>> 別れの序曲




 その日は朝から肌寒く、絶え間ない雨が降り注いでいた。
 頬に打ち付ける雨は、椎名の体温を容赦なく奪う。

 だが、凍える寒さに身体が冷え行くのとは裏腹に、彼の心はどんどん熱く火照っていた。

 身体が冷えれば冷える程に高ぶる気持ちが抑えられなくなる。
 家に戻ったらすぐにでもこの手で七瀬の、あの細く柔らかい身体を抱きしめてやりたいと思う。

 冷たい身体を七瀬のあの、艶やかな肢体で。あの甘い声で、吐息で。
 小さな身体全てをつかって暖めてもらうのも、たまにはいいだろう。


 「澪……」


 瞼を閉じれば記憶にある七瀬の、暖かい笑顔が浮かぶ。
 今はまだ頭の中にしかいない七瀬だが、あと5分、いや3分ほど歩いた先には現実に抱く事が出来るのだ。

 椎名の足は自然と早まっていた。
 普段と変わらぬ道を、普段より早足で進めばもう我が家までは扉一枚隔てるだけとなる。

 ドアをあければ、七瀬がいる。
 あとはカギを開けるだけで、七瀬の身体を思う存分堪能する事が出来るのだ。

 そう思えば幸福だが、先にある幸福に気が焦りすぎ、カギをさすのに手間取ってしまう。


 「くそ……カギはここに入ってるはずなんだがなっ」


 カギを探すのも億劫になり、乱暴にドアノブをまわしてみる。
 そんな椎名の存在に気付いたのか、彼がカギを探し当てるより先に内側からドアが開いた。

 部屋から漏れる薄明かりとともに、待ち望んだ顔が姿を現す。


 「何かドアからガチャガチャ音がするなー、って思ってたら……あはっ、やっぱり淳兄ぃだ。おかえり、淳兄ぃ! もうそろそろ時間だから、きっと淳兄ぃが帰ってきたんだと思ったんだ!」


 愛用しているオレンジのエプロンが、ライトに照らされいつもより暖かく眩しく見える。


 「澪……」


 椎名は外の寒さを忘れようとするかのように、彼の身体を抱きしめると貪るように唇を求めた。


 「えっ!? あ、ちょ、ちょっ……淳兄ぃ!?」


 唐突に抱きしめられ、抵抗する素振りを見せる七瀬のその小さな抵抗を押さえつけ、半ば強引に唇を重ねる。


 「んぅっ……んぅ、ぅ……」


 僅かに身動ぎをして、唇からは何か言いたそうな声と吐息が漏れる。
 だが、今日は抗議を聞いてやるつもりはない。

 自らのネクタイを外しながら、片手で七瀬のエプロンを紐解く。


 「ふぁっ……駄目だよ、淳兄ぃこんな所で、それに。まって、今日はね、あのねっ……」
 「駄目だ、待てない……」


 抵抗を見せる七瀬の両腕を抱きしめるよう掴むと、ほどけたネクタイはそのままで再度唇を重ねる。
 抗議の言葉を口にしようとした七瀬の唇に出来た僅かな隙間に舌をねじ込み彼の舌を思いっきり慈しんでやれば、すっかり潤んだ目が椎名の身体に艶やかな視線を向けるようになっていた。


 「だ、駄目だよっ。淳兄ぃ、おれぇ、そんな風にされるとっ……」
 「いいだろう、別に?」

 「そ、そうだけど。おれ、淳兄ぃなら何されてもいい、けど。でも、今は……」


 歯切れ悪く語る七瀬の唇を触れるだけのキスで塞いでから、首筋へ、胸元へ舌を滑らせ慈しむ。

 恐れから拒絶をするのならこの唇で、内にあるそれすべてを包み込もうとするかのよう優しく。
 だが、情欲の炎は消さないように。

 長く抱き続けた身体だから、椎名はもう彼の身体の何処に触れれば快楽を感じ歓喜に打ち震えるのかはよく熟知していた。


 「んぅっ、ふぁっ……淳兄ぃ、だめだめだめ、急ぎすぎだよぉ、おれぇ、おれぇっ……」


 引ったくるようにエプロンを外すと、ワイシャツのボタンを外すのも億劫にで、半ば引きちぎるような形で七瀬の胸元をさらけ出す。
 元より感度の高い七瀬の身体はすでに火照り、その胸元はより快楽を求めるようピンと尖っているのを指先で確かめた。


 「何が駄目なんだ、澪……もう、すっかり勃ってきてるじゃないか?」


 すっかり尖ったその胸元を悪戯するよう爪弾けば。


 「ふぁっ! んぁ、あ!」


 七瀬はその都度甘い声をあげ、仰け反るような反応を見せる。


 「この身体でまだ俺を拒絶するのか? ……俺が欲しいと言え。そうしたら、楽にしてやるぞ?」


 耳元で囁きながら、片手では七瀬のズボンに手をかける。

 拒絶するはずがない。
 彼の身体を知り尽くした椎名には、確信に近い自信があった。


 「淳兄ぃ……でも、今日はぁっ……」


 だが、その日の七瀬はなかなかに強情だった。
 何が彼の心をここまで頑なにさせているのだろうか……椎名がその理由を考えようとした、その時。


 「へぇっ……やるじゃないか、マイブラザー! お兄ちゃんお前の事見直しちゃったぞー!」


 聞き覚えのある声が。
 だが今は全く聴きたくなかった声が椎名の耳に入る。

 まさかと思い顔を上げれば、声を聞いて思い浮かべた人物と同じ男の顔が……。
 椎名淳平の兄である男・椎名哲馬のにやけた顔が絡み合う彼らを見つめていた。


 「なっ……豚、いつの間に家に」
 「いつの間に! って……人を不法侵入者扱いしないでくれマイブラザー! ほら、玄関に俺の靴あるだろ? ホレ」


 哲馬が指さした場所には確かに、プロレスラーの靴だと言っても信じてしまえる大きさの靴が乱雑に置かれている。

 身長は190cmを越え、体重は三桁に届く巨漢の哲馬は全てにおいてビッグサイズだ。
 この巨大な靴を履く知り合いは、椎名の知人には他に居ない。

 だが、兄が今日来ているとは思ってもみなかった。

 椎名の兄は商業誌で連載を持つ漫画家である。
 細々ながら人気もあるようで現在も月刊誌の連載を抱えている上に、趣味で同人誌なども出している為、かなり多忙で、よほど暇がなければこの家まで訪れる事はないのだが。


 「貴様、何をしに来た。ブタ……」

 「いやー、それにしてもホントに安心したぞー、マイブラザー。お前、すっごい奥手で性欲なんてまったく無いような枯れた外見してるから、若くて元気なみー ぽんは性欲を持て余すような日々を送っているんじゃないかと心配したけど……こんなアグレッシブにみーぽんの身体を求める事もあるなんてな! これだけあっつい愛情を注いでもらえば、みーぽんの夜も安心だ!」

 「俺の質問に答えろ豚ァ! というか何でここに居る。いや、もうこれ以上ここに居るな、出ていけ。出ぇーてぇ、いけー!」
 「だ、駄目だよ淳兄ぃ、そんな言い方をしちゃ……哲馬兄ちゃんは、淳兄ぃのお兄さんだよっ!」


 噛み付く程の勢いで食ってかかる椎名を、七瀬が止める。


 「それに、淳兄ぃ。哲馬兄ちゃんは、今日、引っ越しの話をしに来てくれたんだよ……」
 「引っ越し?」


 七瀬にそう告げられて、椎名は以前彼とかわした約束を思い出した。


 『おれ、一人でやってみたいんだ。淳兄ぃに支えて貰うだけじゃなくて、淳兄ぃを支えて歩けるように……淳兄ぃと並んで歩ける立派な男になりたいから……』


 七瀬に、唐突にそう告げられたのはもう随分前の事になる。

 自分の庇護から離れて生活をしてみる。
 そう告げられた時は多少狼狽したが、七瀬の決めた事だからと背中を押してやる事にした。

 それから現在まで、いつもの生活が。
 暖かく優しい彼の心と体、全てが傍らにある生活のままだったから、離れて暮らすという実感が今ひとつないまま曖昧な日々を過ごしていた。

 だが、七瀬の決意は本物だった。
 決別の日まであと十日あまり。
 これが過ぎたら、離れて暮らさなければならない。

 七瀬が……。
 優柔不断で自分に自信がなく、いつも椎名の後ろに隠れるような生活をした七瀬がはじめて、自分で決めた事なのだから、応援しなければいけない。
 頭ではそう解っているのだが……。

 自分の元から、彼がいなくなる。
 そう思うと、不意にもの悲しさと寂しさが襲いかかってきた。


 「何だ、急に黙っちまいやがって……可愛いみーぽん、手放すのやっぱり惜しくなっちまったんじゃ無ぇーのかー?」


 兄に茶化され、椎名は内心の寂しさを気取らせまいとわざと強がる振る舞いを見せる。


 「あ、そう……だったな。それで、引っ越しの日は……」
 「おいおい、ブラザー。忘れたのか、28日だよ、28日。その日になったらここ、引き払って……みーぽんは住み込みの仕事、お前も別のアパートに引っ越すんだよ、な!」


 七瀬が独り立ちするため、住み込みで働こうとした事をきっかけに、椎名もまた自分の道を模索する為、再度学校の門をを叩く事に決めた。

 引っ越しを終えた翌月からは、七瀬は住み込みの仕事。自分は大学へ。
 お互い別々の生活がはじまるのだ。

 別に、心が離れて別れる訳ではない。
 お互い、再び出会う為に一時別れるだけの事だ……。

 頭では解っている。
 だが、現実に七瀬が自分の元から去るのだという実感が表れ寂しさばかりが胸に募るのだった。

 知らぬ間に、彼の温もりが傍らにある日が当たり前になっていたから、彼の傍から離れるのがただ、辛かった。


 「そうか……」


 もう、この部屋で一緒に過ごす時間はあまり無いのだ。
 その思いが自然と、七瀬の手を握らせた。

 普段であればその姿を見ただけですぐにからかい茶化すのが椎名の兄、哲馬という男だったが、この時は弟の気持ちを察する事が出来たのだろう。
 優しく椎名の肩にふれると、彼らしくもない穏やかな笑顔を見せた。


 「ま、俺の方はもう打ち合わせは終わったし……そろそろ帰るから。後は頑張って続きに励みたまえよ、マイブラザー」
 「ばっ、何いって……」

 「ははは、サラバだマイブラザー&マイカズン! 空気を読める兄さんは颯爽と去るぞ! ふはははは!」


 自ら空気が読めるなどと宣っている時点で有る程度空気は読めてないのだが、それでも茶化すだけで去るのは哲馬なりに気を使ったのだろう。
 残された二人の視線が、自然と近くなっていく。


 「淳兄ぃ……」


 今さっきまであった、燃え上がるように求める気持ちはすっかり薄らぎ、かわりに強い寂しさが椎名の心を支配していた。

 もうすぐ隣にあるこの姿が、傍になってしまうのだ。
 すぐに触れる事の出来る場所にはもう……。

 七瀬はそんな彼の手を握りしめると、少し背伸びをして椎名と触れるだけの優しいキスを交わす。


 「ね、淳兄ぃ……続き、しよっか! 思いっきりギュって、強くさ……さっきみたいに、俺の事、壊れちゃうくらい強く抱いてよ、ね?」


 顔いっぱいに作られた笑顔。
 その目が僅かに潤んでいたのは、情欲が募ったからではないだろう。

 きっと七瀬も椎名と同じ、不安と寂しさで一杯なのだ。
 いや、不安という意味だけならきっと七瀬の方が強い。

 七瀬はずっと、自分に守られて生活していた。
 その庇護から抜け出る覚悟は、容易なものでいはずだ。

 そんな七瀬が不安を押し殺して、自分の為に笑顔でいてくれるのだ。
 それだというのに自分まで、寂しい顔をしているワケにはいくまい。

 この笑顔に応えてやるべきだろう。


 「あぁ……そうだな」


 柔らかな指先を握りかえし、今度は穏やかに唇を重ねる。

 離れる事の不安、寂しさ、哀しさ。
 それら全てが混ざり合った感情を忘れる為、そして離れても揺るぎない互いの気持ちを確かめ合う為、二人はいつもより深く、抱きしめあう。

 一時の別れが再び出会う日までの礎である事を、互いに誓い合うように。






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