>> 黒蜘蛛の魔術師






 ……ついに見つけたぞ、魔術師ナブラ。

 眼前で剣をかまえる男はいかにも血気盛んといった印象だった。
 ここまでくるのに随分沢山の災厄を、掲げる剣でうち払ってきたのだろう。鈍い銀色に輝く剣は数多の蟲たちを切り伏せた体液でじっとりと濡れている。

 面倒な対決は避けたい。
 そう思っていたので予めかなりの使い魔を仕掛けておいた。
 この場所に来る事は並大抵の事ではなかったはずだ。

 迷い込んだだけの旅人や生半可な実力をもつ「自称」霊能者などではここまでたどり着けないだろう。

 だとすると、剣をかまえるこの青年はかなりの実力者という事になる。
 少なくとも、異形なるモノの存在や魔術、超能力……そういったモノを自身でも扱える存在であるのは、まちがいないだろう。
 それを物語るかのように、青年の手に握られた剣は刃こぼれ一つ見られなかった。

 いくつかの武器を持ち込み、それを使い捨てながらここまでやってきた事も考えられる。
 だが、それにしたってその剣は蟲の体液を多く吸いすぎていた。
 剣先から滴る青い血が、男がそれまで切り裂いた蟲の多さを物語っている。

 恐らくあの剣は何かしら特別な力をもつ武器なのだろうな、と彼は踏んでいた。

 教会で聖なる儀式を施した加護のある武器か……あるいは錬金術師が誂えた魔法武器か。
 ひょっとしたら一子相伝の、すでに製法が失われた特殊な武器かもしれない。

 何にせよ……この男はともかく、あの武器には傷をつけないように回収したいところだ。
 最近は、自分の術を学び続けるのにも飽きがきてきたころだし、他の術師が施した呪術、魔術の類を知らなければ対応できない事態も増えてきているからだ。

 とりわけ「賞金稼ぎ」と呼ばれる存在がもつ道具に関しては、詳しく知る必要がある。
 自分はこれからもっと、そういったものと多く対峙していかなければいけないのだから…………。

 彼はそんな事を考えながら、本のページをめくった。

 その態度が、若者の気に障ったのだろう。
 無視された事で自尊心が傷ついたのかもしれない。若者は剣をかまえると、一歩間合いをつめてきた。


 「いいか、魔術師ナブラ。おまえは、学院から賞金がかかっている。自分が何をしてきたかは、もう承知しているのだろう? ……降伏するなら怪我をさせるつもりはない。だが抵抗するのであれば、この雷鳴剣の威力をその身で確かめる事になるぞ」


 本を読みながら、彼は男がつめてきた間合いを計る。
 まだこの間合いでは、自分を一刀でしとめる事は出来ないだろうと彼は踏んだ。距離は遠いし、この部屋は決して広くはない。その割に、男の持つ剣は大剣の部類に入る。

 思いっきり振り回せば壁や本棚が邪魔をして、標的である自分を思うように捕らえられないのは目に見えていた。

 だが、雷鳴剣という言葉は注意しないといけないだろう。
 いかにも魔法の類を使う事が出来る剣につける銘だ。ある程度距離をとっていても、思わぬ場所から雷の矢が飛んでくるような仕掛けがあるやもしれない。

 ……最も物理、魔術に対しての防御はすでに終えている。
 軽い衝撃程度ならさして驚異ではない。このまま様子を見ていてもいいだろう。

 それにしてもこの男は、よく口が回るものだ。
 こちらが何も言わないうちから自分の手の内を敵側に喋るとは、これまでよほど純粋に生きていたのだろう……。

 実戦経験がすくない賞金稼ぎか、あるいは学院を卒業したばかりの新米か。
 どちらにしても、これだけ素直ならこの仕事が向いているとは思えない。次は是非、別の職業につく事を勧めたい所だ。

 最もその次の機会は、この人生ではもう訪れないのだろうが。
 彼は一度溜め息をつくと、ようやく本を閉じその顔を男へと向けた。


 「えっ……」


 その顔を見て、男は驚き声をあげる。
 勇ましく構えた剣も取り落としそうになるが、そこは一応プロなのだろう。すぐに冷静をとりもどし、改めて剣を構えなおした。

 最も、動揺するのも当然だろう。
 この男が追いかけていた「魔術師・ナブラ」は学院の図書館より禁忌扱いされていた魔術書「黒衣」を盗みだし、それを元に実験をかさねた上、学院の秘術が一つである「造魔繰り」を外部に流出させたのだ。
 書物の扱いに厳しく、情報漏洩に過敏な学院からすればそれは罰を受けるにふさわしい罪人の所業だ。

 だが彼は生憎、男の追い求める『魔術師・ナブラ』ではなかった。
 一応魔術師の端くれではあるが、魔術師ナブラのように、古き言葉の秘密を紐解く事で炎球を舞わせ雷の槍を放つような派手な魔術は一切心得てはいない。
 学院の魔術師からすれば「魔術の基礎もしらない若造」とあざ笑われる事だろう。


 「……顔を見て、ようやく分かった? ボクは魔術師ナブラじゃないよ、人違いだ」


 暗く陰鬱な室内に、鈴のような声が響く。
 漆黒のケープを羽織り、大人の拳ほどある巨大な蜘蛛が紅い目を輝かせ這い回る腕には、古めかしい魔術書が抱かれている。
 こけむした部屋にいた彼の姿は、古びた光景にはおおよそ似つかわしくない、まだ年端もいかない少年の姿をしていた。

 彼は腕を這う蜘蛛を慈しむように撫でると、男の方へ向き直る。
 さりげなく距離をとりながらだ。

 男の持つ剣の形状……不自然に大きな柄をもつ西洋剣の形状から、男がもつ「雷鳴剣」とやらの術はおおよそわかっていた。
 恐らくは柄からマナ……魔術の力を注ぎ込む事で、詠唱せずともわずかな電気を走らせて戦う事が出来るような武器だろう。

 空には鉄の塊が飛び、情報のやりとりは電波が飛ばすこのご時世だ。
 似たような武器も科学の力で簡単につくれそうなものだが、あえてそれを魔術で再現する所がいかにも「学院」の人間らしいな、と彼は思っていた。

 科学で簡単に再現できるような技術でも、魔術が出来るという事を証明しなければ気が済まないのだろう。
 現実問題として、科学でこれを再現するなら電力の確保が必要だろうからそれなりに大きな機器が必要だから、マナを自在に操れる人間だけでそれを再現できるのならやはり魔術というのは優秀なのだろう。

 だが、誰でも使えないという汎用性では科学に劣る。
 最も学院の連中は「自分たちにしか出来ない」という事が自尊心になっている為、汎用性がないという事はあまり気にしていないようだが……。

 さて、相手の攻撃はおおよそ読めている。
 しかし隠し球でいかなる魔術を扱えるかはわからない。思わぬ伏兵もあるかもしれない。

 ……まだ孵化まで時間が必要だ。
 もう少しだけ、時間を稼ぎたい。

 幸い、相手は随分と喋るのが好きなようだし、こちらに聞きたい事もあるように見受けられる。
 しばらく雑談でもして時間を稼ぐとするか。
 彼は唇を濡らすと、腕に這い回る蜘蛛を自らの懐へと隠した。


 「……大体のところ、早く気づくべきだったんだよ。事前情報、ちゃんと読んできたのかな。ナブラが得意だったのは造魔系の魔術……いわゆる、土塊から人を作り出すゴーレムやら、絡繰りに魔術を吹き込む自動人形(オートマトン)なんかが、彼の本分なんだ。学院でも、そういった魔術で教鞭をとっていたんだろう? さぁ、思い出してみなよ。貴方がここにくるまで、一度だって自動人形と戦ったかい? この扉の前に、ナブラお得意の石で出来たゴーレムが守ってたりはしなかったかい? ボクがナブラだったとしたら、護衛には自動人形を組むだろうし、大事な場所の護衛には自慢のゴーレムを使うと思うけどね」


 言われて、男は自分の通った道を思い返しているのだろう。
 剣をもつ手に迷いが見えていた。

 今頃、出入り口で戦った巨大百足や蜘蛛、蛾に蚯蚓といった類のおぞましい歓迎を思い浮かべているのかもしれない。
 ……彼にとっては可愛い従者たちだが、彼の従者は大概の人間にとって不愉快な存在だったのだ。

 それにしても、本当に素直な男だ。
 こちらが「思い出してみればいい」と提案して、素直に思い出そうとするなんて……こちらが時間を稼いでいるだなんて、きっと微塵も思っていないのだろう。

 素直すぎて、気の毒になってくる。
 ここまで純粋でいられるとは、きっとよほどいい仲間に囲まれて育ったのだろう。

 幸福な出会いに包まれたまま生涯を終える事になるとは、羨ましい限りだ。


 「お兄さんさ、素人でしょ」


 本棚につめこまれた、古い書物を吟味しながら彼は言う。
 それでも相手の間合いには入らないようにしていた事を、男は気づいていただろうか。


 「……素人なものか。これでも、賞金首の魔術師を専門に狩っている、学院推薦のハンターだ」
 「じゃぁまだ新人さんだね。この商売、情報って大事だよ? ……事前に相手の能力とか、使い魔とかちゃんと見極めて、異常だと思ったら一端出直すなり、すぐに本部に連絡をとって確認するなりしないと、長生き出来ないよ。どうせ独断でここまで来たんでしょ?」

 「俺は一人でもやっていける」
 「だめだめ、そういうの……仲間、情報、連絡、連携……大事だよ。いざってときに頼れる相手がいないと……」

 「うるさい! それだと駄目なんだ、俺は……」


 なるほど、どうやら普段は仲間と連んでいるが、今回は喧嘩でもしたのか、虚勢を張り一人で任務を受けたらしい。
 あおられて容易に激昂する姿から、喧嘩別れをして孤独になった男の姿が容易に伺えた。

 学院推薦のハンターだといったが……。
 魔術師ナブラは、学院で教鞭をとっていた賞金首だ。物腰は柔らかく落ち着いた様子の男で、教え方も上手かったと聞く。
 実際話してみたが紳士的で機知に富み会話はやや冗長だがユーモラスもある、実に好感の持てる男だった。

 彼も……ただ話しているだけではナブラが犯罪に手を染めた賞金首だと思わなかっただろう。
 最も、彼自身ナブラの本性……まだ正体を証さない自分の寝込みを遅い、殺して魔術の媒体にしようとした、そんなどす黒い本性を目の当たりにしている訳だが。

 恐らく男の仲間たちも、ナブラのそんな表向きの人柄を好んでいたに違いない。
 好んでいたからこそ、男がナブラに敵対する事に異を唱え、今回の任務に動向しなかった……。

 普段は仲間といる男が、今回は一人でのこのことやってきた、その事情はおおむね、そういった所だろう。
 あくまで推測にすぎないが。

 彼は口元だけ僅かにあげて笑う。
 その笑みは、まだ年かさの少ない子どもが浮かべるにはあまりにも重く暗く、それ故に異質であった。


 「……この屋敷にいた無数の蟲たちを召喚したのは、このボクだよ」
 「君が……?」

 「ボクもね、一応は魔術師なんだ。蟲術を扱ってる…………といっても、学院では蟲術という分野はないし、この分野を教えるような講師も、いないだろうけれどもね」


 彼は本棚に並んだ本をさらに吟味する。
 まだ新人に毛がはえた程度の相手とはいえ、賞金首を狙うハンターがこの場所をかぎ当てたのだ。あまり長く、ここにもいられないだろう。

 せめてナブラが蒐集した魔術書の中でも、面白そうなものは一つ二つ手に入れておきたかった。
 幸い、学院が隠したかった禁書を手に入れる事は出来た。これを機会に、学院で使う基本的な魔術も使えるようになっておきたい……使えないまでも理論をある程度把握しておけば、今後学院の魔術師はあしらいやすくなるからだ。

 そんな彼の態度にしびれをきらしたかのように、男は問いかけてきた。
 まだ剣をしまわない所をみると、こちらを警戒しているのだろう。

 なるほど、その点は一応ハンターだ。


 「だったら……だったら、ナブラは何処に行ったんだ。キミは知ってるのか? ……君は、ナブラの従者か何かか」


 だがハンターにしては、自分の目を頼りすぎている。
 もし彼が自らの第六感を駆使して彼を捕らえていたのならば、間違っても彼の事を従者程度の人間だとは思わないだろう。

 きちんと五感で世界を把握していたのなら、高等な魔術書のページをゆっくりめくる彼の所作で自分がいまおかれている立場に気づいていたに違いない。

 まぁ、何にせよそろそろ時間だ。
 これ以上時間稼ぎの必要はない。孵化はもう、はじまっていた。


 「状況を見て事を判断する事が出来ないなんて、本当にまだまだ新人さんだね……まぁ、聞かれたから答えるけど……ボクはナブラの従者でもなければ助手でもない。それと、ナブラなら死んだよ」
 「……死んだ? 死んだって? 一体、どうして。病気か、それとも」

 「ボクが殺したんだ」


 表情一つかえず、淡々と訴える彼の頬が、窓からわずかにさした光により赤く照らし出される。
 元より色白なのだろう。淡い光の下で揺らぐ少年の頬はまるで蝋人形のように血の気なく見えた。


 「ころし……殺した?」
 「あぁ」

 「キミが?」
 「頭だけじゃなくて、耳まで悪いの? お兄さん。そうだって言ったでしょ、さっき」


 魔術師・ナブラは国際的に指名手配がかかっていた賞金首の魔術師だ。
 それを殺したと言い切った事で、ようやく男も彼が手練れの魔術師である事に気づいたらしい。

 一度はゆるめた警戒の色がより濃くなり、熱を帯びた剣先が彼の方に向けられる。
 だが、まだ遠い。この距離なら切り裂けたとしても、肌一枚かする程度だろう。

 彼はそう踏み、また一冊の本に手を伸ばす。
 古代言語概論……古代言語の最も基礎とよばれる本だ。現存数はすくないようだが、ナブラならもっていると思ったのだ。彼は嬉しそうに笑うと、すっかり茶色く変色した魔術書を読み始めた。


 「……まってくれ、キミも賞金首を狩る、ハンターなのか?」


 ハンターには年齢、性別などは関係ない。
 いや、一応登録は14歳以上からと決められているのだが、特例でもっと幼い頃から資格を得る人間もいるし、血筋からその家業を子どものうちより手伝わされているものもいる。
 だから彼のように少年と呼ばれても差し障りのない年齢でも、プロのハンターである事は特別珍しい事でもなかった。

 しかし、彼がハンターだったとしたらおかしい事が多い。
 男はそれにさえ、気づいていないようだった。

 恐らく考える事は他の仲間が行い、彼は肉体労働、実戦が専門であまり情報には長けていないのだろう。
 彼はあきれを通り越し、哀れみの表情を浮かべた。


 「ハンターが賞金首を狩ったのなら、報告して賞金を受け取って……賞金首は取り下げになるだろうから、お兄さんがここに来る必要はなかったんじゃないの?」
 「それは、そうだが……」

 「大体、ナブラは生死問わずの賞金首じゃないよね。必ず生きて捉えるようにと言われていたんじゃないのかな。彼がした禁忌の書物持ち出しは学院にとって悪質でも、協会全体にとってはそれほど大きな罪として扱われない……今、学院みたいな秘密主義はあまり受け入れられてないからね。それに、手配を出した学院側も、ナブラの知識は認めていたんだ。彼の知識を失いたくないのが学院の願い。だから確か、この依頼は魔術師捕獲だったはずだけど……違ったかな?」


 返事は聞かなくても、男の顔色で見てとれた。
 やはりナブラは捕獲目的の標的だったらしい…………とはいえ、学院が捕獲するのであれば死よりも酷い報いがあるのは容易に想像できたが。


 「……キミは、一体何者だ?」


 賞金稼ぎのハンターではない。だが賞金稼ぎの事情には精通している。
 ナブラを……曲がりなりにも学院から賞金のかかる魔術師を屠ったと顔色一つ変えずに語り、剣を向けられてもなお平然と本を読み続ける。

 少し考えれば充分に彼が奇妙な存在である事は容易にわかるはずなのに、賞金首のねぐらという異常な状況が男の感覚を麻痺させていたのだろうか。
 普通に考えれば最初にするべき質問が、ようやく彼の前に突きつけられた。


 「やっと聞くんだ、それ……まぁ、聞かれたなら答えるよ。隠す必要もないし……」


 それに、もう時間は充分すぎる程たっている。
 彼は唇をしめらすと、魔術書から目をはなさずにこたえた。


 「ボクの名前はヤシン。レオニート・ヤシン。もちろん本名だよ。ボクは別に学院の魔術師じゃないから、本名を知られても困る事はないからね……学院の魔術師は、名前そのものに魔力が宿るからあまり本名は名乗らず、通称や通り名で呼ばれるんだろ?」
 「レオニート……ヤシン……」


 日が傾いてきたのだろう。
 窓から差し込む光が乏しくなっていく中で、男が息をのむ音がはっきりと聞き取れた。

 観察力に関してはまるでずぶの素人であった男でも、やはり一応はハンターなのだろう。
 どうやら彼の名前を、聞き及んでいたらしい。

 レオニート・ヤシンは、カテゴリー上位ランク……最も危険度の高い魔術師の名前であり、彼はナブラとは桁違いの賞金首だったのだ。

 とはいえ、世間に彼の姿はそれほど知られてはいないだろう。
 元より彼は目立つ事を好まなかったし、彼を狙う標的は大体、蟲の餌となり綺麗に処分されている。

 それに……見ての通り彼の外見は、まだ年端もいかない子どものものなのだ
 まだ幼い子どもの外見は、多く大人たちの目を狂わす。
 彼はその目を利用して、今まで上手く隠れ続けていたのだ。

 男もまた、ヤシンの名をもつ賞金首がまだ少年だった事に驚いているのだろう。
 とまどいながらも剣先を、彼の方へと突きつける。


 「……オマエも賞金首だったのか、レオニート」
 「うん……しかも上位カテゴリーのね。えーと、いまいくらくらいだっけ、ボクの値段? ……あぁ、答えなくて良いよ。別に興味はないから。ただ、生死は問わずの賞金首だから……ボクを殺せばナブラなんかよりずっと、ずっとお金が稼げるよね」

 「……なんでナブラを殺した? なんで」


 男の声が震えているのがわかる。
 学院推薦の……といってたが、案外この男もナブラの教え子か何かだったのかもしれないな、彼は漠然とそう考えていた。


 「なんで、って言われてもな……うん、この屋敷にマナが豊富に感じられてね。ボクにとって居心地がいいから、ってのが最初に近づいた理由なんだけどね」


 それから屋敷について調べて、屋敷の主が賞金首のナブラだと知ったのは三ヶ月ほど前だろう。
 その後、独学で魔術を勉強している学生のふりをして屋敷に入り込み、彼の魔術を少しずつ盗んで生活していたのだ。

 ……もし、ナブラが自分の正体に気づき、彼の力を得る為に襲いかかったりしなければ、今もそういった生活が続いていただろう。
 人前では蟲を隠していたのだが、どこで気づいたのだか……殺してしまう前に聞きたかったが、相手は目の前にいる男のように愚鈍でもなければ純朴でもない、一筋縄ではいかない古狸だった。一気に殺さなければこちらが殺されていたのだから、仕方ないだろう。


 「……まぁ、都合が悪かったからだよ、いろいろとね」


 だが真実を説明するのも面倒だから、適当な言葉で濁す。
 男としても、ナブラが子どものような自分の寝込みを襲いかかるような。しかも丁重に睡眠薬入りの酒などを飲ませてまで殺そうとするような悪党だったなんてつたえた所でさしたるドラマにもならないだろうし、どうせ自分は高額の賞金首だ。悪名がある方が、相手としても合点がいくだろう。


 「……でも、賞金首を殺しても、ボクが賞金をもらいに行く訳にもいかないだろ? 協会には、怖いハンターさんがいーっぱいいるんだ。そんな所にのこのこ出かけてお金を貰いにいったら、沢山のハンターに一気に狙われる事になっちゃうし……幸い、ボクはお金にはそれほど困っていないからね」

 「もういい! ……もう充分だ。レオニート・ヤシン。お前の悪行、ここで終わらせてやる」


 部屋はもうほとんど光が入らなくなってきた。
 石造りの薄暗い屋敷の中で、銀色の剣だけが鈍い光を輝かせる。

 外では車が行き交い、空は今日も飛行機が沢山の客を乗せて飛ぶ時代なのだが、ここだけまるで中世へと逆戻りしたようだった。


 「悪行っていうけど、ボクが何をしたかも知らないんでしょ、お兄さん」
 「黙れ! その賞金額が蛮行の印だろう……」


 やはり、何も知らないんだな。
 彼は内心そうつぶやいた。

 協会の賞金が単純な感情論の悪行や、法治国家における罪にほど近いと思っているのだろう。

 実際、協会の賞金というのは……もちろん、法の下における蛮行。いわゆる窃盗や殺人といったモノによりかかる場合も多い。
 だがそれ以上に「サンプル集め」や「知識集め」、あるいは「コレクターが望んだアイテム」といった点に重きをおかれているのが実状なのだ。
 何ら悪事に荷担していなくても、その血肉が珍しければ。あるいは、禁忌の魔術を発見してしまったのならば。それだけで賞金がつく。

 ……最も目の前のハンターは、賞金首=悪党というシンプルな思想で生きているようだが。


 「それに……ナブラ先生を殺した、それだけでお前を倒す理由にはなる」


 男の剣先がやや熱い。
 やはり、あの男の教え子だったか……。

 しかし、あまり剣での戦いになれている風には思えない。

 彼はよく剣術の試合などを見にいくし、実際こういった魔法剣や妖刀の類をあやつる相手と何度か対峙したが、彼らと比べてまだまだ構えの中に、命のやりとりをする気迫がない。
 あるいは彼がまだ少年であったから、油断をしていたのかもしれないが……。

 それでもまだ荒削りに見える。
 魔法剣の威力に胡座をかいて、己の肉体その鍛錬を怠っているか。あるいは見てきた世界が狭く、本当の戦いというのがよくわかってないのだろう。

 何にせよ、もう勝負ならとっくに終わっている。
 もう、本を読むには暗くなりすぎていたし、そろそろ彼との会話にも飽きていた。


 「教え子だったんだね、君は」
 「…………そうだ。ナブラ先生は……いい、先生だった」

 「そう、それなら……斬ってみればいいんだ。でも……もうとっくに、勝負は終わっているんだよ」


 彼はそう言うと、笑いながら本を閉じる。
 ぱたん、わざと音をたてて閉ざされた本は、静まりかえった書庫一杯に響いた気がした。

 それと同時に、男の視界が大きく歪む。
 まるで足下から崩れ落ちるように、転落するように……彼はゆっくり沈んでいき、気づいた時は少年を見上げる形になっていた。


 「何が……」


 何がおきたのかわからない、だが男の足には全く力が入らなくなっていた。
 いや、足に力が入らないのではない。もう……。

 ……足、そのものがない。
 男はそれに気付いた時、声にならない声をあげた。


 「……君は、ヘンだと思わなきゃダメだったんだ。いいハンターになりたければ。この館に入った時、百足が出迎えた時にキミは帰るべきだったんだよ」


 少年の靴音が、耳に絡む。
 そうだ、彼の言う通りだ……ナブラは一度だって蟲を使い魔にした事なんてない。妙だとは思っていた。だが気にする程の問題にはならないと、たかをくくっていたのだ。


 「ヘンだと思うべきだったんだ、蟲たちの行動を……蟲は、キミに少し傷を付けただけで、すぐに倒されていっただろう? ……あれは毒をキミの身体にいれる為。そして、卵を植え付ける為の攻撃だったんだよ。毒はね……キミの身体から痛みを消す為の麻薬。卵は……キミを内側から喰い殺す為のもの。キミはね、あの攻撃を受けた時にもう、内側から幼虫に喰われていたんだよ、ボクの作った特別の蟲でね」


 身体が、じわじわと熱くなる。
 少しずつ、少しずつ、蟲たちが内側から身体を食い破っているのだろう。

 食いちぎられた足からは、糸のような蟲たちが何百、何千と這い回りまだ身体を食い尽くしていく姿が見えた。


 「ヘンだと思うべきだったんだ……ボクがこうして長々と君と話している事自体を。そして、簡単に正体を明かした事をさ。賞金首が自分の正体に気づいてない相手を前に、わざわざ名乗ってみせるなんて普通じゃないだろう。そういう時はね、もうこっちが勝つのが決まっている時なんだよ」


 腕が、腹が、段々と熱くなる。
 喉まで蟲がのぼってきたのだろう、悲鳴をあげたそうに男がうずくまっているが、それは声にはならなかった。


 「痛みがないのは慈悲だよ。キミは、ボクと戦うにはあまりに無知すぎた。だからせめて、苦痛のないように殺してあげるね」


 喉から滴る血の中に、糸のような蟲がはいずり回る。
 彼の言う通り身体に痛みはない、だがもう長くは生きていられないだろう。

 やがて、ぐしゃりと鈍い音がする。
 男の腹から、黒い頭を持つ芋虫が産声のような嘶きをあげた。

 もう、呼吸も出来ない。だが、痛みはない。完全な無痛の死だ。
 蟲たちの毒が、男にこの上なく安らかな。だが、だからこそ残酷な死を与えた。


 「おやすみ、次はもっとうまくやるんだね」


 その傍らで、少年は少年らしい無垢な笑顔を向ける。
 それが、男の聞いた最後の言葉となった。


 ・

 ・

 ・


 乾いた靴音が、閉ざされた部屋に響く。


 「やれやれ、新米ハンターが仲間割れして、一人で出向き帰ってこない……そう聞いて尻拭いにやってきたが、いやはや……随分大物が居座ってたみたいだねぇ」


 今度の男は「名うて」の部類だろう。
 部屋を見るなり全て察した様子で、書物を貪る彼をを見据えた。

 淡い紫の瞳を持つ、整った顔立ちの男だ。
 ……紫の瞳、というのは少しまずいな。彼は最初にそう考えた。

 協会、組合、教会、組織。
 大体のハンターが何かしらの勢力に属している中、特にどこの組織も属さず、民間に身を置きながら自由に依頼を取るフリーの始末屋の中にも、なかなか捨て置けない凄腕がいるのは彼も知っている。

 その凄腕の中に、眼前にある男の身体的特徴をもつハンターがいたのだ。
 名前は覚えていないが、たしか部下には伝説の狼男、ウォード・ランカスターを擁していたはずだ。
 今も一緒にいるかはわからないが、やっかいな呪いをもつ狼男をやり過ごすのは億劫だ。

 それに、紫の瞳というのはいけない。
 紫の瞳というのは「外なる存在」から恩恵を受けている場合が多く、魔法とも超能力ともまた違う妙な力をつかってくるのだ。

 この屋敷全体が一つの罠のようなモノだが、それもどこまでこの相手に通じているのかわからない。
 勝率は、半々。いや、ひょっとしたらこちらの方が分が悪いかもしれない。


 「あぁ、やっぱり新米さんだったんだ、あのヒト」


 だがそれでも彼は冷静に振る舞う事をやめなかった。
 少しでも不利なそぶりを見せても得るものはない。

 自分は「生死は問わない」賞金首なのだから、いざとなったら相手は躊躇なく殺しにかかるだろう。


 「まぁねぇ……ナブラなら新人でもきっと何とかなるだろうし、彼は学院の人間だろう。かつての教え子が出向けば抵抗はしないだろうって話で、今回あの新人たちに話がいったって訳さね」
 「新人たち? ボクの所にきたのは一人だけだったけれども」

 「依頼の前に仲間割れだよ。ナブラがそんな穏健なはずがないと言い張るヤツ、ナブラと戦いたくないといいはるヤツって皆バラバラになった中、リーダー格の直情型が一人でつっこんだ、という訳さね」


 なるほど、一人ではあまりに無謀かつ計算のない男だと思ったが、やはりそういう事情か。
 彼は一人納得する。


 「それで……しばらく噂にもあがらなかったけれども、いったい何時の間にこんな極東の地にまで遊びにきてたのかなぁ。天下の黒蜘蛛……レオニート・ヤシン様?」


 名乗る前だというのに正体を暴かれ、彼は思わず苦笑を漏らす。
 ……人前にほとんど姿を現さず、標的はすべて返り討ちにし蟲の苗床として扱っていた自分だから姿は知られていないと思っていたが、さすがにこれだけ長く流浪の賞金首をしていれば全く姿を捕らわれないでいるのはやはり不可能なのだろう。

 ましてや今はどこでも監視カメラがあり、自由に情報のやりとりが出来る時代だ。
 とはいえ、それでも一目で正体を看破されるとは思ってもみなかった。やはり今度の男は「手練れ」に違いない。

 自分の名前を知っているという事は、こちらが蟲術使いなのもすでに承知しているだろう。
 不意も打てそうにない。
 警戒して部屋にさえ入ってこないし、相手の武器も何だかわからない。ひょっとしたらすでに相手の間合いに入っているのかもしれないのだ。

 ……明らかに自分より強敵だ。
 しかも、蟲たちの報せでは、外に仲間も来ているらしい。
 そしてその仲間は彼が警戒する狼男、ウォード・ランカスターである可能性が高かった。

 戦闘になったら、無傷で逃げ切るのは難しいだろう。
 まともに戦っても、相打ちが精一杯か…………腕か、足か、身体の一部を犠牲にしていいのならあるいは逃げ切れるだろう。

 もしそうだとすれば、失うのは腕だ。
 腕なら蟲たちで代用がきくし、足だと走るのが億劫になりすぐに捕らえられる可能性が高い。

 ……足も蟲で代用がきくが、適応している間に捕らわれてしまっては意味がない。
 だがいつ仕掛ける? どうすれば一番ダメージが少なくすむか……出来れば腕も足も失わずに済ませたいのだが……少年の頭脳は目まぐるしく回転した。


 「……お兄さんは、何しに来たのかな」
 「そうさねぇ……行方不明になったハンターの救出と、その原因の排除なんだけど……こりゃ、原因の排除は難しいみたいだし、どうしたもんかねぇ……」

 「救出も、ダメだよ。もう、先にきたお兄さんは『ない』から」
 「ん、全部蟲に喰わせちゃったのかい」

 「……察しがよくて助かる。頭いいね、お兄さんは」
 「おたくさんのやり口を知ってたら、概ね察しはつくさね……はぁ、これで依頼人救出も失敗だし、こりゃ来るだけ損だったかねぇ」


 間合いを詰めようと会話を試みるが、一行に距離が縮まらない。
 というよりも……こちらの攻撃が入る範囲以上に、相手の射程距離が長いようだった。蟲たちは思うように男の側に近づけず、彼にふれる前に見えない何かに落とされて消えていた。

 ……魔術か、それとも武具か。何かしらで周囲に障壁をはっているようだが、その正体がわからない。
 戦うには相手の情報がすくなすぎた。

 それに、相手にそれほど殺意も見えない。
 仕掛けるのならとっくに戦闘に入っていそうだが、未だ攻撃を仕掛けてくる様子はない……まるで自分を倒すより、請け負った任務を遂行する方が大事といった態度に見られた。

 いや、実際そういうタイプの始末人なのかもしれない。
 もしそうだとすれば……優位な交渉が出来るかもしれない。


 「そうでもないよ、ほら」


 彼は壁に立てかけて置いた剣をとると、それを彼に差し出した。


 「前にぼくを殺すといってたお兄さんがもっていた剣だ。たしか、なんだっけ。タイメーケン?」
 「ん、雷鳴剣じゃなかったかねぇ?」

 「そうそう、そんな名前の剣だよ。軽く調べさせてもらったけど、学院特注の魔法剣だよね、これ。オーダーに見えるし……コレだけ見せれば、きっと相手も納得するよ」
 「そうかねぇ……?」

 「そうだ、学院はね、あの人の命より、この武器の情報が外に漏れないか。そればっかり心配してるはずだからね」


 彼の言葉に、男も無言の肯定をする。
 学院が命以上に秘術の漏洩を嫌う事を、この始末人も承知しているようだった。


 「そうだろうねぇ、そういう事にしておこうか、うん……何とかその方向で、納得させるとするさね。ただ働き、ってのは嫌なもんだからねぇ」


 男はそう言うが早いが、軽く手首をスナップさせる。
 その刹那、きらりと輝いた銀糸がヤシンの眼前をかすめて剣に巻き付き、剣は男が部屋に入る事もないままその手へと収まった。

 どうやら相手の武器は糸のようだ。
 それもかなり伸縮する……どうやって操っているのかは見えないが、ほとんど手足のように自由に動かす事が出来るらしい。
 その気になればこの距離でも、彼の首を落とす事が出来ていただろう。


 「……そんな部屋にはいっていけばいいのに」


 冷や汗をおさえながら、彼は冷静を保ち続けた。


 「まさか! ……そんな魔術ぷんぷんの部屋に不用意に入って、蟲の苗床にされるのはごめんだからねぇ……床に陣の一つでも組んでいるんでしょう? 違うのかねぇ」


 やはり、こちらの手の内は、もうわかっているようだ。
 使い魔の蟲たちに毒と卵を注入させ、この部屋にある魔術で一気にそれを孵化させる。

 痛みを与えないように事前にもった毒で、相手は何も気付かぬなま喰われて死ぬ。
 この部屋は、招かれざる侵入者を殺す為に誂えたヤシンの処刑場だった。

 しかし、部屋の罠に気付かれているのなら別の方法を試さないといけない。
 自分の魔術が、果たしてどこまで通用する相手か…………。

 印を結ぼうとする手をとめるよう、男は笑ってみせた。


 「おっと、やり合おうとは思わないよ。俺は、アンタの賞金には興味ない、自分の仕事を全うしたいだけねぇ……さぁ、ヤシン。提案があるんだけど、いいかねぇ?」
 「……なに?」

 「アンタに、ここから出ていってほしいんさね……そう、依頼人に『相手はもう殺されていて、殺した相手はもう逃げていた』というのが、ここは一番穏便だろうからね」
 「折角見つけた塒を、捨てろっていうの?」

 「折角見つけた塒だけど、もう学院に知られてるんだから長居はできないでしょうに。どうせ近いうちに逃げるつもりだったんだろうから、今逃げてもいっしょだろう。それに、アンタは俺と戦うのは得策じゃないよ……お互い、どっちか死ぬまで戦う事になるだろうけど、俺はそういうのごめんだからねぇ」


 ……なるほど、どうやら今度の始末人は賞金より命が大事のようだ。
 だが、懸命な判断だと思った。

 確かに今、この状態でお互いに戦ったら双方無事では済まないだろう。
 それに、彼の言う通り近いうちにこの場所は捨てるつもりだった。この提案に乗らない手はない。


 「ん、じゃぁお兄さんのお言葉に甘えちゃおうかな……」
 「おっと、ナブラの隠してた禁書。それもおいていってくれないかねぇ……それがある限り、学院はしつこくアンタをつけねらう。返した方がいいと思うよ」

 「はいはい、わかってますって……でもいいよ、ボクにはもう用済み」
 「あぁ、写本済みかい?」
 「そんな事しなくても、頭に入っちゃってるよ」


 そこで彼はとん、とんと自分のこめかみを指で叩く。
 彼が未だ大人たちの目を欺き逃げ続ける事が出来ていたのは、少年の外見をとっているだけではない。
 生まれついての記憶力と生まれもっての魔術の才からだった。

 最も、彼に莫大な賞金がかけられているのは、それとは別の理由だが。


 「でも、いいの。ボク、これでも指名手配だよ? そういうの、モラル的に大丈夫? ボクを生かしておいたら、また死人出るけど」
 「あはははは! ……そんな、警戒しなくてもいいさね。アンタの境遇は知っているつもりだよ。レオニート・ヤシン。いや……ヤーコフ・ヤシンの芸術品」


 ヤーコフ・ヤシン。
 それは、レオニートの祖父の名前だった。

 彼に蟲術の全てを教えた人物であり、そして彼の身体を蟲の外殻で覆った人物。
 彼の外見を永遠に12歳の少年の姿のまま、留めてしまった魔術師の名前だ。

 ヤーコフは、自分の娘を早くに亡くした。
 それ故に、娘によく似た少年を溺愛した。

 しかし年を取るにつれ少年は娘の面影より、父の面影をうつすようになってきた。
 ヤーコフはそれが許せなかったのだ。

 もう一度娘を失う事を恐れたヤーコフは、少年の身体に娘の面影を留める為……その外殻を蟲のそれと変えた。
 卓越した蟲術使いが己の魔力を全てを賭した、一世一代の研究だったのだろう。

 それから、レオニート・ヤシンの身体は成長する事がなくなった。
 だがその魔術が元で祖父は死に、彼の身体に施された技術は永遠に失われた。

 ……祖父が死んだが、彼は生きなければいけなかった。
 老いない外殻を保持するには、マナの強い苗床で英気を養わねばいけなかった為、必然的に魔術師の死体をあさるようになった……。

 しかし、死体だけではマナは補いきれない。
 命を長らえるため、少年は殺す事を覚えた。罪の意識を軽くするため、殺すのは賞金首か。あるいは、自分を殺しにきた誰かに定めて……。

 だが、ヤーコフの作り出した「歳の取らない肉体」は一部の好事家に知れる事となり、彼は唯一の成功例かつ唯一のサンプルとして広く手配されるようになる。
 ……それが彼の、賞金額の主たる理由だった。


 「そう……お兄さんだったらきっと、ボクにも勝てたと思うのに」
 「何いってるさね……勝率が、五分で相打ち覚悟の相手なんざ、ちょっと戦いたくないからねぇ。8割勝てて、命かけなくてもよさそうだったらやってもいいけど、オタクさん命がけになるには、お互い若すぎると思わないかい?」


 ……どうやらこの始末人は、自分と同じタイプの人間らしい。
 すくなくても、逃げている途中で背後から狙われるといった事はなさそうだ。


 「じゃぁ、遠慮なく逃げさせてもらうよ」
 「うん、商談成立。それじゃ、またね」


 男は軽く手をふって、彼より先に去ろうとする。


 「まって」
 「ん……何さね?」

 「名前、一応聞いておくよ。借り、つくっちゃったみたいだし。もしまた会えたなら、つくった借り返したいしね」
 「律儀だねぇ……まぁいいさね、神崎高志。この先で喫茶店をやってるよ、よかったら食べにおいで、客としてなら歓迎するさね」

 「あ、そ……何がおいしいの?」
 「何でもうまいけど、ミートドリアとカツカレーが好評さね」

 「わかった、考えておくよ」


 彼は……少年らしい笑顔を浮かべ一度小さく頷くと、そのまま窓より飛び降りた。
 昆虫の外殻は多少の高さからおちた衝撃では強い痛みを覚えない。
 かび臭い屋敷から外に出た少年は、久しぶりに新鮮な空気を吸った。

 季節はもう、秋になろうとしていた。
 長く本の中にいたから移り変わりなど気付かなかったが、風が心地よい。

 追われて、隠れて、また追われて、逃げて……。
 こんな日々がいつまで続くのかわからなかった、けれども。


 「今度はどこに行こうか……」


 少年の肩に這う蜘蛛が、北の空を向く。


 「あぁ、そっちに生きたいの。じゃ、あっちだ」


 少年はその蜘蛛に誘われるまま自らの旅を再開する。
 やがてくる死が閉ざすまで、終わらず追われ続ける旅路を。






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