>> 布団と干し草
紫煙を燻らせ、空を見る。
月は陰り、星さえも見えない。
今宵の月齢は2.6日……いわゆる、三日月という奴だ。
月の光が弱い時。
狼男であるウォードの中に楔のように食い込んだ、獣へと落ちる忌まわしい呪いの血も、幾分か薄らぐ。
血を求める衝動も、死に至ると錯覚する程の飢えも、焦燥も、満月に近い頃と比べれば今日は大人しいものだ。
だがそれでも、窓から僅かにもれた光。ただそれだけで血が騒ぐ。
空腹を覚えれば飯を食うように。眠たくなれば眠るように。そういった感覚と同じように、破壊の衝動が起きる。
ウォードはそんな自分の中にある感情を抑える為に、黙って煙草に火を付けた。
「ウォード兄ちゃん!」
その時、突如部屋の扉が開き、聞き覚えのある声がする。
眼前にあるのは七瀬澪の姿……自分が働く喫茶店・イクィリブリアムにて自分と同様、住み込みで働いている従業員である。
「あー、ウォードの兄ちゃん煙草吸ってる! もー、煙草は健康に悪いんだぞっ!」
漂う紫煙に気付いたのか、七瀬は露骨に眉を顰めると一歩下がって彼を見る。
幼い頃から病気がちだった七瀬はとかく煙草のにおいを嫌い、吸っている所を見るや吸うな、消せと騒ぎ立てるのだ。
まだ火を付けて間もないのだが、露骨に嫌がる相手を前に吸い続ける程、ウォードも分からず屋ではないつもりだった。
灰皿に煙草をねじ込むと、溜め息混じりで七瀬を見る。
「自分の部屋で何をしていようと俺の勝手だろう? ……それより、何の用だ七瀬。夜は俺の部屋に来るなと言ってなかったか?」
狼男の身体に現れる変貌の呪いは、魔術や特別な道具、儀式の力、そしてウォード自身の精神力もあり、満月に高ぶった時でなければ大分、コントロールする事が可能となってきている。
だが、内にある衝動――それは時に破壊の衝動であり、時に飢餓の衝動であり、時に殺意の衝動である――は、抑えられない時がある。
あの忌まわしい獣の力でもう、誰も傷つけたくはない。
忌まわしい力でなかったとしても、理性が抑えられない時に現れた彼に、自分が何をするのか……自分自身でさえ予測がつかない。
ただ、七瀬を傷つけない為にも夜は、気軽に現れてほしくなかった。
だがその言葉で、七瀬は自分が嫌われているのだと思ったのだろう。
「また、ウォード兄ちゃんそういう……いっつもそーだよな、兄ちゃん、俺の事なんてどーでもいーんだ……」
七瀬はがっくり肩を落とすと、今にも泣き出しそうな顔になり俯いて見せる。
「そんな顔をするな! 全く……仕方ない、入れ」
七瀬の事は心配ではあるが、七瀬に泣き出されると後々厄介であるのもまた事実だ。
幸い、今日は衝動も薄らいでいる。
仕方なく部屋に招き入れると、七瀬は今のやりとりを忘れたかのような笑顔のまま、テレビの前に座った。
「やったー、おれ、ウォードの兄ちゃんと見たい番組があったんだよ! ほら、兄ちゃんっ、いっしょに見よう! 今ちょうど、動物の、面白いのやってんだ!」
そして勝手にテレビを付けて、リモコンを落ち着きなく押し続ける。
「ほら。ウォードの兄ちゃんも見るの! 隣座って、ほら、ほら!」
持参したクッションを敷くと、それを平手でぽふぽふ叩き、隣に座るように促す。
どうやら、意地でも自分とこのテレビを見たいらしい……ウォードが諦めて彼の隣に座ると、七瀬は不意に彼の顔をのぞき込んだ。
「なー、ウォードの兄ちゃん? 兄ちゃんって、昔から煙草吸ってたのー?」
「ん……」
「煙草なんてさー、煙くて臭くて喉がイガイガするし、吸いすぎると身体に悪いしで、いい所なんて全然ないだろ? それなのに、何でそんなの、吸うようになったのかなーって思ってさ……何で?」
そういえば、と思い返す。
確かに自分は元々、煙草を吸うような嗜みはなかったはずだ。
家では煙を好む人間はなかったし、以前は、この匂いで敵に察知される危険を考慮し、吸わないようにしていたのだ。
なのに、何故……。
『吸わないんですね、部隊長?』
煙草を差し出し屈託なく笑う。
そうだ、あの頃は吸わなかった。
鼻のきく敵もいる。
煙草や香水の類で気取られるといけないから、御法度だ……。
上司からのそんな通達も意に介せず、あの部隊に所属していた多くの部下たちは平気で煙草を吹かしていた。
違反は違反だ、だが煙草を吸わなければ落ち着かない事もある。
彼の部隊で行われる仕事は、それ程プレッシャーのかかるものだったから、何時しかそれも暗黙の了解で当たり前になっていた。
だが、ルールはルール、違反は厳禁だ。
幼い頃からそう、たたき込まれていた自分は些細な違反をする事にも抵抗があり、周囲の仲間たちが煙草を吹かすといつも離れて一人でいた。
そんな自分に、煙草を差し出したのが彼だった。
そう、彼はよく笑う男だった。
自身の家柄を気にしてか、人一倍働く男でもあった。
『悪いが吸わないんだ。そういう嗜みはない』
そう断って車上にて、いつも懐に抱いた童話――幼い頃、父に買って貰ったものだ――を読みふける。
そんなウォードの隣に座ると、彼は興味深げに本をのぞき込んできた。
『それ、何すか。部隊長? ……いえ、本を読んでるんだな、ってのはわかるんですけど。何の本、読んでるんですか』
『……別にいいだろう、俺が何を読もうと。それより、他の連中と……いいのか?』
『いいのか、って。何がっすか?』
『煙草……吸ってくればいいだろう?』
『煙草? あー、別にいいんすよ俺も、そんなに吸う方じゃないし……』
彼は微かに笑いながら、ウォードの肩へと寄りかかる。
『それに、他の連中は煙草臭くて……ほら、部隊長は全然匂わないし。おれ、部隊長のにおいが好きですから』
『匂いが……?』
『えぇ、部隊長は干し草のにおいがします。暖かい干し草の、太陽の匂い。俺の故郷の匂いですから……』
彼はそうやっていつも笑っていた。
そう、何時でも。
卑しい出だろうと他の仲間たちから蔑まれ笑われている時も。
プレゼントに、新しい靴を誂えてやった時も。
何時、命を失うか解らないといった激戦の中でも。
そして、獣に転じ自らを制することができないまま暴れる事しか出来なかったウォードの、その牙を受けたその瞬間さえも。
「俺は……俺が、煙草を吸うようになった理由は。そうだな」
煙草の箱をポケットにねじ込み、ウォードは虚空に目を向ける。
「干し草のにおいが嫌いだからだ」
「えっ?」
「暖かい干し草のにおい。俺は、そのにおいがするらしい」
「えー……だから煙草吸うようになったの? ねー、ウォードの兄ちゃん?」
七瀬の問いかけには否定も肯定もせず、彼から離れてソファへと腰掛ける。
だが彼はすぐにウォードを追いかけると、ちゃっかりとその隣に座り、きゅっと袖を握ってから笑った。
「んーと……確かに兄ちゃん煙草くさいから、今は干し草のにおいなんてしないと思う。けど、おれ、兄ちゃんのにおい、好きだよ? ……干したお布団みたいに暖かいかんじがして、そう」
七瀬は笑う。
「ウォードの兄ちゃん、太陽のにおいがするもんね!」
それは何時か聞いた言葉。そしてもう、二度と聞く事が出来ないと思った言葉だ。
眼前の笑顔が、いつか見た、そしてもう記憶の中でしかない笑顔と重なる。
「……バカが」
ウォードは顔を背けると、微笑む七瀬の肘を小突く。
「痛ぇー、何するんだよウォードの兄ちゃん!」
よく笑い、よく怒る。
表情をコロコロ変えるこの青年は勿論、あの男とは違う。
紡がれるはずだった運命の糸は、すでにこの爪が。牙が、断ち切ってしまったからだ。
こんな呪われた身体で神に許しを乞うのは烏滸がましい事だろう。
願い、祈るのは尚更だ。
だがそれでも、ウォードは願わずにはいられなかった。
もう夜に蝕まれまた、この牙で、この爪で、「彼」の命を絶つような事が、二度とおこらないように。