>> 幸福で、不幸な夢。




 悪夢に苛まれるよりも、幸福な夢しか見ないほうがずっとずっと恐ろしいのですよ。
 と、その女は言った。

 ワイシャツにベスト。
 胸元には銀色の懐中時計が輝く少女の風体は、ステレオタイプの執事がする衣装そのものだったろう。

 乾いた革靴の音を鳴らしながら、大仰に一礼をしてみせる。


 「お迎えにあがりました」


 きっちりと踵を揃えて挨拶をする、その片手には雲一つない青空には不釣り合いの大きな傘が握られていた。


 「いや、迎えにといわれても……キミは……」


 突然現れたその少女……少年の姿をした少女に、ただただ困惑する。


 「どうしたの、アナタ。誰か来たの?」


 背後から、幼い娘を抱いた妻が私の背後より顔を覗かせる。
 美人と呼ぶには大人しい顔かもしれないが、私にとっては誰より優しい最高の妻だ。

 結婚して長らく子に恵まれなかったが、ようやく生まれた娘に最近はかかりっきりになっている。
 小さいながら幸福な毎日を送っていた私にとって、彼女は全く異質な来訪者だった。


 「心配しなくてもいいから、下がっていてくれないか。なに、すぐに追い払うから」


 だがそれも日常のなかにある、僅かなほころびだと思っていた。
 少したてば私はまた元の平穏に戻れると、そう思っていた。

 しかし、少女の顔を見た妻はその表情を一変させた。


 「そんな、どうして……いや。いや……この人は、この人はつれていかないで……私、もう終わりにするから……私はもう、誰も傷つけないから………………」


 震えた声で娘を抱く妻の異変に気付かない程、私は鈍感でもなかった。


 「どうした、お前……どうした……?」


 明らかに妻が怯えている、その事で私はようやくこの異質な来訪者が危険である事を認識する。

 すぐにでも排除しなければいけない。
 そう思う私よりも先に、彼女の方が動いていた。


 「残念ですが、もうおままごとは終わりにして頂きます……」


 少女は時計の鎖を千切ったかと思うと、それは瞬時に巨大化し妻の身体の自由を奪う。


 「何をするんだキミ、やめたまえ。警察を……警察を呼ぶぞ!」


 警告のつもりではなった言葉に、彼女は表情一つ代えないまま問いかけた。


 「……かまいません。ですが今、能力を封じました。新しい夢を紡ぐ事は不可能です。だから……来ないと思いますよ。警察」
 「何をいって……キミは……」

 「失礼ですが、アナタはこの5年の間、夢を見ましたか?」


 バカな質問をする。
 そう思い、思い返そうとしたが……夢を見た記憶はない。

 自分は元々、夢を。
 とりわけ数多の獣に追いかけられる悪夢をよく見る方だったのだが……。


 「見た事ありませんよね。ここがそれですから。二つ目の質問です……彼女の名前を、ご存じですか?」


 少女は鎖をならしながら、乱暴に妻の首をひく。
 当然だ、妻の名前を知らない夫があるか……そう思って言葉を出そうとするが、不思議と声が出てこない。

 そういえば……私は彼女の事を、何と呼んでいたのだろうか……。


 「言えませんよね。彼女には人間の声で発音出来る名前なぞ御座いませんから……では、最後の質問です。アナタは……あなたは、ご自分が誰かをご存じですか?」


 問いかけられて、言葉につまる。
 そう、そうだ……そう、私は。

 私は、一体誰なのだ。


 「悪夢に苛まれるのは決して悪い事ではありません」


 彼女は傘を軽く回すと、それに優しく口付けをする。
 その瞬間、今し方まで傘であったそれは、少女の身の丈ほどはありそうな錆びた鉈へと変貌していた。


 「悪夢とはその方がもつ負、あるいは不の気運を形にし、悪しき気を祓う効果があるもの……悪夢は人のあしきものを飲み込み、清める……あしきゆめを見るとき、人は清き運命を導く器をつくるのです」


 濁った鉈がこちらを向く。
 いつもは賑やかに泣きさけぶ娘の声が、今はなにもしなかった。


 「故に、良き夢を見続けるのはとても、とても危険なのです。良き夢は香しき罠……夢に潜み魂を喰らい、いずれ死へと人を誘う……夢に潜むまものの、ねぐらなのです」


 ですから、そろそろ目覚めたらいかがですか。
 唇だけで語る彼女の下で、拘束された妻が項垂れる。


 「あなた。私は、私は……私はっ……わたしは……」


 ずっと一人で夢の世界を渡り歩いていて、悪夢に苛まれつづけたアナタと出会った。
 あなたに一ついい夢をみせたら、とてもとても幸福そうだったから、私は夢に潜み続けた。

 永久の夢が意味するものが何だか、私は知っていたけれども。
 それでもアナタにはここに居てほしかった、私はアナタといたかった。

 私は、私は……。


 「おまえっ……」


 彼女は名を知らぬ女、だが妻だ。
 永久の夢が何を意味するのか、そんな事はどうでもいい。だた今はただ。


 「泣くな、傍にいるから……だから……」


 彼女の涙を拭いたくて、私はそっと手を伸ばす。
 私もただ、彼女の傍にいたかった。


 「………………人間って、ほんとバカ」


 巨大な鉄の塊が、彼女の細い身体へと振り下ろされる。


 「……ぁっ」


 伸ばした手は届かないまま。
 それまで俺を構築していた世界が、闇へと沈んでいった。



 目が覚めた時、私は一目で病院だとわかるベッドで横になっていた。
 腕には点滴が、両足は包帯がまかれており、動かすだけで身体が鈍く痛む事から何か派手な事故をやったのだと思う。


 「あぁ、そういえば私は……」


 近所だからとスクーターを走らせていた途中、右折の車に引っかけられて大げさに倒れたのだ。
 起き上がった傷の位置も、倒れた記憶と一致する。


 「あ、目が覚めた。兄ちゃんが目ぇさましたよ、おい、おい!」


 周囲を確認する私の隣で、弟が驚いたように声をあげる。


 「大丈夫か兄ちゃん。頭痛くないかっ。何か精密検査しても全然大丈夫のはずなのに、意識が戻らないからって先生、変だ変だっていってたけど……」
 「精密検査……意識が戻らないって、どれくらい寝て……」

 「5日くらいかなぁ……今日で6日目だ。もう駄目かなぁって思ったんだけど……」


 6日。
 あの生活がたったそれだけの時間だと思うが……だが、自分の体感した時間を明確に思い出す事が出来ない。

 私は確かに、長い夢をみていた。
 そんな気はするのだが、自分の中に何の記憶もないのだ。

 ただ、胸が押さえつけられるように苦しい感覚だけが残っているのだが。


 「……大丈夫、兄ちゃん。泣いているけど。何か、悪い夢でも見たのかい?」


 悪い夢だったのだろうか。
 いや、いい夢だった気もするが、それさえも覚えてはいない。


 「……違うんだ、私は……夢を、何も覚えていないのが。きっと、悲しいんだ……」


 シーツを握る手の力が、自然と強くなっていた。
 開け放たれたドアの向こうでは、誰かに抱かれた赤子の泣き声が聞こえていた。


 病院の外で、二つの影が揺れる。
 一人は男、一人は女。女の方は、まだ少女と呼んでも差し支えのない程幼いがその表情は冷たく何処か大人びていた。


 「最後に夢魔の声を聞かせたのは、必要なかったんじゃねぇのか。アレ、非道いと思うぜ。あぁいうの聞かされたら、男として助けたくなっちゃうだろ……アレ、聞かせないで捕縛して男と引き離せば、俺たちの仕事は終わりだったんだからよ」


 男の言葉には窘めるような響きが込められている。


 「人に仇をなす夢魔を討伐するのが我々……獏の仕事じゃなくて?」


 少女は唇だけで語るが、彼には言葉が届かない。

 夢に潜み人の魂を喰らう悪魔。夢魔。
 それと対等に戦う為、少女の声はすでに夢でのみ響くようになっていた。


 「確かにそうだ。けどよ……殺す必要、無かったんじゃねぇのかな」


 数百年前。
 夢に潜み人を堕落へと導く夢魔たちは多く存在し、そして多くの人を餌とし奈落へと引きずり込んでいた。

 だがそれも今は昔。
 夜にも電灯を掲げ、眠らなくなった人々を前に、夢魔の操る夢その力も落ち、今や夢魔そのものが希少種となっている。

 人の心に潜み入り、その精気を吸い取る夢魔が悪しき魔物ではあるのは今でも変わりない。
 だが、必ず滅する時代はすでに終わり、今は人に仇を為さなければ、捨て置けという方針へと変わりつつある。

 この街もまた、その方針を貫く街の一つであった。

 彼の言う通り、あの夢魔は壊す必要のない夢魔だっと、思う。

 だからこそ、彼女はあのやり方をした。
 人に縋り、執着させ、永久にあの男を縛り続けようとする、夢魔の本性を暴く為に。

 あの夢魔を、人に仇なす『あしきまもの』にする為に。
 そうしなければ彼女は、夢魔を、壊す事口実がないからだ。


 「そういうやり方、感心しないぜ?」


 感心されないのも分かっている。
 だけれども……。

 彼女は、そうする事しか知らなかった。
 夢に生き、夢を断つよう生きる為、喉と頭をいじられた彼女にとって、夢魔を壊すのが全てだったから。

 お気に入りの傘を引きずって、彼女はそのまま街に出る。


 「おい、何処に行くんだよ?」
 「……また、誰かの夢へ」


 応えたつもりだが、きっと言葉は届かないのだろう。

 現を断ち、夢にある為、彼女は声を夢に置いてきた。
 現において彼女の意志は、誰にも伝わらないのだ。

 一人で街を歩きながら、彼女は黙って空を見る。
 雲一つない空に、この大きなこうもり傘は不似合いだったろう。


 「行きましょう。また、誰かの夢のなかへ」


 だけど彼女は傘を抱いて、また一人で歩き出す。
 夢と現は曖昧のまま。

 誰かが幸福で不幸な夢を見ない為に。




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