>> 血と牙
何の事はない、大した仕事ではないよ。
「組合」のいう「大した仕事ではない」が実際その通りであった事は少ないが、それにしても今回は今まで受けた依頼の中でも最悪だろうな。
神崎は内心そんな事を呟くと、半ば廃ビルとなりかけたある建物の一室でひび割れた天井を眺めていた。
背中に、鈍い痛みが走る。
動こうと思えば喉元から血がこみ上げてくる。
肋骨が2,3本は折れているに違いない。
目眩を催す痛みは彼に、怪我の程度が決して軽くない事を伝えていた。
……目の前に躍り出た影が、人ではないのは把握していた。
身にまとっている独特の負のオーラと、何より、むせかえるような死臭がそれがすでに人ではないという事を物語っている。
だが、まさか……下等とはいえ、吸血鬼だったとは。
「……全く、他人の身体だと思って、随分遠慮なく打ちのめしてれたもんだよ」
腕を、指を動かして身体の調子を確認するが、思ったより深刻な状態のようだ。
思うように身体が動かない……そればかりか、鈍い痛みが広がっていく。
立つ事はまだしも、戦う事は難しいだろう。
神崎はそう直感した。
「……血を吸われなかったのは幸い、だけど。ねぇ?」
念のため、不死者が嫌う香油を塗りたくっていた甲斐があったのか。
幸いな事に血は吸われなかった為、吸血鬼(れんちゅう)の仲間入りは避けられたが、敵の猟場で手負いの身体を引きずるとは分が悪い。
ひとまずこの場は撤退するか。
いや、撤退するにも痛みが激しい、鎮痛剤のアンプルは何処にしまったか……動かぬ指を精神力で動かして、ポケットを探りアンプルを求める。
そんな神崎の耳に、乾いた靴の足音が聞こえてくる。
敵が、とどめを刺すために舞い戻ってきたのか……。
傷ついた身体で精一杯身構える神崎の前に、見慣れた靴が現れた。
「大丈夫ですか、マスター!」
手入れされたコンバット・ブーツには愛用のナイフが刺してある。
規格外の大きさは、軍のお下がりではないと容易に手に入らないサイズだろう。
だが靴のサイズが大きいのは、その長身を見れば納得出来る。
縮れたブロンドと蒼い瞳が印象的なその男の身長は、2mに届きそうな程だった。
彼の名前は、ウォード・ランカスター。
ここ数年、神崎の部下としてこういった化け物を相手に戦っている、イクィリブリアムの従業員だ。
「ん。まぁ……命があるのが大丈夫ってんなら、大丈夫だけどねぇ」
神崎は笑うが、その血の臭いと歪んだ腕を見て、事態の深刻さに気付く。
ウォードは神崎の傍らに跪くと、手早く止血と応急処置を始めた。
ウォードは元々、軍人家系の出身である。
自身も長く軍に所属した経験からか、応急処置も手慣れたモノだった。
「……ひとまず、折れた箇所に添え木を施しました。それと、鎮痛剤です。これで痛みは幾分かとれると思います」
「あぁ……悪いねぇ。おかげで、身体は動くようになったよ……」
腕を握り笑う神崎の身体を、ウォードは留める。
鎮痛剤で痛みを留めても、とても立ち上がれる状態でない事を見抜けぬ程、ウォードは間抜けな男ではないのだ。
そして二度、三度。
鼻をひくつかせながら、周囲の様子を伺った。
「死臭に混じって、鈍い血のにおいがします……この怪力、このにおい……相手は吸血鬼、ですね?」
「恐らくそうさね……霧にも蝙蝠にもなれない下級(レッサー)だが、力だけは馬鹿みたいに強かったよ。ほら、殆ど一撃でこれさね」
曲がった腕を見せながら、神崎はおどけて見せる。
「そう、ですか。でしたら……後がこの私が」
脇にかかえた銃剣を光らせ、ウォードは唸るように呟く。
無表情のまま、語調も変わってないように見えるが……神崎が傷つけられた事に、怒りが先立っているのだろう。
切れるような闘志が、肌に触れた。
「……ん。それじゃ、お前ほどの男に尻拭いさせて悪いんだけど……俺の弔い合戦してもらおうかねぇ?」
「まだご健在でしょう、マスター?」
「はは……いいか。ウォード、相手は吸血鬼だ、だから再び殺せ。そして帰ってこい。命令だ、いいな?」
「……了解致しました、必ず」
慣れた調子で敬礼すると、ウォードはそのまま走り出す。
その足が真っ直ぐ、不死者の影を捉えているのを確認すると神崎はその場で一時の眠りについた。
影を捉えるのは、そう難しい事ではなかった。
夜になれば多くの影は、やたらと高い場所を好む。
この吸血鬼も例外ではなかったのだろう。
零れる月の光に酔ったのか、男は廃ビルの屋上で天を仰いで笑っていた。
漆を塗ったような黒髪に、蒼白の肌。闇夜の中でもその目は爛々と輝いている。
季節にそぐわぬ長めのコートを着ているなど、出で立ちに少々不信な点こそあるものの外見はほとんど普通の人間と代わりがないだろう。
ただ一つ。
血の香水をまとっている事を除けば。
「……無粋だ、実に無粋だよ君は……こんないい月夜に革靴の足音なんて、実に無粋だ」
潜んでいたつもりだが、よほど聴力が鋭敏になっているのだろう。
階段を上るその足音も聞こえていたようだ。
これならば身を隠すのは無意味だと思い、ウォードは月下にその姿を晒す。
見慣れぬ男は小首を傾げ、赤い唇を歪めて笑った。
「そこな無粋な男は、さっきの奴の仲間か?」
答えてやる義理はない。
ウォードは迷いなく銃を構えると、相手が動き出す前にトリガーを引いていた。
僅かな衝撃、そして銃声。
銀の弾丸は確実に男の身体を捉えていた……はずだった。
「斯様によい月の夜に、銃声とは。本当にお前たち、始末屋は無粋だな」
耳元に声がせまるとの、眼前に銀色の刃が光ったのは殆ど同時だったろう。
ウォードはとっさに飛び退いて、ブーツに仕込んだナイフを手に取り輝く刃に応戦すれば、金属の擦れる音と重い手応えがある。
刃物など持っている風には見えなかったが……。
渾身の力でそれを押し返し、何とか距離を保てばそこには、指先の一つを鋭い刃へと変貌させた男の姿がある。
霧や狼になれる程上等な吸血鬼ではない。
だが、自分の肉体を変貌させる力は多少備わっているのだろう。
「……銃とは命を軽々しく扱う、無粋な兵器だ。真に血を、肉を、愛するのであれば……刃の上に肌を走らす事こそ、真の快楽。そう思わぬか、お前は?」
見れば男の刃に紅の液体が滴り、ウォードの腕に出来た微かな傷が疼く。
「……生憎と、いい趣味とは言いがたいな」
滴る血を舐めて言えば、男は不適に微笑んだ。
「そうか、切り刻むのは性分ではないか……」
ならば、と言うが早いか、男の右手は鉛色に輝く鈍器へと変貌する。
ただ破壊のみを目的にした、巨大で歪な殴打の為の道具……。
ウォードの主を傷つけたのは、恐らくあの凶器だろう。
中途半端に力をつけた下級吸血鬼は、伝統的にいるそれのように蝙蝠にも狼にも、霧にも変貌できないかわりに、このような異形に変身する事が増えているのだと、誰かがいっていたが、無粋な変貌である。
「ならば叩きのめし、擦り潰してくれよう。無粋な輩に相応しい、無粋な最後だな!」
言葉を最後まで言い終わらぬうちに、再び影が躍り出た。
僅かな跳躍で一気に間合いをつめるのは、人を越えた化け物らしい動きである。
充分にとってあったはずの距離が一気に狭まった。
「っ!」
迫る爪を……もう鈍器と呼んでもいいだろう。
その巨大な武器を、時に受け流し、時に交わしながら、まともに当たらないよう善戦を続ける。
だが、不死者の無尽蔵な体力から繰り出される攻撃にいつまでも付き合える程、ウォードはタフな男ではなかった。
呼吸があがり、少しずつ、壁が背面へと近づいてくる。
何か打開策を模索しなければ、このままでは防戦一方だ。
ウォードが焦燥感を募らせ、攻勢に出ようと身構えたその時、蛞蝓の這った後のようにテラテラと輝く床が、容赦なく彼の足を絡め取る。
「しまっ……」
大きく傾き体勢が崩れる。
その大きな隙を見逃す程、敵はお人好しではなかった。
「貰った……!」
声と同時に鈍い痛みが、ウォードの首筋に走る。
吐息が近い。
首筋には暖かな液体が逆流する感覚がある……。
「っ……ぁ……」
鈍い痛みで、声が漏れる。
吸血鬼である男の牙は、ウォードの首筋を深々と捉えていた。
「……これで貴様も、無粋な人の枠から外れ……はれて、我らの仲間だな?」
首筋で笑う男の嘲笑が肌で感じられる。
血で喉を潤し上機嫌になったのか、男は肩を奮わせて笑っていた。
「さっきの男は、抹香臭い香油の匂いをプンプンさせていたから餌にする気にならなかったが……お前は何らにおいがしない、いい餌だったものだからな……その血、ゆっくりと味会わせてもらうぞ?」
精一杯の力をこめて、何とか男をふりほどくウォードであったが、首筋からはすでに止め処なく血が流れている。
随分と血は吸われたようだ。
首筋を押さえ蹲るウォードの身体を、男は笑いながら眺めている。
男は自身が下級の吸血鬼である、そういう自覚はあった。
だがそれでも、人の血を吸えば眷属が増やせる程度の能力はある……。
「さっきの敵は今日の友、とはよく言ったものだな……さて、立て。今度は我の眷属としてな」
男は手を出しほくそ笑む。
血を吸えばその従者が、血を吸った吸血鬼に逆らえぬ呪いがふりかかるという事を知っていたからだ。
だが、ウォードはその手に触れぬまま、肩を奮わせ笑っていた。
「……お前の仲間、か」
その笑顔はまるで自嘲するように。
そしてどこか寂しげに。
「……下級吸血鬼程度の陳腐な呪い……この俺が、受け付けるとでも思ったか?」
「何、を……」
血を吸ってもなお、自分の元に跪こうとしないウォードのその様子を見て、男はようやく彼の異質さに気付く。
人であればとっくに、自我を失っている頃合いだというのにウォードの目には強い意志の力があり、その身体からは焼けるような闘志が滲み出ていた。
「霧にも、狼にもなれない下等な吸血鬼の分際で……俺を従えようとは……」
一歩踏み出したウォードの足が、心なしか一回り大きくなったように感じられる。
何でもない、人間であるはずのウォードを前に、吸血鬼である男は一歩、後ずさりをしていた。
「さて、蝙蝠のなり方さえ知らぬお前は……人の血肉が異形へと変貌する様など、見た事あるまいな……?」
「何を、何をいているのだ。近づくな、無粋な輩め……」
「見せてやる、これが狼への変貌だ」
心なしか、大きくなったように感じられた……その足が、今ははっきり膨らんで見える。
いや、足だけではない。
腕が、背中が、身体全体が男の眼前で、見る見るうちに膨らんでいく。
みしり、みしり。
服を破りながら筋肉は隆起し、同時に皮膚より鋭い剛毛が現れ、月光の下白金に照らされる。
静かな男の蒼い瞳は血走った紅い瞳に変貌し、口には大人の腕ほどはある巨大な牙が輝いていた。
月光の下。
巨大な体躯をもった男は、牛ほどはある巨大な白銀の狼へと変貌していた。
「ば、ばっ……化け物」
その巨躯は化け物である吸血鬼からしてみても、異質であり、恐怖に値した。
本能的に危険を察知し、逃げようと振り返る。
だがそれより早く、狼の爪は男の足を寸断した。
「なっ、わ、たしの足……この、無粋な狼が。いや、狼、貴様、狼男……リカントロープか! いや、ただのリカントロープにこれだけの能力が……」
足が千切れてもなお、逃げまどう男の腕も、身体も。
銀狼はまるで、紙くずでも千切るかのように簡単に引き裂いていく。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな……回復が間に合わないだと、ふざけるな……これほどの力を有している狼男がまだ、この世に残っているとは。そんな、たかがリカントロープが……いや、まさか、お前は……」
両足は千切られ、すでに動く事もままならない男は振り返り獣を見る。
「まさかお前は……唯一なる狼、ヴェアヴォルフ……ウォード・ランカスター……?」
その言葉を最後に、男の頭は弾けて消えた。
後はただ、巨大な銀狼が月に吠える。
すでに躯となった男の身体を、その爪が。牙が、容赦なく蹂躙していく。
……血を浴びる鼓動がいつもより大きい。
奴に血を吸われた呪いが、幾分か混じっているのだろうか。
だとすれば、面白い。
ウォードは……ウォードであった獣は少し唸ると、その牙で男の首へと食らいついた。
ごきり、ごきり。
口の中で何かが折れ、つぶれるような音がするがさしたる事ではない。
滴る血が口の中にこぼれ落ち、焼けるような喉が僅かに潤う。
だが、臭い血だ。
もう死んでいる人間の血などやはり……飲めたモノではない、か。
獣は血を吐き出すと人の声とも獣の声とも思えぬ唸りをあげた。
「……不味い血だが……大地に飲ますにはちょうどいいだろう」
巨躯の影は揺れ、月は陰る頃。
血肉が舞い踊る宴は今、はじまろうとしていた。
幾分か身体が動くようになった神崎が、ウォードの様子を伺う為に屋上へあがった時すでに事態は収拾していた。
「あ、マスター」
月を見上げ跪くウォードは、すでに殆ど服らしいものをまとってはいなかった。
破れた布と、周囲の惨状で神崎は彼が変身したのだろうと想像する。
「お怪我の具合は大丈夫ですか?」
「ん。まぁ……良くもわるくもなってないさね。そっちは?」
「大事ないです」
神崎が手持ちの荷物から大判のタオルを見つけ、ぎこちなく投げればウォードは黙ってそれを受け取り羽織る。
「目的の不死者……吸血鬼は再殺しました。心臓に杭は打ち付けられませんでしたが、二度と再生できぬ程に切り刻みましたから……もう復活は不可能でしょう」
「あ、そ……」
ウォードが淡々と語るその最中も、神崎の視線はその首筋にあった。
くっきりと現れている二つの傷……吸血鬼に噛まれた痕跡だろう。
神崎は、動かすのも億劫になった利き腕でウォードの、その傷痕に触れた。
「……噛まれてるじゃないさね、これ。大丈夫かい?」
「えぇ、血はもうとまっております。傷ももう、なおるでしょう」
「そうじゃなくて……吸血鬼に噛まれたんだよ、お前?」
吸血鬼に噛まれたものは吸血鬼になる。
伝承で有名なこの話は、雑多にある吸血鬼の噂のなかでは真実を捉えているものの一つである。
噛まれたモノは吸血鬼になる……。
伝承通りの呪いがあれば、ウォードもまた吸血鬼に変じるはずだった。
だが彼は普段と変わりなく穏やかに笑うと自らの傷に触れた。
「えぇ……大丈夫ですよ、これは、ただの噛み傷です」
「んだが……」
「生憎、私に持っている人狼の呪いは……吸血鬼のそれよりずっと、強いのですよ。そう……ずっと、ずっと……ね」
神崎を心配させまいと語り、大事ないのを示す為に笑ったのであろう。
だがその語り口はどこか諦めの色が見え、笑顔もまた寂しげである。
吸血鬼の血よりも濃い呪いに蝕まれている事実を前に、強く笑える男ではないのだろう。
「ですから……心配なさらないでください。マスター、私は……大丈夫ですから」
その壊れそうな心を抱えて、一体何が大丈夫なんだ。
疑問が喉に突き上げるが、彼の心を慰める気の利いた言葉は思い浮かばず、結局全てを飲み込んで神崎はただ頷いていた。
隣を歩いてやる事しか、今の神崎に出来る事などなかったのだ。
ウォードの言葉が事実であるかのように、首筋の傷今、跡形もなく消えようとしていた。