>> 彼の名は、グリムジャン





 学院と呼ばれる街、エルトシアが今日も安穏とした雑踏にある中、街の片隅には粗末な衣服をまとった一人の男がひっそりと暮らしていた。

 歳の頃なら30を少し過ぎているのだろう。
 だがその立ち振る舞いは老成しており、精悍な顔立ちには深い孤独と悲しみが刻み込まれている。

 一見しただけで顔を覚えるのは困難な目だたぬ印象の男は、人の姿を持ってこそいたが内包する種は人ではない。
 人より妖魔と、妖怪と、化け物と恐れられる一族……。

 かつて人とその居場所を争い幾度も戦った、蛮族の一人であり、人間たちからは「スプリガン」と呼ばれ恐れられていた。

 スプリガンは本来、人間の成人男性より二まわり程大きい、額に角を持つ巨躯の怪物になる。
 赤褐色の肌は生半可な武器をも弾くほど強靭であり、金色の目は宵闇をも見通す。
 銀色の牙は岩さえ噛み砕き、鋭利な爪は人の血肉を紙切れのように切り裂く。

 存在するだけで恐ろしいその能力の中でも、最も異質なのは彼らに生来備わった変化の術である。
 そう、彼らは巨大な体躯を持ちながら、人間と全く同じ姿に変化する能力を持っていたのだ。

 人を真似、人の中に潜り込み、油断した所で人の血肉を喰らう。
 スプリガンとは、そういう魔物なのだ。

 だがそれも今となっては過去の話。

 数十年ほど前より始まった人類の台頭は人に仇なす多くの魔物を駆逐し、古き遺跡や厳しい辺境の大地に同属たちを追いやっていった。
 50年ほど前までは、この近辺にも自分と同種を多く見かけたが、今はもう同属を見る事はない。

 この街に残っているスプリガンで、男は恐らく最後の一体だった。
 孤独になってもなお、男がその地を離れなかったのは、その土地がかつての仲間・あるいは家族・あるいは恋人との思い出を残した土地だというのもあっただろう。

 古より自分たちが住まう土地を、人に追われる理由はないという思いもあったのだろう。
 また彼自身が長く、人の姿に変じて生活しているうちに人のそれに馴染んでしまい、同種との生活がかえって苦痛である、という事もあったのだろう。

 だが一番の理由は彼がもう、どの場所に潜み住んでも同じである、という考えに達したからであった。

 追われて逃げて隠れ潜んでも、人はいつか自分たちの住処を暴く。
 人の中に隠れ潜み住む事と、何も変わらないだろう。

 男が逃げるのを辞め、人の中で隠れ潜み住むようになってから数十年。
 300年を越す齢を持つ男にとっては短い年月だったが、その間にも、小さな集落だったその土地に人は増え、建物は連なり、道が出来、そして多くの市場が開かれた。

 今や学術都市や、貿易都市などとも呼ばれるこの街に、かつての荒野その面影はない。

 男はそんな雑踏の中で、群から離れても自分は「スプリガン」であり、人の心に堕ちたワケではない。
 自分にそう言い聞かせながら、時に裏路地と呼ばれる場所でゴミを漁り、時に名も入らぬ仕事について力を振るって、つかれた時は路上で石を枕にし眠る生活を続けていた。

 人と対峙し、人を蹂躙するのが彼らの本能であるはずだが、戦が頻繁におこっていた時代ならいざしらず、この平穏な世界では一人の命で事件だ。
 以前、自分と同じように人里へ隠れ潜んでいた同種が本能に抗えず、柔らかな肉を喰らった結果、執拗に追われ暴かれ殺され、そして晒される姿は今でも生命に覚えている。

 街で生きるには本能を制御する他はない。
 男が生きる為に選んだ道は、己を偽り人を真似る事だった。

 欺きで手に入れた空虚な日々の中、男はいつしか小銭を得ると必ず訪れる場所を得ていた。

 大通りの小さな屋台……。
 そこにはいつも、変わらぬ笑顔を向ける少年がいた。


 「あ、いらっしゃい! いつもの奴ですね」


 こちらの顔を見れば変わらぬ笑顔を向け、慣れた手つきでドリンクを絞る。

 表通りの飯屋が売れ残りの果物を安く買い上げてパイやらジャムにしはじめたのは数年前。
 その中でも変わった味のものをジュースにしてこう、露店で売り出したのは1年ほど前。
 店の手伝いに着ていた若い学徒にこの露店を任せるようになったのは半年ほど前からだろう。

 店に入れば睨め付けられる、物乞いの風体をした彼にとって露店は何処より行きやすい店だ。
 その中でもこの店にある少年の笑顔は別だった。


 「はい、しぼりたての牛乳と莓のジュースです。どうぞ」


 少年がこの店を任されて間もない頃、最初に店にきて注文をし、不慣れな彼にも文句を言わず接してくれたのが男だったらしい。
 それから少年は男に恩義でも感じたのか、男を見るなり笑顔になり、あれこれ話しかけてくるようになった。

 露店でさえ、男の姿を見かければ金は払うのかどうなのか。
 訝しげに睨め付ける事が多いという中、少年が向ける笑顔は異質であったが何故か心地よかったから、男は小銭を得るとその足を、自然に彼の店へと向けるようになっていたのだ。


 「え。今日はよく笑うなぁって? あはは、実はね。今日、こんな事があったんですよ!」


 少年はどうやら、別の街より勉強の為、この土地にやってきたのだという。

 露店を手伝っているのは、学業の資金にする為。
 学問を志すようになったのは、自分の街で小さな遺跡が見つかった時、その才覚を彼の今の師匠に見いだされたからだそうだ。


 「そう、お師匠様! 今日はお師匠様にですね……」


 彼はどんな話をする時でも大概笑顔だったが、とりわけ自分の師匠の話をする時の笑顔は輝いていた。
 彼の師匠は 「上位古代言語の解読と術式の解における理論」 とかいう分野を専門に扱っているらしい。

 上位古代言語。
 その言葉は、魔物と恐れられ人の教養は殆ど持たぬ男も幾度か聞いていた。

 あれは数十年前。
 まだ男がこの土地を自らの大地として、当然のように駆けていた頃。

 脆弱であったはずの人間が武器を用いて彼らを追い出した時、最も驚異となった魔法と呼ばれる所作……。
 それらを操る為に用いられる言語がその、上位古代言語、というものだった。

 人の群の中で、特に強靱な身体も持たなければ鋭い剣も持たない、魔術師と呼ばれる最も脆弱な人間が杖を用い詠唱だけで蛮族の勇士を倒した時には、血肉を鍛える事もない相手が何故にこんなにも強いのかと疑念をもったものだが、今少年の言葉を聞いていれば、魔術師たちが決してただ脆弱なだけの存在ではないという事が理解出来る。

 彼らは膨大な理論の中から正しい公式を組み、編み込み、複雑な儀式を得る事によってあれだけの魔術を操るのだと知ったからだ。


 「お師匠様は、最近。ボクの故郷の村で見つけた古文書を紐解いているんですよ! ひょっとしたら新しい魔法が見つかるかもしれないって……」


 笑顔で語る少年の言葉に、弛まぬ努力の痕跡が伺えた。

 数十年前、自分たちスプリガンの一族は、自らの爪や牙、生まれ持った変身能力に慢心し人を脆弱だと決めつけていた。
 人の群れなど、本気を出せば潰すのが容易いとも、だ。

 だが自分たちが力に胡座をかいて安穏としていた頃、人間たちはこうして、魔物を倒す術を研究していたのだ。 

 我々が追われた理由も解る。
 ふと、深刻な表情になる男の横顔を見て、少年もまた不意に深刻そうな表情になっていった。


 「でも……もうお師匠様の研究は理解されないみたいで……」


 少年はいつになく悲しそうだった。


 「上位言語魔法は、もう過去の産物……以前、蛮族が闊歩する頃であれば研究する価値も充分にあったが、今はもうその価値もない……今現状、ある研究で充分 な成果があるのだから、縮小の必要があるだろうって。お師匠様の研究、今よりもっと小さい規模になるんだろうって。そしたら……」


 ボクなんてもう、必要ないでしょうね。
 少年は悲しそうに笑った。

 …………この街に、同種を見る事が無くなってから一体どれくらいたつだろう。

 10年。
 あるいは20年。

 もっとかもしれない。
 それだけの年月は、人にとってはもう、遠い過去の話しなのだろう。


 「確かに上位古代言語は多く、爪や牙を持つ魔物たちの殲滅に向けた兵器としての価値が強いですから……」


 魔物の気配がない今、必要ないものに経費を使う余裕はないのだろうと、少年は笑った。
 その笑顔があまりに力無く、そして悲しそうだったのが、男の胸には強く残っていた。




 少年と出店で語ったその帰り道、懐かしい言葉で呼び止められ振り返れば、見知らぬ男の姿があった。


 「旦那、旦那ァ……旦那。アタシと同種でしょう。ねェ、旦那」


 男は小柄な外見とは裏腹に、低くくぐもった声で話した。
 ボロいコートと穴の空いた靴から、自分と似たような生活をしているには違いない。

 男の使う言語は自分がかつてつかっていた蛮族の言葉であり、またもう二度と使わないと思っていた種族の言語だった。


 「ちょっとネ。話したい事があるんですがネ」


 男は自分と同種だが、自分より随分若いようだった。
 滾る闘志が肌に感じられる。

 男の話は回りくどい言い方や、少々の嫉妬や侮蔑の言葉が多く含みつつ早口で語りだした。


 「最近、クソ忌々しい毒虫みてェに人間どもが繁殖してますが、この街は元来アタシたちのモノだ……」


 男の脳裏にもまだ、石で組み上げた集落で狩猟を生業にし生きていた記憶が残っていた。


 「昔はネ。そりゃ、騎士やら魔術師がアタシたちを追いやって……さしものアタシたちも、遺跡の奥まった所に逃げなきゃなりませんでしたけどね。人間なんてェ、喉元過ぎれば熱さ忘れるってばかり、たった30年安息を与えたら、もう衛兵は賄賂漬けの腰抜けばかりでさァ」


 この街が政治に恵まれず、賄賂の多い少ないで罪の重さが決まるというのは男も聞いていた。
 自分が追い立てられた時に比べ、人間たちの闘争心が薄らいでいる事も、漠然とながら勘付いてはいた。


 「だからねェ、旦那。今こそまたアタシらが人間に一矢報いる時でしょう。ねぇ……忌々しい人間どもを、みぃんなすりつぶしてやりましょう。ねぇ、アタシらの本能だから……」


 同種がいくら残っているかは解らない。
 だが、今この街に戦を経験している人間は多くないだろう。

 男が言う事も強ち、不可能な妄想でもない風に思えた。
 だが。


 「旦那。ねぇ旦那……そういえばあの出店にいたガキとかね、きっと美味ェですよ。やっぱガキのが美味ぇですから……」


 男はもう少し話しする予定だったようだが、最後までそれを語る事はなかった。
 全てを語るその前に、そいつを、殺してしまったからだ。

 血の滴る指先を拭いながら男は漠然と思っていた。

 もうスプリガンという種族に人、その繁栄を止める程の反乱を起こす程の生命力が残されていないという事を。
 そして何より……。


 『いらっしゃい。お待ちしておりましたよ!』


 男はこの土地を追われ多くの仲間を失った。
 これ以上、誰かを失いたくはなかった。




 翌朝、自分が殺した男の死体が、自分が予想していた以上の事件になったのは死体が見つかるのが思ったより早かったのもあっただろうが、男の死体が巨人のそれであったという事も大きかった。

 スプリガンは死ぬと本来の姿に戻る。
 小男に変化していた男も、死んだ今本来の巨人の姿に戻っていた。

 この街で巨人が現れるのは(死体とはいえ)数十年ぶりといった所だろう。
 色めきたつのも無理はない。

 だがそれでも死体だった為か、街はさほど変わる様子もなく男の日々もまた普通に終わった。
 そして、いつものように小銭を鳴らしいつもの露店へやってくる。


 「あ……いらっしゃい!」


 変わらぬ少年の笑顔がまた、そこにあった。


 「今日はほら。事件があったっていうでしょう。川ぞいで巨人の……だから怖がっちゃってお客さんが来ないんですよねぇ」


 慣れた様子でドリンクを絞り、それを出しながら少年は言う。


 「皆はオーガ(食人鬼)が出たと騒いでいたんですけど。ボクの見立てだと、あれはスプリガンという種族ですよ……人に化ける能力を持つ、巨人族の亜種です。元々は遺跡を守る為に生まれたとも作られたとも言われているんですが」


 少年は魔術だけでなく、魔物に対しても博学らしい。
 最もそのスプリガンが目の前に居るとは思ってもいないのだろうが。


 「オーガでもスプリガンでも、死体であればもう何もしません。けれど……問題は、誰が彼を殺したか。ですよね。一撃で屠っていたと言いますから、よほど名 うての冒険者で名誉欲がない人か、あるいは……同種のスプリガンが一撃で屠ったか。ボクは、後者の方が可能性が高いと思うんですけどね」


 スプリガンを倒したなんていったら、名誉が看板の冒険者たちだ。
 黙っているはずないですから。

 少年の言葉を無言のまま聞いている。


 「なんて、スプリガンがまだこの街に居るなんて考えの方が飛躍しすぎですよね。だいたい、アイツらが同種を殺す理由なんてのもないし」


 そうだな。だったか。
 男は素っ気ない相づちを打つ。

 実際、殺した後も男は何故、あいつを殺そうと思ったのか。その明確な理由が解らなかったからだ。


 「でも……おかげで。っていったら悪いんですけど。巨人の死体が出た関係で、やっぱり上位古代言語魔法は必要だろうって訴えが出るようになったんですって。魔法の力は一定量必要だって……オーガに限らず、魔法の力は街を守るのに必要だろうって」


 少年はまた、嬉しそうに笑う。
 ひとまず、自分がお役ご免になるのが防げたのが嬉しいのだろう。


 「でも、こんなのきっと一時凌ぎですよ……ちゃんと魔術の研究が必要だってわかってもらわないと。最も、この街にはもう30年以上も魔物の出現はないですから、平和になれてしまってその必要性ももう解らないのだと思いますけれども……」


 30年……。
 少年が生まれるよりずっと以前から、この街に同種が近づく事もなかったのだろう。


 「最後にこの街に現れた魔物はスプリガンで……銀のあぎとのメルキオルと呼ばれていたそうです。最も彼もまた部族を離れ今は、遺跡に追われたとも。勇士に倒されたとも言われてますが……」


 その時、少年の唇から懐かしい名が漏れた。

 銀のあぎとのメルキオル。
 それはまだ人と対等に渡り合おうと爪と牙とを存分に奮っていた頃、人間に名付けられた彼の名だ。

 本当の名とは全く違う為、その名を呼び自分を追い立てる人間には幾度か首を傾げた事がある。
 それが自分の名であると知った時、人というのは魔物から居場所だけでなく名前さえ奪うのだなと妙な思いを抱いたものだ……。


 「あ、笑った!」


 自然に笑顔になっていたのだろう。
 こちらの顔を指さしながら、少年は楽しそうにいった。


 「そうやって笑っているの、初めてじゃないですか?」


 少年に指摘され、そうだったかと振り返る。
 彼との話はいつだって苦痛ではなかったから、もっと笑っていたと思ったが……元より、笑うという感覚に乏しい自分だ、ひょっとしたらそうだったかもしれない。


 「いつも仏頂面だから、ボクの話がつまんないかなぁって思ってたんですよ」


 そんな事はないのだが……そんな事は。


 「……いつも来てくれるけど、何も話してくれないし。だから、ボクの事とか嫌いなのかなぁとか、結構真剣に悩んでたんですよ」


 そんな事はない。
 そうであったら、もう来てないのだが。


 「……何て。何言ってんだろうね、ぼく」


 その日、男は店が終わるまでその場に居た。
 
 巨人が倒れて間もない事件があったばかり。
 もう閉店まで間もないのだから、家まで送ろうと思ったからだ。


 「そんなに心配しなくても大丈夫ですよー」


 少年はそう言うが、嬉しそうに笑っていた。


 「あ、ボクの家。こっちです!」


 そう言いながら小さな指で彼の手を引く。
 血肉の通った彼の手は、仮初めの肉体でいる彼からすれば融ける程に暖かい。


 「折角だから、お茶でも飲んでいってくださいよ。何もない部屋ですけど……」


 半ば強引に引き留められ入った部屋は、魔術師の弟子らしい。
 ルーン文字に刻まれた本やら魔法に使うらしい物品やらの中、日用品が積み上げられている。

 あまり片づけは得意な方ではないらしい。
 床には鞄から零したであろう、ガラス玉が散らばっていた。


 「コート脱いだら、その辺に置いて置いてください。今、紅茶を煎れますから」


 程なくして暖かな紅茶が注がれた。
 日が落ちれば肌寒い時期だ、暖かな紅茶が有り難い。


 「前から気になっていたんですけど……」


 コートを脱ぎ肌が露わになる自分の、その肌に触れながら少年は聞いた。


 「貴方の身体に刻まれているの、痣に見えてたんですけど……これ、古代言語ですよね? 入れ墨……ですか? ひょっとして、魔導師?」


 スプリガンは……生まれた時から身体にこの痣がある。
 この痣の配置でスプリガンが変身出来る姿が決まるのだ。

 スプリガンは万能に変身が出来る種族ではない。
 生まれもった痣の配置で、変身出来る姿がある程度決まっている種族であり、変身している間でもその痣が消える事はない。

 反面、その痣がもって生まれた能力である為、人のようにマナを消費する必要がない。
 留まっていようと思えば永遠に人の姿で生きる事も出来る種族である。

 ただ、生まれつきの痣だといっても信じるわけもないだろう。
 男は昔、ゲン担ぎにいいと唆されてほった刺青だと言って誤魔化した。


 「ふーん。そうなんですか、それじゃぁ……」


 何処で生まれたのか。
 普段は何をしているのか。
 どうして店に来るのか。
 何が好きなのか、嫌いなのか……。

 少年は矢継ぎ早にそんな質問をする。
 不愉快ではないが、普段はしない質問ばかりだ。

 何でそんな事ばかり聞くのだ、何で。
 当然の疑問に少年は、初めて見るような照れた表情を向けた。


 「だって。だってボク。ボク……」


 少年は男の手をとり、自分の胸に触れさせる。


 「ボクは貴方を見ていると胸がこんなになるのに、ボクは貴方の事何も知らないから。何も……」


 長く人間の中に居た男は、少年の行動。
 その意味を理解出来ない程に、鈍感でもなければ知恵の巡りが悪い訳でもなかった。

 だからその日、傍で彼を感じるようになったのも、自然の流れだったのだろう。


 「なまえ、教えてくれませんか? 貴方の名前」


 腕の中で、少年が問いかける。


 「ボク、まだ貴方の名前だって知らないから……」


 銀のあぎとのメルキオル。

 そう呼ばれて長い年月がたっていたが、本当の名を教えるのは何時以来だろうな。
 そんな事を思いながら、彼は自らの名を告げた。




 見知らぬ同種が言っていた事。
 自分の故郷を取り返す為に反旗を翻すという言葉は、今の人間の繁栄を見れば妄言にすぎないだろう。

 仮に反乱が成功したとしても、怨みに狩られた人間は必ず復讐し自分たちを淘汰する。
 人間は脆弱だが、繁殖力と立ち回りは非常に長けた一族だった。

 だが男が思っている以上に、故郷の奪還を夢見る同種も多いようだった。
 かつての故郷を取り戻したいと思うのは、人も我らも一緒なのだろうか。

 人間には気づき憎い僅かな痕跡だが、同種である彼には解る。
 スプリガンが集まり、人間たちに一矢報いようとしているらしい……。

 警戒している状態であれば、人間たちの事だ。
 迎撃すれば少ない血で鎮圧出来るのだろう。

 しかし今は、戦がおきるには平和すぎた。
 今、何かがおこれば血が流れすぎるのだろう。我々も、人も…………。


 「どうしたの、ねぇ?」


 何時も通り、露店でヒマを潰す男の顔を、少年は心配そうにのぞき込んだ。

 何でもないんだ、何でもと。
 そう語りながら男は、珍しく彼から少年に触れた。


 「あっ。ななな、何ですかぁ、もう……別に、いいですけどね」


 少年は幸福そうに笑っていた。
 これからも彼は幸福そうに笑うのだろう。

 これからも。
 そう、これからも。

 彼の生命はたかだが50年程度かもしれないが、それでも。
 永遠に虚ろなまま偽って生かされるのならば、彼の為に生きるのもいい。

 覚悟は決まっていた。




 銀のあぎとのメルキオルが現れた。
 そう言い出したのは衛兵より先に、詩人という商売を生業としたものだったろう。

 燃えるような赤毛と金に輝く目。
 黒檀のような肌に人の倍を超える体躯はまさに化け物と呼ぶに相応しい。


 「魔物だ、魔物だぁ!」


 向かってくる兵は殆どなかった事が、この街が長く平和に慣れていた事を物語っていた。
 時たま向かってくる兵も、決して強くはない。

 僅かに腕を振るえばそれだけで倒れ、再び向かってくる事はない。

 またこちらの傷も、元より暗黒神に(暗黒神、という呼び名もまた人が彼らの神を貶めて呼んだだけの呼称ではあるが)加護を受けたスプリガンは、自然に治癒する恩恵がある。

 傷は見る見るうちになおり、力は牛馬を凌ぐ程もある巨人。
 向かってくるモノもそうは居ないだろう。

 実際、衛兵と呼ばれるものはあらかた逃げ出し、今彼の前に向かってくるのは一部の、己の腕に自信がある冒険者たちだけになっていた。

 だがそれさえも今、力の前に屈しようとしている。

 無理もない。
 この街は冒険者が名をたてる程に魅力的な遺跡もなければ、冒険者を必要とする仕事もないのだから。

 己の牙を光らせて、殺さぬように力を振るう。
 本気であれば殺すのは容易いが、そうしないように繊細に、少し暴れるだけで平和に慣れた街は充分、混乱に陥った。

 正規兵がいないこの街で、彼の。
 今では伝説になりつつある「銀のあぎとのメルキオル」を止める事が出来る能力があるモノは居ないのだろう……ただ一人を除いては。

 激しい爆音とともに、背中に衝撃が走る。
 どうやらその「ただ一人」が現れたようだ。


 「話に聞いた時は何の冗談かと思ったが……まさか本物だとはな、銀のあぎとのメルキオル」


 振り返ればそこに見知った男が立っていた。

 少年の師匠。
 名は「緋色の鷹 エイリッヒ」だったか…………。

 彼らスプリガンの中でも名の知られた人間の魔術師だ。
 少年より「遺跡に入るのも好きな上位魔法を会得した、元冒険者の男が師匠だ」と聞かされた時からおそらく、エイリッヒの事だろうと思っていたが、やはりそうだったか。


 「エイリッヒ。ヒヨコ豆のエイリッヒか?」


 肩を奮わせて笑う。
 使う言葉は蛮族のそれだ、が。


 「いかにも……久しぶりだな銀のあぎとのメルキオル。随分と人間の言葉が流暢になったようだが、人に潜んで生活していたのか?」


 長い生活でいつの間にか、かつての言葉も億劫になっていたのだろう。
 ただ一言で自分の生活を見破られたのは少々屈辱的ではあるが、そう感じたのも一瞬だった。


 「さて、どうかな。今日の俺は飢えている……かつてのように優しくはないぞ?」


 腕を振るう。
 傷は彼らの神がその加護で癒していた。

 かつてのエイリッヒであれば拳が届く前にこちらを射抜く事など雑作もない事だろう。
 だが、かつて英雄を目指した若き勇者はもう老いていた。

 打ち抜かれる前に彼の拳は、エイリッヒの胸を捉える。
 手加減したとはいえ、元より軽装の魔術師にとって巨人の腕は堪えたのだろう。

 紙箱のように軽く吹き飛ぶと、そのまま壁に打ち据えられる。

 死んではいないだろうな。
 少年の敬愛する師を手にかけるのは避けたいのだが。

 僅かに不安にはなるが、指先が僅かに動いたのを確認すると男は安堵の吐息をもらす。


 「その程度かエイリッヒ? 安息はお前たち人間を、随分と弱くしたものだな?」


 やや芝居がかった笑みを浮かべながら、地に伏す男を見下ろす。
 まだ詠唱を続けられるのなら、エイリッヒであればこちらを殺すのなど容易い魔法を使えるだろう。

 ただまだ本気になれないか。
 それとも全盛期の魔力はもうないのか……。

 あれこれ思慮を廻らす男の身体に、緩やかな衝撃が走ったのはその時だった。


 「やめろ化け物! お師匠様から離れろ!」


 聞き覚えのある、声だった。
 そうだ、師匠が来たのなら彼がこない理由はないだろう。

 辿々しく唱えられた詠唱は、さして難しい魔法ではないが、それなりの威力がある。


 「来たか…………」


 彼に手をあげる訳にはいかないが、刃向かうならそれなりに恐れさせる必要はある。

 そう。
 彼は今ただの化け物なのだから。


 「お師匠様、待っていてください。今、衛生兵が来ますから……」


 辿々しく新たな詠唱を始める少年のそれはまだ未熟だが才知が感じられる。
 彼が師匠に見いだされ、田舎から連れ出された理由もわかるというものだ。

 いずれは立派な学者か、あるいは導師になるに違いない。

 男は無意識に笑っていた。
 先にある笑顔をただ想像するだけで彼は嬉しかった。

 その瞬間。


 「…………グリムジャン?」


 少年は、その名を呼んだ。
 銀のあぎとのメルキオルではない、彼の本当の名であった。

 変身を解いた彼は今ただの薄汚れた化け物でしかないはずだ。だが……。

 解ってしまったか。
 そう。

 変身しても身体の痣はかえられない。
 生まれつきのものだから。

 変身してもこの目はかえられない。

 もし少年が本当にただ、自分の本質を見ていたのなら………もしかしたらわかってしまうかもしれない。
 そう思っていたが…………。

 やはりわかってしまったんだな。

 男はただ悲しげに笑うと、無意識に手を差し出していた。
 怯え震えて恐れる彼に何か、言葉をかけてやりたかったから。

 だが指先は届く事はなく、鈍い痛みが彼を捉える。

 感覚がなくなる程の痛み。
 かつてはヒヨコ豆と嘲笑され、今は英雄に名を連ねる程卓越した魔力を持つ男、緋色の鷹が弟子を守る為に本気で放った魔術であれば自分をただの一撃で分断する事など雑作もない事だろう。

 そうは思っていたが……本当にこうも鮮やかにやってのけるとは、な。


 「流石だなぁ、エイリッヒ」


 言葉が最後まで紡がれる事はなかった。
 ただその傍らに少年は跪き涙で大地を濡らす。


 「何でなんだよ、グリムジャン。どうして。まだ、僕は君と話す事があるんだ、だから……」


 大地に咲いた血の花が、少年の涙で濡れる。
 だがそれに、言葉が返される事はとうとう無かった。




 突然現れた巨人・スプリガン。
 事態を重くみた街は、国から正規兵による警備を依頼。

 蛮族の襲来をさらに警戒し、街の治安は向上する。

 その治安を守る最前線に立ち、街の平和に尽力をした男の名は今では英雄の名として刻まれている。
 彼の名はエルヴェ・ディドロ。

 通り名は銀のあぎとのエルヴェ。
 何故彼がその二つ名を名乗っているのか語られてはいない。


 だが、彼がスプリガンとの共存、その方法を模索し続けた事。
 そして、蛮族との同盟を成功させ、エルトシアに長い平和の時代をもたらしたという事は、語っても良いのだろう。






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