>> アステリオスの迷宮(ラビュントス)






 夜の静寂に抱かれ、安穏とした眠りに沈む神崎高志を現の世界に引き戻したのは、激しい怒号と鈍い痛みであった。


 「起きろッ、タカシぃ。目ぇ覚めたか?」


 こめかみを抑えて起きあがれば、宵闇に煙草の赤い光だけが爛々と輝きやや遅れて見覚えのある男の顔が浮き出るように現れる。
 人形のように整った顔は長く日の光に晒されている為か、所々が赤く皮剥けしており、鼻の頭には絆創膏が貼られている。

 一つに縛った長髪を三つ編みにしている様はその綺麗な顔と相まって女性のようにも思えるが、その逞しい体つきと何より腕に携えた自動小銃が、彼がたおやかな女性ではない事を指し示していた。


 「何だよ、オヤジか……もう少し、優しく浪漫に満ちた起こしてくれてもいいんじゃないかねェ?」


 こめかみに触れた指先に血が滲んでいる。
 銃床で思いっきり小突いたのだろう。

 神崎は、父と共に度をしていた頃。夜襲を受けた時もまだ深く寝入っていた自分をよく、こうして父が起こしていた事を思い返していた。

 寝入っている人間を銃床で起こすような無粋なマネも平気でする、乙女のように柔和な顔立ちの男なんて彼は一人しか知らない。

 彼の父であり数多の戦地を今もなお転戦し続ける男……。
 神崎綾人、その人だ。


 「何言ってんだタカシぃ。起こしてやっただけ有り難いと思えよ……テメェ、俺に殺されても文句言えないくらいにスキだらけだったぜ?」


 綾人は笑いながら照準を神崎へと向ける。


 「それとも、尻を犯してやった方が良かったか? その方がお前のいう、優しく浪漫に溢れた起こし方かもしれんしなぁ」


 肩を奮わせて笑えば、口元にある煙草の炎も揺れる。
 本人は冗談のつもりだろうが、幼少期より自分より一回りは大きい男をも組み伏せて辱めていた父の記憶もある為に、薄ら寒い笑いが神崎の顔に張り付いた。


 「で、何の用だよオヤジ。俺の頭を銃床で小突いてまでして起こして、息子の驚いた顔が見たかっただけとか。そんな冗談言うガラじゃなかったよなぁ、アンタは」


 流れ出た血の味を舌で確かめながら、枕元においた煙草に手を伸ばす。


 「仕事の手伝いなら俺は500万からだ。びた一文負けるつもりはないけどねぇ?」
 「安心しろ、俺もそんな安い仕事でお前を使おうなんざ思っちゃいねぇよ」


 煙草をくわえたのはいいが、ライターの場所を探して戸惑う神崎に、父は自ら燻らす煙草の火を近づける。


 「敵は【星抱く迷宮の支配者】(アステリオスラビュントス)の異名を持つ快楽殺人犯であり特A(カテゴリーエース)分類の、超上玉だぜ。さぁ、久しぶりに親子三代で、派手に殺(や)ろうや」


 その時、綾人の背後より影のように現れた祖父の姿を見て、神崎高志は諦めたように嘆息をつく。

 自分だけが雇われた仕事であれば、ごねて難癖つければ断る事も出来るだろう。
 だが、先代でもある祖父まで引っ張り出された仕事に、付き合わない訳にもいくまい。

 神崎高志は、その程度の体裁は整えてやる男だった。


 「はいはい……はぁ、たまにはゆっくり夜には寝ていたいモンだよ……」


 煙草の炎は赤々と燃え、静かに煙を吐き出していた。


 ・

 ・

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 自分が異能であると気付いた、その切っ掛けは筆箱に入れていた筆記具たちが奇妙な捻れを見せていた時だった。

 鉛筆も消しゴムも定規も、まるで熱を加えたガラス棒のようにねじ曲がり筆箱の中で絡み合う。
 不規則に見えた筆記具たちの捻れは互いに絡み合い交差する事で、小さな迷宮を形成していた。

 筆箱に起きていた異変は、その小さな空間からさらに大きな空間へ。

 机の中へと広がり、自室へと広がり、教室へと広がり、抑えは徐々にきかなくなる。
 ついに母をも一個の迷宮として変貌させた時、彼は日の当たる舞台から降りた。

 強いストレスを与えられ、感情に制御がきかなくなった時。
 自らのやり場のない思いを隠そうとする感情が力となって表れて、彼の姿も心も隠す為に、あらゆるモノを迷宮の素材へと変える……。

 彼の能力は物質の再形成という、一見地味なものだったが、彼の生み出す迷宮は複雑怪奇を極め、また狩猟者が得物を追いつめるのに最も適した舞台になり得た。

 最初は、殺人者として追われる自らを隠す為に作られた数多の迷宮は、いつしか殺しの舞台にお誂え向きな狩猟者の迷宮へと姿を変える。

 自らを追う者を排除する為。
 追い立てられ焦燥する気持ちを静める為の迷宮はいつしか、追い立てる為のものへ。

 仄暗い灰色の壁は乾いた深紅へと変化し、かつて追い立てられ逃げまどうだけだった少年は今や専ら追い立てる殺人者と姿を変えた。

 迷宮に潜み本能赴くままに粗暴な行動を繰り返す、男は何時しか粗暴であるが故に迷宮へと封じ込められたミノス王の息子。
 牛頭人身を持つ迷宮の怪物、ミノタウロスが持つ本来の名、アステリオスとあだ名され、彼はその迷宮を出現させる能力より「星抱く迷宮の支配者」(アステリオスラビュントス)の異名で呼ばれるようになっていた。

 すでに誰も、彼の本名は知らない。

 そして今日もアステリオスは抑えきれない衝動を遠慮もなく解放させ、都心に一つの迷宮を出現させようとしていた。
 壁に塗りつけた血はすでに深い影の色と代わり、昨夜までは昂揚とともに思い出された叫びも、今は何の熱情も抱かせない。

 血に飢えた獣に、贄が必要とされていたのだ。


 「……アステリオスだな」


 獲物を求めた彼の思念と共鳴するかのように、その男は現れた。

 白髪の交じる髪をあげ、長いコートを羽織った男は乾いた靴音を鳴らし、無言のまま歩み寄る。
 その態度から彼こそ血の迷宮を組み上げたアステリオスであると確信しているのだろう。

 躊躇ない歩みには人を前にしても引き金をひける始末屋特有のにおいが。
 そのコートの下からは僅かに火薬の含みを感じさせる。


 「いかにも、多くの人は俺をそう呼ぶ……そして、そう呼び恐れながら死ぬ」


 獲物を求めた矢先に向こうより現れてくれたのは嬉しいが、少しばかり歳をとりすぎているのは面白みがない。
 もう50年は若く、そして女性である方が好みではあるが、それはまた街に出た時探せばいいだけの話だ。

 手を壁に付け思念を廻らせれば、隠れ家として扱う廃れたプレハブは見る見る捻れ、まるでそれ一個が巨大な生物の臓腑と思わすように躍動しながら変貌する。

 気付いた時、男の周囲に数多の鉄くずで阻まれていた。


 「なに……たかだが迷宮を作るだけの能力者と聞いていたが。よもや、これほどまでに早く物質を再構築出来る程の能力者だとはな……」


 突如現れた数多の壁を前に困惑しながら、逃げるような足音が男の耳に響く。
 だが、逃げられない。

 この迷宮はどう逃げても、いずれ男の前に首を晒すように設計されているのだから。


 「ははッ。いいぞ、逃げ惑え。そして恐れろ……俺はこの迷宮から貴様の逃げまどう足音をたっぷりと、堪能させてもらうぞ」


 壁を手で触れれば、冷たい革靴の音が響く。
 迷宮の主である男は、この迷宮にある音を、気配を、何処にいても瞬時に察知出来る能力もまた心得ていた。

 カツ、カツ……カツン。

 目を閉じて耳をすませば、逃げまどう男のあの乾いた革靴の音が響く。
 さぁこの靴音は一体何処へ逃げるのだろうか。

 密かに容易した刃の壁に傷つくか、あるいは血を求め空より落ちる石天井の餌食になるか……。

 カツカツカツカツ。
 コツ、コツ、コツ、コツ。

 さらに耳を研ぎ澄まし、男の進路を廻ろうと思ったその矢先、男はようやくある違和感に気付いた。

 カツカツカツカツカツ。
 コツコツコツコツコツ。

 ひた、ひた、ひた。


 足音が、増えている。


 カツカツカツ。コツコツコツ。ひた、ひた、ひた。
 パタ、パタ、パタ。


 それも、確実に個数が増えているのだ。


 「何だ、これは……一体……」


 一体この迷宮に何匹の鼠が紛れ込んでいるのだ。
 目視できた男の姿はただ一つだが、仲間がいたのだろうか。

 いや、仲間がいたにしても多すぎる。
 男が認識した足音は、少な目に数えても二桁を越えていた。

 今回設計した迷宮も、この場所自体もそれ程広くはない。
 これほどの人数が集まる事など、到底不可能のはずだが……。

 まぁいい。
 人が多ければそれだけ、贄が増えるだけだ。

 不適に笑いさらに迷宮を増築する男の耳に、乾いた銃声が響く。
 やはり、誰かまだこの場に居る……。

 自分を追い立てようとしているのか。
 銃声は到底、当たる事もなく乾いた音だけを響かせる。

 ライフルでの遠方射撃か何かだろうか……。

 当たるわけがない。
 迷い込んだ男は硝煙のにおいを漂わせていたが、あの男が無我夢中に迷宮を打ち付けているのだろうか。

 だったら弾丸の無駄使いというものだ。
 嘲笑うようその様子を眺めていた男の眼前で突如、小さな爆発が起こる。

 弾丸が爆ぜた……。
 それが認識出来たのは、迷宮の先に飛び交う弾丸が、炎に包まれ爆ぜた所をまさに目撃したからだ。

 飛びながら爆ぜる弾丸。
 散弾ではないようだが、そんなもの実在するのだろうか……。

 いや、今この場では自分が想像出来ない程に奇妙で恐ろしい事が幾つもおこっている。
 これは今までとは違う……プロの始末屋が現れたのではあるまいか。

 男はその時初めて胸に焦りを抱いた。

 しかし、迷宮を解除する訳にはいかない。
 作り出した迷宮を解除し自体を把握するには、アステリオスと男はあまりに距離が近すぎた。

 迷宮を解除するにしても、少しでも距離をとり間合いを計らなければ……。
 深い迷宮と罠を仕掛ける事ばかりに長けた男は、実際人と対峙しての戦闘は不得手だったのである。


 「落ち着け……これは俺の迷宮だ……俺は、誰よりこれを一番うまく扱える……これで誰でも殺して来たじゃないか、なぁ、アステリオス……」


 呼吸を整え、迷宮と向き合う。
 予測しなかった出来事が目の前で起きてはいたが、彼自身、予測し得ない能力を体現させる男だ。

 この程度のイレギュラーで狼狽える事はない。
 元よりこの迷宮は人を屠る為の道具……そこに囚われているのであれば相手が誰であれ、何であれ、自分なら切り抜けられる。

 何故なら自分はこの迷宮の主。
 血を飲み下し肉を噛む、暴虐の王アステリオスなのだから。

 怪物としての自我を取り戻し、狂気という名の理性に染まる男の耳に響いたのは。


 「イヴァン」


 ここに無い声。


 「イヴァンどうしたの。そんな所で何をやっているの」


 彼が最初に壊したあの人の声。


 「どうしたの、また鉛筆をねじ曲げてしまったのね……」


 ここには居ない、母の……。


 「う、うぁぁぁ……ぁ、ぁぁ……」


 その時、それまで冷静な化け物であったアステリオスの心に明確な焦りと、それ以上の恐怖が沸き上がっていた。

 とにかく……逃げなければいけない。
 幸いこの迷宮には、脱出用に誂えた通路もある。

 そこに逃げればいいのだ……。


 ぱたぱたぱた。

 カツカツカツ。

 ひたひたひた。


 幾重にも重なる足音は、確実に傍へと近づいていた。
 この足音のどれかが、あの人の足音なのだろうか。

 自分が殺した、あの人の。


 「くそ……来るな。来るな……来るな……」


 追い立てられ逃げまどう感覚。
 背後から迫るのは足音と銃声と得体の知れない爆発。

 それと、今は居ないはずのあの人の声。
 自分の想像を超えた追跡者に自然と焦りが募る。


 「畜生……」


 追跡者であった自分が迷宮の脱出者になる……。
 屈辱の中、男はただひたすらに走り続けた。

 だが、出口までそう遠くはない。
 あの場所に向かえば逃げられる、この得体の知れない現象から逃れる事が出来るのだ。

 助かった……。
 現れた光に、迷宮の出口に安堵の吐息をはき、顔を上げた男の前に現れたのは黒い銃口。


 「迷宮脱出おめでとう……追う側から追われる側は楽しめたかい、アステリオス」


 男の声が。


 「だが、お前の業はこれで終いだ……おやすみの時間だぜ、坊や?」


 自分を仕留めにきた始末屋の声だと認識したその時。
 ただ一度の銃声が男に、迷宮の怪物である事を止めさせた。


 銃口より立ちのぼる煙がまだ収まらぬうちに、綾人は銃をホルスターに戻す。
 そして、羽織っていた上着を黙って躯へとかぶせてやった。


 「よぅ、オヤジ。仕留めたのかい?」


 銃声を聞きつけたのか、気付けば神崎高志がその後ろに立つ。

 迷宮にて。
 数多の音を生み出し敵を攪乱したのは紛れもなく神崎の能力である。

 あらゆる音を生み出す、音の支配者である彼にとって、複数の足音を作り出すのも、かつてありそして今はこの世にない女性の声を彼の耳元で囁くのも、さして難しい事ではないのだ。

 突如現れた今はなきものの声は、名を忘れた男も流石に動揺した事だろう。


 「終わったようだな」


 男の死により迷宮はただの瓦礫と帰す。
 その瓦礫たちをまるで飴細工のように溶かしながら、中から源次郎が姿を現す。

 自らが放った弾丸を危険がない場所で破裂させる。
 奇妙な芸当だろうが、炎の扱いに誰より長けたパイロキネシスの能力者である、源次郎ならこれもまた容易い事だろう。

 彼らが獲物を追い立ててくれるなら、自分はただ出口で待てばいい。

 アステリオスの迷宮は、実際にアステリオスが……。
 ミノタウロスが閉じこめられた迷宮と同様に、出口が一つしかない。

 それは追い立てられた獲物を確実に逃がさぬ為という意味合いでだろうが、その特性は今回相手を燻り出すのに格好の舞台となった。


 「あぁ、終わったよ。悪いねオヤジに息子。おかげで何とか、仕留めたよ」


 硝煙の乾いた香りに包まれて、綾人は笑う。


 「何さね、結局オヤジがいい所もっていっただけじゃないのさ」


 そんな綾人の肩を小突くと、神崎は呆れたような視線で彼を見た。

 アステリオス。
 その名で呼ばれた殺人鬼は。

 事故により、母を壊してしまって。
 それから数多の血を重ね、罪を重ねる事で生かされて。

 殺しがなくては生きられなくなる、哀れな迷宮の支配者は……恐らくまだ、目の前にいる神崎高志より。自分の息子よりきっと、年若い青年なのだろう。
 まだ少年と呼びかえても良い年頃なのかもしれない。

 自分の子供に。あるいは親に。
 そんな少年の命を奪う、咎を背負わせる訳には……。

 いや、やめておこう。
 そんな感傷で銃を扱うのはガラじゃない、だから。


 「おう、おかげさまでいーい男になれたぜ、タカシ?」


 綾人は笑う。
 その腕で作った罪も、闇も。

 全て覆い隠すように。





 <神崎さん家は家族全員こんな感じですよ。(戻るよ)>