>> それから
引っ越してから一ヶ月が過ぎようとしていた。
七瀬は喫茶店・イクィリブリアム……。
知人が経営する喫茶店にて、住み込みで働くようになり、椎名もまたかつて学んだ大学で再び学問を志すようになっていた。
桜舞い散る時期も過ぎ、つい最近までピンクの花びらをつけていた木々も眩しい深緑の葉を茂らすようになる頃。
その日も七瀬は、朝からイクィリブリアムの掃除に追われていた。
「よいしょ、よいしょ……っと、看板はこの辺でいいかな?」
ホウキで出入り口を丁重に掃き、大きめの窓ガラスを綺麗に拭いて。
道行く人に「いってらっしゃいませ!」と笑顔で挨拶をする姿は、たった一ヶ月でこの街の名物になりつつある。
「澪ちゃん、今日も頑張ってるね……また、お昼寄るからね!」
スーツに身を包んだ青年が、今日も出入り口の掃除に勤しむ七瀬に声をかけていく。
この近くに職場があるらしく、最近昼ともなればカツカレーを食べに喫茶店へと来てくれる常連客の一人だ。
最近まで、昼は他の店で食べていたのだが、七瀬が店に出ている日は殆ど毎回来てくれている。
七瀬が呼び込んだお客様の一人である。
「うん、真田さんありがとう! ……今日も、美味しいごはんを準備してまってますからね!」
名前は、真田晴征。年齢は、23歳……。
去年、上京してきた社会人二年目で、今は営業をしているらしい。
七瀬は、お店に来るお客様の話してくれる事はよく覚えていた。
七瀬に声をかけられた真田は、上機嫌といった様子で手を振ると、早足で雑踏の中へと消えた。
そんな真田が行った後、七瀬の背後からゆらりと、一つの影が姿を現した。
「あ……淳兄ぃ!」
椎名は社会人時代のスーツと比べれば幾分かカジュアルな服装で七瀬の隣に立つ。
着ている服は、七瀬と暮らしていた頃、彼が選んだモノだ。
大学に行く前。
七瀬の勤める店に寄るのは、椎名の日課になっていた。
「……今日は、開いてるか?」
喫茶店の営業は10時からになっている。
だが、椎名は特別応対だ。
「何言ってるんだよ、淳兄ぃはVIPだもん! 何時だって、特別優待席にご案内させていただきまーす、だよ!」
七瀬は顔一杯に笑顔になると、椎名の手を引き喫茶店の扉を開けた。
カラン、カラン、カラン……。
お客さんが入ると鳴り響く軽快な鐘の音が、客の到来を報せる。
「ん。まだ、開店時間じゃなんだけどねぇ……」
カウンターでコップを並べていた神崎高志……この店のオーナーは、まだ店が始まっていない事を告げるが、現れた顔を見てすぐに何も言わなくなる。
引っ越してから間もなく。
店で働く七瀬の事を心配し、朝から喫茶店に並ぶようになった椎名の姿を見かねたオーナーが、旧友の縁という事で早めの入店を許すようになったのだ。
「淳兄ぃ、今日はブレンドコーヒーでいい?」
「あぁ」
「すぐ作ってくるから、待っててね!」
七瀬はご機嫌な笑みを浮かべながら、キッチンへと入っていく。
彼に変わってオーナーの神崎が……椎名にとっては、高校時代の先輩にあたる男が、水とおしぼりを差し出した。
「毎日、毎日よく通うねぇ……通い妻、ならぬ通い夫って所かねぇ?」
「うるさい、いいだろ、客なんだから」
「お客様だけど、この時間に入れるのは特例だよ?」
「それは……分かってる。感謝してるぞ、神崎」
「せんぱい、が抜けてるけど?」
「……神崎先輩」
二人のやりとりの間を縫うように、七瀬がそこで乱入してくる。
「はーい、できあがりました! ブレンドコーヒーと、ミックスサンドになりまーす」
トレイの上には、湯気をたてたコーヒーと色とりどりのサンドウィッチが並べられていた。
置かれたコーヒーからは、香ばしいかおりが漂っている。
働き始めた当初は、あまりコーヒーを煎れた経験のない七瀬はそのドリップの仕方に苦戦していたようだった。
だが最近は、すっかり腕をあげ、椎名は毎日うまいコーヒーで一日を始める事が出来るようになっていた。
「いつも済まないな、代金は……」
「代金はいいよ! おれ、練習で作ってるコーヒーだし。メニューも、練習のやつだから……」
七瀬の言葉に重ねるよう、神崎も頷いて見せる。
「……うん、ホント、代金はいいよ? コーヒー豆も、そのサンドウィッチもみぃの……七瀬の私物だし。学生さんのオマエが、毎日喫茶店に通う飲食代を捻出するのも大変だろうからねェ」
後輩のよしみという事だろうが、今は神崎の善意が有り難い。
再度「学生」を始めた椎名は、社会人時代の貯金があるとはいえ、仕送りが多いワケでもなく決して裕福な状態ではなかったからだ。
「ありがとうな。澪……それと、神崎も、じゃぁ……」
いただきます。
両手を揃え挨拶をし、朝食を楽しむ椎名を、七瀬はその向かいで嬉しそうに眺めていた。
「……何だ澪、俺の顔に何かついているか?」
「うん! 目と鼻と口がついてる!」
「……珍しいか?」
「珍しくない! けど……俺のご飯、美味しそうに食べてくれるのが嬉しい!」
七瀬は元々、料理がうまかった。
喫茶店で、仕事として料理を作るようになってから、その腕はさらにあがっている気がする。
「それは、オマエの料理は美味いからな」
「でしょ! 今作ってるメニューも、新作にして、この店のメニューに追加しようか。って、今アニキと……神崎のオーナーと、相談している所なんだ!」
無邪気に笑う七瀬の言葉に、遠目で見ている神崎も笑う。
「そうさね、そのサンドウィッチなんてなかなかのモンだからねぇ……ウチも開店ちょっと早めて、モーニングをやるのもいいかもしれないよね?」
モーニング。
その言葉で、椎名は朝見た光景を思い出していた。
誰とも知らぬ男を相手に、七瀬が笑顔で話しかけている姿だ。
確か、真田とかいう男だったか……。
「そういえば、澪……アイツは、誰だ」
「えっ? アイツって…………誰の事?」
「今朝、俺と会う前に話していたあの男の事だ……随分、仲がよさそうだったが」
「今朝って……あぁ、真田さんの事かな? 真田さんは、このお店の常連だよ! よく、昼ごはんにカツカレーを頼んで行くんだ。営業の人で、外回りするついでにうちの店に寄ってくれるんだって!」
七瀬は嬉々としてそう語るが、七瀬が楽しそうに語れば語るほど、椎名は不機嫌になっていく自分に気付く。
自分以外の男を前にして、こんな嬉しそうに笑うのか。
こんな風に……。
「あれ、もしかしてジュンペイ君……嫉妬してるのかねェ?」
不機嫌そうにコーヒーをすする姿を見て、神崎は茶化すように笑った。
「別に、嫉妬など……!」
「あ、怒った……あはは、そういう態度で分かるよ、ジュンペイ君。みぃが、他の男と話すだけで不機嫌になっちゃうんだねぇ」
「ちがっ、俺は……」
「おお、怖い怖い。嫉妬に狩られる男ってのは、みっともないよ?」
含み笑いをしながら椎名をからかう神崎を横目に、七瀬はキョトンとした顔を椎名へと向けていた。
「淳兄ぃ……嫉妬してんの、俺に?」
「ちがっ、嫉妬では……俺は、ただ、その、何だ……オマエに、あんまり他のヤツと絡んで欲しくないだけで……オマエに、何かあったら心配でなっ……」
「あはっ……真田さんは、ただのいいお客さんだよっ。もう、淳兄ぃは心配症だな……」
「心配っ……そう、言うがな……」
七瀬は一度、自分の心を壊されている。
だからこそ心配なのだ。また誰かに壊されはしないか。暴力的に扱われはしないか。
だが。
「心配しなくても大丈夫だよ! お客さんも、オーナーも、みんな優しい人だし。一緒に働いてる人も親切にしてくれるから、俺……もっともっと頑張れるから!」
眩しい笑顔が、椎名の心配が取り越し苦労なのだという事を知らしめる。
今、眼前にある笑顔は力強く、そして幸福そうだった。
「それに、それに……ね」
と、そこで七瀬は椎名の隣まで移動すると、耳元で囁く。
「それに……おれ、淳兄いだけだよ。お客さんがくれる幸せと、淳兄ぃがくれる幸せ違うからっ……あったかくて、優しくて、気持ちよくしてくれるの、淳兄ぃだけだから、安心してね」
これ、本当だっていう証拠。
七瀬は小声でそう囁くと、人目に付かぬよう唇を重ねる。
ほんの僅かな時間に行われた、隠れるようなキス。
だが、椎名の不安を払拭するには充分なキスだったから。
「そうか、なら……いいんだ」
コーヒーカップは空になり、出されたサンドウィッチの皿も綺麗に平らげられる。
好き嫌いの多い椎名だったが、七瀬の料理が上手くなってきているからか、嫌いなものも多少は食べられるようになってきた。
「それじゃぁ、淳兄ぃ! 大学、いってらっしゃい!」
「あぁ……澪も、仕事頑張れよ。だが、あまり無理はするな……」
いつも通りの挨拶を交わし、二人の朝は穏やかに始まる。
暖かな日差しが初夏のモノへと代わりはじめた頃。
新たな門出をはじめた二人の道も、明るく照らされているようだった。