>> 夜を狩る旋律



 ……喉が、乾いていた。

 ただ、喉が。


 唇から紅い滴がこぼれる。

 芳醇な香りが鼻孔を擽る。


 目の前には、かつて師とあがめた男が横たわっていた。



 「…………最近、喉が乾きが癒えないと思っていたのだが、私が欲していたものはどうやらコレだったようだな」



 喉笛をかみ切られ、口からひゅうひゅうと意味不明の音を出し倒れた師を踏みつけて、その男は歩み出す。


 食事をとらなくなって、一ヶ月。

 眠らなくなって、半月といった所か。


 天井に吊った縄を首にかけてもなお死ねなかったあの日から、何かが変わっていたのは理解していた。


 眠らなくても疲れを覚えぬ身体は幾分か便利に思えた。

 だが飢えが、乾きが治まらない。


 食事をとれば嘔吐を催し、水に触れれば痛みが伴う。

 故に、食事もとれず水を飲む事すら出来ないまま、焦燥ばかり募っていた。


 その飢えが、乾きが、焦燥が、今はどうだ。


 誰の中にも流れ、そして今は自分の中にないあの紅玉のような液体を飲み下した瞬間から、驚く程に癒えていく。


 身体が軽い。

 焦燥感は消え失せ、踊り出したくなる程に力がわき出ていた。


 「そうか、私は……」



 あの日。

 首を吊り命を絶とうとしたあの日、何かが変わった。

 その変化の正体を知り、一人ほくそ笑む。


 ふらりと立ち寄ったバーで出会った、あいつは酒を奢ってくれた礼にと下らない戯言を吹き込んだ。

 酔っぱらいの戯れだと思っていたが……どうやらあの儀式、真実だったようだ。


 「不老不死だなんて、幻想の世界だけの事だと思っていたが……まさかこの私が、それになれるとはな」


 人を越えた事を認識した瞬間、男の脳裏に、様々な出来事が浮かぶ。

 冷たく見下した女性の視線。

 罵倒ばかりの師の言葉。

 思えば侮辱と屈辱にまみれた人生だったような気もするが、作り変わった肉体得た今、それさえも楽しい余興にえる。

 復讐が始まろうとしていた。


 その時。


 こつり、こつり。

 渇いた靴音が怠惰な音を鳴らす。

 この家には、今し方喰った師匠(おとこ)を含めれば人間の形をするものは自分の他に誰もいないはずだが……一体これは、誰の足音だろうか。

 そう思い振り返ったそこに、その男が居た。



 「やれやれ……さしたる仕事じゃないと言われて出向いてみれば、まさか不死者が居座ってるたぁ……とんだ厄日って奴さね」



 驚く程白い肌と、やや赤みがかった髪を持つ長身の男である。


 起き抜けにすぐでてきたのだろうか。

 Tシャツにジーンズといったラフな服装の男は、やや垂れたその目を眠たそうにこすりあくびをする。

 その瞳は、闇だというのに紫に輝いているように思えた。

 奇妙な足音は、すり切れた革靴のせいだろう。


 見覚えのない、男である。


 人付き合いは少なく、半ば廃屋同然のこの家に迷い込んできたのか。

 それとも、我が師であった男の縁者か。


 どちらにしても、すでに人間を越えた不死者にとって人間はただの餌に過ぎない。


 男の舌に、紅い液体の味が思い浮かぶ。

 今癒したばかりの喉が、乾いた。


 「人間か……」


 生を捨て、不死を生きる事となった男は唸るような声をあげ、目の前に現れた哀れな羊に向かって走り出す。


 男にとっては、軽く歩く程度の足取り。

 だが人の目でとらえるのも困難な速度である。


 人を越えた男の身体はすでに、人知をこえた体力を得ていた。

 故に、人を狩るのは容易い。


 ……はずであった。



 「!?」



 鈍い痛みが、腕に走る。

 次いで膝に、くるぶしに、鈍い痛みと衝撃が痛みが鈍くなった身体にも感じられた。



 「何だ!?」



 驚き、現れた人の方を向けば、その指先に銀色の光が輝く……。



 「ちっ……いけないねェ、捉えきれなかった。やっぱり、訓練をサボっちゃいけなないって所か」



 闇に輝き僅かに見えるそれは、細い糸にも見えたが正体は恐らく鋼糸……ワイヤー、あるいはピアノ線か何かだろう。

 男はその鋼糸をたぐり寄せ、まるで生き物のように器用に操っている。


 不死者である自分の身体をも切り刻めるというのなら、銀糸の混じったものか。

 あるいは、聖なる儀式とやらを施したものであるには違いない。


 だが、どんなに加護を施した所で所詮、操るのが人間であればそれはそれ。

 自分の身体能力を上回っての攻撃は出来まい。


 それに、いくら儀式を施しても所詮は鋼糸だ、致命傷にはならない。

 それを示すように今、裂けたばかりの傷は修復していった。



 「なかなか面白い児戯をおもちのようだ、が……子供の遊びだな」



 一つ、床を蹴り相手へと迫れば、相手もそれに応戦ししなる鋼糸を繰り応じる。

 だが男の想定通り、すでに人を越えた男にとって人が繰り出す攻撃など、腕に絡みつきじゃれる子猫の遊びにも等しかった。


 少しずつ、男の攻撃に押され、やがて壁際へ背がつく。

 鋼糸を繰り出す男のその美しい顔から、舌打ちが零れた。


 遊びは終わりだな。

 異形は内心そう呟くと、現れた男を糧とする為一気に男へ詰め寄ろうとした。


 命を終わらせあの、甘く芳醇な血で喉を潤す為に一歩踏み出せば、男はその紫の瞳でこちらを見据える。

 その顔は……僅かに、笑っていた。


 何故だ。

 笑いたい程に優位なのはこちらであるはずなのに……。

 異形と貸した男に僅かな疑念が芽生えた、その刹那。


 「あ……ぁぁああぁあああぁあああ!」


 痛みを忘れた肉体を持つはず不死者の体内に、理解不明の激痛が走る。

 身体の神経という神経に、茨の刺を突き立てられ絡みつくような理解不明の痛みだ。



 「がぁっ、はぁ……何故だ! 人を、痛みを超越したはずの身体で、何故……」



 床にひれ伏し、のたうち回る異形の頭を、男は無造作に踏みつける。

 そして煙草をくわえると、静かに指を動かした。



 ……その指先の動きは、鍵盤を奏でているように見える。

 その場には楽器など存在しないはずだが……どういう訳だろう。


 荘厳なパイプオルガンの音が、室内に響いていた。

 恐ろしい程に澄み切ったその旋律は聞き覚えのない曲だが……。


 「あ、がぁ……」


 異形の肉体を確実に蝕んでいる。

 自身に何が起こったのか理解出来ぬまま、不死者はその場でのたうち回っていた。


 「……不死者ってのはねェ。お前が思っている程、強くもなければタフでもないんさね」


 男は煙草をくわえながら、頭を踏みつけ異形に言う。


 「そもそもお前たちは、死ねなかっただけであり、不死でもなんでもないんさね。ただ、偶然ズルできただけ……死にぞこなっただけって奴さ。だから、ちゃぁんと手順踏んでやれば、きっちりあの世に行ける……不死者なんて言うけどね、ちゃぁんと、死ねるんだよ」


 まさか、ばかな。

 だが男の言葉が事実であるかのように、忘れたはずの痛みが広がる。


 「……ギョーム・デュ・ファイって、知ってるかね? 昔、教会のためにレクイエムを作ったンだが、それが生憎 本物の不死者を鎮める力  があってネぇ。当時、とある強大な不死者の王は、それを封じる代わりに教会の犬をやったそうだよ。最も、教会が吸血鬼と通じてたなんてぇ洒落になんないから、表向きは紛失した、って事になってるんだけどねぇ……これ、今聴いてるこれがそう……失われたデュ・ファイのレクイエムだよ。 どうだい、本物の不死者の王さえ恐れるレクイエムの旋律は、はんぱな吸血鬼のお前にゃさぞ堪える事だろう」


 そう言いながら、指先を虚空に向け、ゆっくりと歌い出す。

 男の声は低く、穏やかに……死ねなかった男に、死をもたらそうとしていた。


 「やめ、ろ……やめろぉ! やめろぉ!」


 異形とかした男の足が、少しずつ灰に帰していく。


 「塵は塵に、灰は灰に……吸血鬼らしい最後じゃないのさ。ほら、笑って、笑わないと、来世で生まれ変われないよ」


 男は煙草をくわえたまま笑う。


 「まぁ……死の摂理からはみ出した奴に、来世なんてモンないだろうけどね」


 痛みでのたうち回る中、異形は憎しみの目で、男を見据える。


 「貴様……何者だ……どうして、失われた旋律を知る……どうして……何もないこの空間で音を奏でる事が出来る、どうしてッ……どうして……」


 その言葉を受け、男は紫の瞳で異形を見据えかえした。


 「……何、名乗るモンの程ないさね。何処にでもいる、ただの喫茶店経営者だよ」


 そう宣う男の指がとまる。

 音が消え、異形に痛みはなくなるものの、すでに四肢は灰となり頭と胸だけが残されているだけの状態になっていた。



 「せめて祈祷書は読むよ」



 気付いた時、男の腕には白木で誂えられた杭が握られていた。



 「earth to earth ashes to ashes dust to dust……」



 聞き覚えのある言葉を奏で、男はその杭を的確に、心臓へと打ち立てる。

 吸血鬼を屠る正当な手段を踏んだその直後、異形は声もあげぬまま、霧のように消えていった。



 「やれ、やれだねぇ……廃れた芸術家が魔術に手ぇ出した、なんて噂があるから見に来てみれば、まさかホントだったとはねェ……」



 一人残った男はそう言いながら、ポケットから一つの瓶を取り出す。

 丁重に封が施されたそれには、教会の烙印が押されていた。



 「一つだけでも、仕入れていてよかったよ」



 そして、封を切り瓶の蓋を開ける。


 闇を、歩く。

 異形に喉笛をかみ切られた男は躯になる事もなく、床をはいずり回っていた。


 不死者に血を吸われたものはまた不死者になる。

 その伝承通り、男はいま不死者になろうとしていた。



 「…………教会で儀式を施した、本物の聖水だ。楽にしてやるよ」



 銀色に輝く滴を、異形に転じようとする男の身体へと注ぐ。

 後には血も、骨ものこらず、さらさらと灰になって全ては消えた。



 「……ふぅ」



 男が再び歩き出せば、すぐに胸の電話がなった。

 着信は……男の依頼主だ。

 だが、すぐにでるつもりにもならない。



 ……簡単な仕事だと押しつけた割に胸くその悪い思いをした。

 文句をいってやりたい気持ちもあった。

 が。



 男は電話の電源を切ると、かわって別の電話を取り出す。

 そして携帯のメモリーから、今すぐ電話に出そうな友人の名前を選んだ。



 「……もしもし、あぁ、ジュンペイか? あははは、そういやな声を出すんじゃないさね! 何、久しぶりに可愛いジュンペイの声が聴きたくなってねぇ…… あぁ、みぃと変わってくれないかな。 ……いやだね、駄目ってどういう訳さね。 あぁ、さては……可愛いみぃと、行為の真っ最中だったかい? だったら野 暮な事をしたねぇ、いいよ、続けてくれて……おいおい、狼狽えてるんじゃないさね! 天下の椎名淳平サマが、その程度で狼狽えちゃ、だめだろ、もぅ……あ ははは! ホントに面白いねぇお前はっ、いいやら、みぃともかわってって、な」



 受話器ごしに聞こえる声には、自分が守りたい平穏がある。

 この世界を守っているのだと思えば……。



 ……胸くそが悪くなる仕事も、何とかやっていけるだろう。



 電話を切ると、男は再び歩き出す。

 間もなく夜が明けようとしていたが、男の夜は終わる事なく、繰り返されていくのであった。




 <流石神崎先輩はイケメンであらせられる(戻るよ)>