなく、ただ重く息苦しい、深い深い青の中に。
わかっている、すべては幻想。架空のことであり事実ではない。軋んだフェンスの上にある小さなぼくの器がする青臭い空想だ。
だけれども、とぼくはぼくという器に問いかける。
その時ぼくの本質は、そう、するのだろうか。
先にある道に光などもう二度と照らさない事がわかっていても。
そう、するのだろうか。
重く息苦しい何かが周囲にまとわりついたとしても。
そう、するのだろうか。
自分自身がそれを、許す事が出来なかったとしても。
そう、するのだろうか。
そう、するのだろうか。