>> 日溜まりの中で
引っ越しのダンボールが堆く積まれている。
整理した家具も多いから、部屋は随分と広く見える。
今日の為、兄が車を出してくれた。
引っ越し先までは1時間程度の距離になるだろうか。
車の中では一緒にいれる。
だが、車から降りたら別々の道を歩む事になるのだ。
ベッドも、テレビも、テーブルも……。
全て片づけられた部屋の中央で、椎名は一度寝ころんで天井を見た。
寝室の天井だ。
見慣れているはずだが、モノが無くなった為だろうか、いつもより寒々しい光景に思える。
『淳兄ぃ、雷がなってるよ! 怖いから、一緒に寝てよぉ……』
大きなネコのぬいぐるみを抱きしめながら、涙声で縋る七瀬の記憶はまだ鮮明に残っている。
台風、雷、ゴキブリ……。
子供が恐がりそうなものなら殆ど怖がる七瀬が涙声になりながら一緒に寝るようせがんだ日は、一度や二度じゃなかっただろう。
起きあがり、リビングへと向かえばテレビのあった場所はすでに何もない。
『淳兄ぃ、今日こそ俺あのボスやっつけてやるから! 見ててねっ!』
ゲームをやる時は、いつも自分に見てもらわなければ気が済まない性分だった。
見たいサッカーの試合がある時も、ゲームをやりたがり困らせた事もある。
『……おれ、淳兄ぃと離れて暮らそうと思うんだ』
七瀬にそう告げられたのは、つい先日の事だった。
別に、お互い嫌いになったワケではない。
ただ、七瀬が……。
七瀬が、自分の力を試してみたいと。椎名に守られて生活する自分から抜け出したいと。
椎名から守られる立場から、椎名と同じ方向を向き共に歩んで生きていきたいと……。
そんな気持ちから考え抜いて出した一つの結論だった。
正直、寂しくないと言えば嘘になる。
だが、身体が傍になくても共に前を向いて進んでいけるのなら。並んで歩く事が出来るのなら、離れるのも悪くないと思えていた。
そう、今は背中を押す時なのだ。
七瀬を本当に、信頼し……愛しているのなら。
「ねぇ、淳兄ぃ。捨てるものがあったら、この袋にいれてね!」
部屋の片づけは殆ど七瀬がしていた。
荷造りもあらかた終わり、あとは僅かなゴミを残すだけになる。
「あぁ、わかった」
椎名は、一部屋ずつまわりながら捨てるゴミはないか確認を開始した。
とはいえ、すでに七瀬が片づけた部屋だ。
片づけ上手の七瀬が整理した後の部屋には、僅かなゴミしか残っていない。
「もう、あらかた片づいているみたいだな……」
そう呟き洗面所へ入った時、まだ捨てられていない二本の歯ブラシが置いてある事に気付いた。
引っ越し先にまで、古い歯ブラシを使う必要はないだろう。
そう思って捨てようと思ったのだが、歯ブラシはまるで離れるのが名残惜しいように二本、絡まるように重なっている。
「…………澪」
こうして寄り添う事も、暫くは出来ないのだろう。
少なくても、この部屋では、二度とする事はないのだろう……。
「淳兄ぃ、哲馬兄ちゃん、あと30分くらいしたら来れるって!」
ドアの向こうで、七瀬の声が聞こえる。
いよいよこの部屋で、二人過ごす時間も限られてきた。
「あぁ……ふん、俺がこんな感傷にひたるなんて。らしくないよな……」
椎名はそんな気持ちを誤魔化すかのように、歯ブラシをゴミ袋へと放り捨てた。
部屋に戻れば、もうすっかり空っぽになったリビングが椎名を迎える。
何もないからか、今までと違う部屋に見える。
だが、窓からの景色はいつもと同じ。
七瀬と並んでみた風景とさほど変わらない。
椎名は部屋の中央に座ると、ぼんやりと外の景色を眺めた。
この風景とどれだけ過ごしていたのだろう。
この風景がいつまで続くと信じていたのだが、隣にいた心は知らない間に大きく育ち、自分に作っていた殻さえ破る力をつけていたのだ。
喜ぶべき事なのだろう。
悲しむべき事ではない。
だが、不安も残る。
この育った心はいつしか、自分を置いていってしまうのではないか。
ここでの出来事も過去にして、全て忘れてしまうのではないか……。
「淳兄ぃ」
気付いた時、隣に小さな身体が寄り添っていた。
膝を折り小さく座る姿は、小柄な七瀬をより小さく見せる。
「何だ、澪……来てたのか」
「うん、淳兄ぃぼーっと空見てるんだもん」
二人は並んで空を見た。
ちぎれ雲が風に舞い、早く流れていた。
「……淳兄ぃと一緒にこの景色見るのも、もう最後だね」
七瀬の言葉には、期待と悲しみに包まれている。
椎名が七瀬と離れてくらす事に不安を抱いている以上に、七瀬の不安は大きいのだろう。
「あぁ……」
何と声をかけていいのだろうか。
気の利いた言葉も浮かばず無言になる椎名の隣で、七瀬は穏やかな笑顔を見せた。
「でも、これからも一緒に、色々な景色を見ていこう。ね、淳兄ぃ」
「澪……」
「空とか、海とか、山とか、町とか……ココだけじゃない色々な所をさ。俺、淳兄ぃと色々なモノを見ていきたい。おれ……淳兄ぃと、ずっとずっと一緒に居るからね」
幸福そうな笑顔が隣でゆれる。
この笑顔はいま、自分だけのものだ。
そして恐らくこれからも、自分の傍らにあるのだろう。
「あぁ、そうだな…………」
ずっと、ずっと、一緒に居よう。
離れていても、ずっと。
そんな思いを抱いていたが、言葉にするのが照れくさく、椎名は黙って唇を重ねる。
「んぅ……っ、ぁ……淳兄ぃ……」
甘い吐息が漏れ、思いが重なる。
暫し幸福な時に浸る二人の時間は、インターフォンが終わりを告げた。
「おーい、マイブラザー&マイカズン! 哲馬お兄さんがー、お前らの引っ越しを手伝いにきーてやったぞーっと!」
この車に乗ったら本当に最後だ。
降りる場所は別々……これからは、別の場所でそれぞれ離れた生活をする。
寂しさはある。
だが、不思議と悲しい気持ちはない。
何故なら……。
「さぁ、行こう澪」
「……うん、淳兄ぃ!」
自然と指先を絡めて、二人は並んで歩き出す。
そう、二人は同じ前を向き、互い支えて歩いていける。
居場所が離れていても、互いいつでもその心が傍らにあり続けるのだから、もう何も怖くはない。
歩みを始めた二人の背を、暖かな日差しが包み込んでいた。